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『春秋学入門』3-4

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第三論文

〔特筆の大旨〕(つづき)

名実を正すとは何か。――左氏伝は隠公を摂政だと言うが、聖人は「公」と書いている。ならば摂政ではない。左氏伝は許止〔が君父を死に追いやったの〕は薬を舐めなかったからだと言うが、聖人は「弑す」と書いている。ならば薬を舐めなかったのではない。卓は踰年の君ではないのに、聖人はその名を正して「君」と書いている。ならば里克は弑君の罪から逃れられなかった〔補8〕。夷皐が弑されたとき、〔趙盾は〕罪を趙穿になすり付けたが、聖人は〔弑君の賊として〕「盾」と書いた。趙盾はその本心を覆い隠すことができなかった〔補9〕。斉の無知や陳の佗は踰年の君主であるが、これを「殺」と書くことで、討賊の名を正した〔補10〕。陽虎は陪臣であるが、これを「盗」と書くことで、身分の低き者〔校2〕の罪を正した〔補11〕。これらは全て名実を正したものである。

機微を著らかにするとは何か。――「鄭伯 宛をして来たりて祊を帰らしむ」(隠8)を承けて、聖人は「入る」と書いている(*14)。「入る」とは、受け入れを拒まれたことを意味する言葉である〔補12〕。「天王 河陽に狩す。壬申、公 王所に朝す」(僖28)は、〔魯の僖公が〕狩にかこつけて王に朝覲したことを明らかにしたものである。「公 京師より、遂に諸侯(*15)に会し秦を伐つ」(成13)は、諸侯に会〔校3〕して秦を伐つついでに京師に赴いたことを明らかにしたものである。「公子結、〔陳人の〕婦〔を鄄〕に媵し、遂に斉侯・宋公と盟す」(荘19)は、公子結の専断を明らかにしたものである〔補13〕。「公 斉侯・鄭伯に中丘に会す。翬 師を帥ゐ斉人・鄭人に会し宋を伐つ」(隠10)は、公子翬の擅権を明らかにしたものである。葵丘の会は周公が参加した(僖9)。しかしすぐその後に「戊辰、諸侯 葵丘に盟す」とある。これは〔周の〕宰である周公が盟に参加しなかったことを明らかにしたものである (*16)。溴梁の会は諸侯が参加した(襄16)。しかしすぐその後に「戊寅、大夫 盟す」とある。これは大夫が勝手に盟したことを明らかにしたものである(*17)。これらは全て幾微を著らかにしたものである。

その他の書法(*18)については、一言にして尽くせるものではないが、その大旨はこの三者の外に出るものではない。

〔訳者注〕
(*14)隠公8年の左氏経文に「三月、鄭伯使宛來歸祊。庚寅、我入祊」とある。
(*15)正確には成公13年の左氏経文は「諸侯」を「晉侯・宋公・衞侯・鄭伯・曹伯・邾人・滕人」である。
(*16)僖公9年の経文には「夏、公會宰周公・齊侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘。……九月、戊辰、諸侯盟于葵丘」とある。呂大圭の読み方では、葵丘の会は周王の宰が参加した周王主催の会であったが、その直後に行った盟は、周王のあずかり知らないところで、諸侯だけが行ったものだ、ということになる。
(*17)襄公16年の経文に「三月、公會晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子于湨梁。戊寅、大夫盟」とあるのによる。解釈の方法は葵丘の盟に対するものと同じ。
(*18)書法は春秋学の用語の一つ。経文の書き方のこと。第二論文の補注1を参照。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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