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『春秋学入門』5-4

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第五論文

(つづき)

〔何休と范の得失〕

公羊の過失については、既にその一二〔校3〕を挙げた。しかし何休の過失はさらに甚だしい。「元年春王正月」(隠1)に対して、公羊伝は「君主の始年である」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は新王の受命を魯に託した」(*29)と言う。滕侯の卒に「名」〔校4〕を書かないことに対して(隠7)、公羊は「滕は微国だから、侯と書いても紛れない」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は魯を王とし、隠公を始め〔て命を受けた王〕と見なした」と言う。そもそも「周を退け、魯を王とする」学説(*30)は、公羊に明文がない。ところが何休はこれを主張している。聖人を誣告すること実に甚だしいと言わねばならない。

公羊は「母弟を弟と称し、母兄を兄と称す」(*31)と言う。これは既に間違っている。しかし何休はさらにこう言うのである。――「春秋は、周の文を変じ、商の質に従った。質家は親に親しむ。だから群公子よりも一等親しむべきことを明らかにしたのである」(*32)と。後世、同母弟に親しみ、父の子孫を冷遇した者は、いつもこの言葉を拠り所とした。公羊は「嫡子〔校5〕を〔後継ぎに〕立てる場合、年長を選び、賢き者を選ばない。庶子を立てる場合、身分の貴きを選び、年長を選ばない」(*33)と言う。この言葉は確かに根拠がある。ところが何休はこう言うのである。――「嫡子が孫を遺して死んだ場合、質家は親に親しむから、先に弟を後継ぎとする。文家は尊を尊ぶから、先に孫を後継ぎとする」(*34)と。後世、質家と文家の異同に惑い、嫡庶の騒動を引き起こした者は、いつもこの言葉を拠り所とした。

これ以外にも、「〔公 〕戎と〔潜に〕会す」(隠2)の経文を解釈しては、「王者は夷狄を治めない。しかるに『戎』を経文に記すのは、来るものは拒まず、去るものは追わぬからだ」と言う。春秋が作られたのは、もとより夷狄と中華の区分を正すためである。それなのに「夷狄を治めない」などと言ってよいのだろうか。「天王 〔宰咺をして〕来たりて〔恵公仲子の〕賵を帰らしむ」(隠1)を解釈しては、「王者はその土地によって諸侯に職を分かち、ともに南面して統治に当たる。全くの臣下として遇しない」と言う。春秋が作られたのは、もとより君臣の分を正すためである。それなのに「全くの臣下として遇しない」などと言ってよいのだろうか。

「隠公三年〔校6〕、春、二月、己巳、日に之を食する有り」に対して、公羊は「異を記した」と発言するに過ぎない。ところが何休は「〔この異を記したのは、〕これ以後、衛の州吁は君主を弑し、諸侯ははじめて〔諸公の〕まねごとをしだしたからだ」(*35)と言う。桓公元年の「秋、大水あり」に対して、公羊は「災を記した」というに過ぎない。ところが何休は「〔災を記したのは、〕これ以前、桓公は隠公の位を簒奪し、勝手に〔鄭と〕朝宿の地を交換した(*36)。その陰気と怨気(*37)が〔この大水を〕招いたのだ」と言う。その他、地震・山崩・星電・雨雪・螽・螟・彗孛 (*38)などに対しても、執拗に天変の原因を追及し、人事と災異の対応(*39)を証明しようとする。もし一致を見い出せないようなら、強弁して止まない。春秋はもともと災異の対応を記さない。ましてやこれほど煩瑣滅裂なことがあろうか。この種の発言はすこぶる多いが、すべて何休の妄作である。

愚見によれば、〔杜預・何休・范〕三子の解釈の中、范のみやや過失が少ない。彼は穀梁の穏当を欠く部分に対して、「私には分からない」と言っている。恐らく穀梁の過ちを批判してのことであろう。しかし何休は曲説をなし、公羊の過誤を増大させている。だから「范は穀梁の忠臣だが、何休は公羊の罪人だ」と言うのである。

〔訳者注〕
(*29)魯を命を受けた新王と見なした、と言う意味。
(*30)孔子は春秋経を作ったとき、経文上では魯を受命の王とみなし、従来の王である周を退けた、という学説。公羊学特有の論理で、その他の春秋学者は否定している。
(*31)隠公7年の公羊経文「齊侯使其弟年來聘」に対する公羊伝に見える。母弟・母兄は同母弟・同母兄の意。
(*32)同上の何休注に見える。商は王朝の名。周の前の王朝。質家は内実を重視する人々。質家は内実を重視するから親族を重んずる。
(*33)隠公元年の公羊伝に見える。「後継ぎを決める場合、正妻の子供は年齢順で選び、人物の優劣で選ばない。妾の子の場合は、身分で選び、年齢で選ばない」の意。
(*34)文家は形式を重視する人々。文家は形式を重視するから、君の系統を重んずる。
(*35)衛の州吁は隠公4年の経文に見える。「諸公のまねごと」は、隠公五年「初献六羽」の公羊伝に拠る。
(*36)桓公元年の「鄭伯以璧假許田」を指す。公羊伝は「許田」を魯の朝宿の地(周王に謁見するために宿る土地)と解釈する。
(*37)何休の「陰逆而與怨氣并之所致」をふまえた発言。公羊疏は「『陰逆』は勝手に朝宿の地を交換したことを指し、『怨気』は〔隠公が弑されたことに対する〕民の悲痛の心を指す」と解釈する。
(*38)地震は「九月癸酉、地震」(文公9年)、「五月甲子、地震」(襄公16年)、「己卯、地震」(昭公19年)、「八月乙未、地震」(昭公23年)を指す。山崩は成公5年の「梁山崩」を指す。雨雪は「庚辰、大雨雪」(隠公9年)、「冬十月、雨雪」(桓公8年)、「春王正月、大雨雪」(昭公4年)を指す。彗孛は「有星孛入于北斗」(成公14年)、「有星孛于大辰」(昭公17年)、「有星孛于東方」(哀公13年)を指す。螽、螟は諸所に見られる。星電は「三月癸酉、大雨、震電」、もしくはこれに加えて「夏四月辛卯、夜、恆星不見、夜中星霣如雨」(荘公7年)を指すのであろう。
(*39)「人事と災異の対応」は、人事に天が応じて災異を降すという天人相関説を述べたもの。人事に災異が応ずる以上、災異に対応する人事も求められるはずである。だから何休は災異があれば、その災異の原因を人事の中に求めたのである。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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