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『春秋学入門』5-2

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第五論文

(つづき)

〔左氏の得失〕

さて左氏は、一つの事に対して、必ずその由来を明らかにしている。また虚実を見抜き、世情に熟達してもいる。しかし往々にして成功と失敗を問題として、その是非を問題とせず、時勢の流れ泥んで、大義の所在に暗いところがある(*4)。

例えば、周と鄭が人質を交換したことに対して、左氏は「信用は真心がなければ、人質がいても無益である」と言う(*5)。宋の宣公が穆公を跡継ぎとしたことに対して、「人を知るものと言わねばなるまい」と言う(*6)。鬻拳が兵の威力を借りて楚子を諫めたことに対して、「鬻拳は君主を愛している」と言う(*7)。逃亡しては国境を越えず、帰国しては〔弑君の〕賊を討たなかった趙盾に対して、「惜しいことだ、国境を越えていれば〔賊を討たなかった罪は〕免れたものを」と言う(*8)。これらは左氏が理に暗いがためである〔補1〕。

さらに左氏の叙述には、事の叙述に際して、実を失ったものがとりわけ多い。例えば、楚は力を蓄えるや、あっという間に東方諸侯を侵蝕しはじめた。しかしまず斉の桓公が現れて楚を駆逐し、ふたたび晉の文公が楚を駆逐した。その功績は偉大である。これこそ孟子の言う「〔悪いことは悪いが〕まだましなもの」(*9)である。しかし楚を駆逐するに際して、軽々しく兵を挙げるだけでできただろうか。まず楚の手足を断ち切り、その同盟諸国を解体してからでなければ、容易ではなかったろう。だから桓公が楚を駆逐したときには、まず〔楚の同盟国だった〕蔡に軍を進める必要があったし、晉の文公が楚を駆逐するときには、まず曹と衛に軍を進める必要があった。これが事実である。

しかし左氏はこの事実を理解せず、桓公が蔡に軍を進めたことに対しては、「蔡姫の為である」(*10)と言い、文公が曹と衛に軍を進めたことに対しては、「入浴をのぞき見し、土塊を与えた為である」(*11)と言っている。左氏がこの種の誤謬を犯すのは、事の由来を探るべく、些細なことに気を取られたためである。このため夷狄を駆逐し、中夏を安撫した桓公と文公の偉大な功績に対して、かえって理解が及ばなかったのだ。その他の叙述も概ねこれと同じである。ならば左氏の記す事は、確かに放擲してよいものではないが、信頼し切ってもいけないのである。

左氏学派の人々は、「丘明は春秋経を仲尼から受けた」(*12)、「〔丘明は〕聖人と好悪を同じくする人だ」(*13)と主張する。しかし左氏の主張は経に悖るものが多く、とても聖人と好悪を同じくする人とは言えない。孔子は「左丘明 之を恥ず。丘も亦た之を恥ず」と言ったが、恐らくこれは「ひそかに〔太古の賢人〕老彭に比(なぞら)う」(*14)と同じ意味であろう。ならば丘明は〔彭祖と同じく〕孔子以前の人ということになる。しかし左氏伝による春秋の解釈は、智伯〔の滅亡〕で終わっている。ならば孔子以後の人ということになる(*15)。

ある人は「聖人と好悪を同じくした人は左丘明で、春秋伝〔すなわち左氏伝〕を作った人は左氏だ」と言う(*16)。根拠ある発言である。またある人は「左氏は六国時代の人だ」と言い(*17)、またある人は「楚の左史倚相の後裔である」と言う(*18)。なるほど、左氏伝にある「虞は臘せず」などの言葉(*19)は、秦人が十二月を臘月とした(*20)ことによるものであろう。また左氏伝の叙述は、楚のことが極めて多い。無経の伝はあっても、無伝の経は存在しない(*21)。これもまた根拠ある発言である。

〔訳者注〕
(*4)行為の利害ばかりを問題視し、その行為が倫理的に正しいか否かを忘れている、という意味。
(*5)隠公3年の左氏伝に見える。
(*6)同上。
(*7)荘公19年の左氏伝に見える。
(*8)宣公2年の左氏伝に見える。
(*9)『孟子』尽心下の「春秋無義戰、彼善於此、則有之矣」をふまえたもの。春秋には正しい戦いなどないが、ましなものはある、という意味。
(*10)僖公3年の左氏伝に見える。左氏伝には、斉の桓公は蔡の姫君と船遊びをしたとき、ふざけて舟を揺らした姫君に腹を立て、これを離縁して蔡の国に帰した。ところが蔡の人はすぐに姫君を別の国に嫁に出した、とある。これと蔡侵略との関係は見えない。ただし杜預の注には「明年の斉の蔡侵略の為に伝を発した」とある。
(*11)正確な記述ではないが、僖公28年の左氏伝を指すのであろう。なお入浴をのぞき見たのは曹の共公で、土塊を差し出したのは衛の民である。
(*12)杜預の序に「左丘明受經於仲尼」とあるのによる。杜預は左伝学者として著名。
(*13)『漢書』劉歆伝に「〔劉〕歆以為左丘明好惡與聖人同」と見える。顔師古は下に見える『論語』公冶長の「子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之」を根拠に挙げている。劉歆は左伝学者として著名。
(*14)『論語』述而の言葉。
(*15)左氏伝の最後は、孔子没後十数年の智伯滅亡で終わっている。ならば左氏伝を完成させた人物は、孔子没後まで生存していなければならない。
(*16)趙匡の学説。『春秋集伝纂例』巻1趙氏損益義を参照。
(*17)『六経奥論』巻4の左氏非丘明辨(左氏乃六國人)に見える。以下の諸説は創始者不明の場合が多い。そのため著名なもののみあげておく。
(*18)左史倚相は昭公十二年左氏伝に見える。『朱子語類』巻83春秋綱領の「或云左氏是楚左史倚相之後云々」を参照。
(*19)僖公五年左氏伝に見える言葉。臘は歳末の祭りの名。「虞は臘せず」は「虞国は臘の祭祀を行い得まい」、つまり「虞国は臘の時期までに滅亡する」の謂。
(*20)『二程外書』巻11の「子言左傳非丘明云々」に見える程頤の学説。また『六経奥論』巻4左氏非丘明辨など。
(*21)「無経の伝」は対応する経文のない伝のこと。左氏伝に多く、穀梁伝にも少しく存在する。公羊伝にはないとされる。「無伝の経」は「無経の伝」に対する造語で、対応する伝文のない経の意。この学説の保持者は不明。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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