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『春秋学入門』4-2

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第四論文

〔世変〕(つづき)

春秋の時代に突入すると、夷狄は〔中華の地で〕暴れるようになったが、それでもなお〔中国と夷狄に〕勝敗があった。しかし獲麟の前年になると、呉が蛮夷の習俗のまま、気兼ねなく晉侯とともに両伯となった(*7)。春秋の時代に突入すると、大夫は〔諸侯の力を抑えて〕権力を握るようになったが、それでもなお君主の位を奪うものはなかった。しかし獲麟の年になると、斉の陳常は君を弑し、これ以後、斉は田氏の所有に帰した(*8)。魯に於いても、季孫が君主〔の昭公〕を放逐して以来、国政は全く三家に握られ、魯の君主は贅旒〔の如き飾り物〕となってしまった(*9)。晉に於いても、趙鞅が絳に入って以来、国政は全く六卿の手に握られることになった。趙籍・韓虔・魏斯が諸侯となる前兆は、もう整っていたのである(*10)。かつては中国と関係ある夷狄の中、楚が最も強大だった。ところが今や一等国たる東方の魯が、辺鄙なる下国の越ににじり寄り、自存の計をなしている。かつては諸侯にはなお伯者(*11)がいた。ところが今や伯主の威令は振るわず、城を争い地を狙う諸侯は連日のように揉めごとを起こし、一日として安寧のときがなくなった。したがって、獲麟以前のことは、〔王者の秩序ある〕世道が変化して春秋の時代になったものと言えよう。そして獲麟以後にまた世道が変化して、戦国の世となったのである。これを世道一変の機と言わずにおれるだろうか。これこそ春秋の終わる理由である。

〔訳者注〕
(*7)黄池の会を指す。黄池の会は解釈が分かれる。宋代では孫復以来の「黄池の会を以て春秋の終わりに充てる」学説と、左氏伝を重んずる「単なる諸侯会合の記録」とみなす学説の二つがある。呂大圭は前者を取ったのであろう。『春秋或問』巻20の公会晉侯及呉子于黄池条を参照。 (*8)陳常は陳恆(田成子)のこと。陳恆の弑君は、哀公14年の左氏伝続経に「齊人弑其君壬于舒州」とあり、左氏伝に「甲午、齊陳恆弑其君壬于舒州」とある。
(*9)季孫氏による昭公の放逐は昭公25年のこと。三家は季孫氏、叔孫氏、孟孫氏を指す。
(*10)趙鞅のことは、定公13年の左氏伝経文に「秋、晉趙鞅入于晉陽以叛」とあるのを指す。六卿は知・趙・韓・魏・范・中行の六氏を、「趙籍・韓虔・魏斯云々」は趙・韓・魏が諸侯となったことを指す。なお本文の叙述には誤りがあり、正確には趙鞅の叛乱により范氏と中行氏が滅亡し、知・趙・韓・魏の四氏が権力を握った。
(*11)「伯者」は覇者に同じ。下の「伯主」は伯国(伯者の国)の君主の意。

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