燕雲十六州の奪回(1)
谷真潮の春秋論(2)を書く予定だったが,最近少し疲れ気味なので,機械的作業でできることをすることにした。というわけで懸案の『宋史紀事本末』をこちらで翻訳することにした。手順としては,まずこちらに公開して,後で修正を加えてサイトに出すことにする。
それでは第53篇の復燕雲(燕雲十六州の回復)から。正式には燕州と幽州の奪回計画があっただけだが,まあ都合上この手の話しでは燕雲という場合が多い。なおいつもは訳文をボックスの中に入れ,注釈を外(つまり普通の書き込み欄)に書いているが,『宋史紀事本末』の訳出方針として,注は極力付けないことにしているので,本訳文に限り,ボックスは使わないことにする。
以下,本文。今回は第1回。
(01)徽宗の政和元年(1111)九月,端明殿学士の鄭允中と宦官の童貫を遼に派遣した。
(02)冬十月,童貫は遼の李良嗣を連れて帰国した。そこで〔良嗣を〕秘書丞とし,趙姓を授けた。
(03)重和元年(1118)二月,武義大夫の馬政に命じ,海上から金に向かわせ,遼の挟撃を約束させた。
(04)宣和元年(1119)春正月,金の君主は粘没喝(ネメガ)と討論の結果,渤海人の李全慶と女真の散覩を宋に派遣することにした。そこで国書および北珠・生金等を持たせ,馬政とともに宋に派遣し,通好を計った。
(05)二年(1120)二月乙亥(四日),趙良嗣を金に派遣した。
(06)八月,金人が宋に来て,遼の挟撃および歳幣について議論した。馬政を派遣して金に報告させた。
注釈
(1)以下,原文は国名を省略するが,訳文では適宜これを補足した。ただし煩瑣を避けるため〔〕を省略した。
(2)この一文不詳。
(3)建中靖国に諫言を受け入れたが,蔡京によって紹述が始まり,対立集団に先帝誹謗のレッテルを貼り付け,政界から追放したという意味。
それでは第53篇の復燕雲(燕雲十六州の回復)から。正式には燕州と幽州の奪回計画があっただけだが,まあ都合上この手の話しでは燕雲という場合が多い。なおいつもは訳文をボックスの中に入れ,注釈を外(つまり普通の書き込み欄)に書いているが,『宋史紀事本末』の訳出方針として,注は極力付けないことにしているので,本訳文に限り,ボックスは使わないことにする。
以下,本文。今回は第1回。
(01)徽宗の政和元年(1111)九月,端明殿学士の鄭允中と宦官の童貫を遼に派遣した。
童貫は西方部族を平定すると,遼も征服できると言い始めた。そのため遼に使者となり,国情を偵察したいと申し出た。そこで鄭允中を賀遼主生辰使とし,貫を副使とした。「宦官を上介(特使)にするとは。国に人はいないのか」と言う人がいた。帝は「契丹は貫が西方を平定したのを知り,あいたいと言って来たのだ。ついでに遼を偵察させるつもりだ。これこそ善策ではないか」と言った。こうして貫は派遣された。
(02)冬十月,童貫は遼の李良嗣を連れて帰国した。そこで〔良嗣を〕秘書丞とし,趙姓を授けた。
燕人に馬植という男がいた。もとは遼の名門貴族で光禄卿になったが,品行が悪く,他人を馬鹿にしていた。童貫が遼に使者となり,慮橋を通ったときのこと。植は夜中に貫の側近を見つけ,燕を滅ぼす策があると言って,貫との面会を取り付けた。貫は植と語り,その奇才に感心した。そこで〔宋に〕(1)連れて帰り,姓名を李良嗣と変え,朝廷に推薦した。
植は直ちに献策した。――「女真は遼をひどく怨んでおります。ましてや天祚(遼の皇帝)は暴虐不道です。もし本朝(宋朝のこと)が登州・莱州から海を渡り,女真と好みを通じ,遼の攻撃を約束すれば,遼を征服できましょう。」
これに対し,「祖宗の時代からその通路はありました。しかし蛮族の近地というので,商売の交通を禁じ,今でもう百有余年になります。一旦これを開けば,恐らく中国の利にはなりますまい」と批判するものがいたが,聞き入れられなかった。
帝は植を呼んで意見を求めた。
植,「遼は必ず滅びます。陛下におかれましては,彼地の民の塗炭の苦しみを念慮とし,中国の故地を回復し,天に代わって遼に譴責を行い,治をもって乱を伐っていただきたい。さすればひたとび王師が出るや,必ず〔彼の地の人々は本朝の〕兵を歓んで迎え入れるでしょう。もし女真が契丹を征服してしまえば,今と同じようにはいきますまい。」
帝はこれを喜んで受け入れ,〔良嗣に〕趙姓を授け,秘書丞とした。燕州平定の議はここから始まった。
植は直ちに献策した。――「女真は遼をひどく怨んでおります。ましてや天祚(遼の皇帝)は暴虐不道です。もし本朝(宋朝のこと)が登州・莱州から海を渡り,女真と好みを通じ,遼の攻撃を約束すれば,遼を征服できましょう。」
これに対し,「祖宗の時代からその通路はありました。しかし蛮族の近地というので,商売の交通を禁じ,今でもう百有余年になります。一旦これを開けば,恐らく中国の利にはなりますまい」と批判するものがいたが,聞き入れられなかった。
帝は植を呼んで意見を求めた。
植,「遼は必ず滅びます。陛下におかれましては,彼地の民の塗炭の苦しみを念慮とし,中国の故地を回復し,天に代わって遼に譴責を行い,治をもって乱を伐っていただきたい。さすればひたとび王師が出るや,必ず〔彼の地の人々は本朝の〕兵を歓んで迎え入れるでしょう。もし女真が契丹を征服してしまえば,今と同じようにはいきますまい。」
帝はこれを喜んで受け入れ,〔良嗣に〕趙姓を授け,秘書丞とした。燕州平定の議はここから始まった。
(03)重和元年(1118)二月,武義大夫の馬政に命じ,海上から金に向かわせ,遼の挟撃を約束させた。
これ以前,建隆年間,女真は蘇州――女真の地――から海を渡って登州を訪れ,その地で馬を売っていた。その通路がまだ残っていたのである。
ここに至り,漢人に高薬師という男がいた。海を渡って宋に到着すると,「女真は国を建て,しきりに遼の軍を破っている」と言った。登州守臣の王師中が報告書を提出した。そこで蔡京と童貫に詔を下し,共同で討議させた。また師中に命じて人を募らせると,薬師らとともに馬売買の詔を持たせて金に向かわせた。しかし海を渡れず,引き返した。帝はまた童貫に使者の選定させた。こうして馬政を薬師とともに海上から金に向かわせることになった。
政は金の君主に言った。――「主上(皇帝のこと)は貴朝(金朝のこと)が契丹の五十余城を破ったのを知りました。そこで貴朝と好みを通じ,ともに遼を討伐したいとご所望です。もし許していただけるなら,また使者を派遣していただきたい。」
これ以後,金との通好を始めた。
ここに至り,漢人に高薬師という男がいた。海を渡って宋に到着すると,「女真は国を建て,しきりに遼の軍を破っている」と言った。登州守臣の王師中が報告書を提出した。そこで蔡京と童貫に詔を下し,共同で討議させた。また師中に命じて人を募らせると,薬師らとともに馬売買の詔を持たせて金に向かわせた。しかし海を渡れず,引き返した。帝はまた童貫に使者の選定させた。こうして馬政を薬師とともに海上から金に向かわせることになった。
政は金の君主に言った。――「主上(皇帝のこと)は貴朝(金朝のこと)が契丹の五十余城を破ったのを知りました。そこで貴朝と好みを通じ,ともに遼を討伐したいとご所望です。もし許していただけるなら,また使者を派遣していただきたい。」
これ以後,金との通好を始めた。
(04)宣和元年(1119)春正月,金の君主は粘没喝(ネメガ)と討論の結果,渤海人の李全慶と女真の散覩を宋に派遣することにした。そこで国書および北珠・生金等を持たせ,馬政とともに宋に派遣し,通好を計った。
詔を下し,蔡京らに遼の挟撃を指示させた。善慶らは頷いた。十日の後,政を趙有開とともに金に向かわせ,詔書と礼物を運ばせることにした。そこで善慶らと海を渡って金に報告させた。〔一行が〕登州に到着すると,有開が死んだ。たまたま密偵から「遼は金の君主を帝に封じた」と報告があったので,政の渡航を禁じ,ただ平海軍校の呼慶だけを派遣し,善慶らの帰国させた。
金の君主は慶を帰国させたが,こう言付けした。――「私は既に遼の数路を手に入れた。お前は帰国すればこう伝えよ。もし通好を望むなら,早く国書を示すべきだ。なおも詔書を用いるようなら,通好は難しい。」
これ以前,高麗が医者を求めてきたときのこと。帝は二人の医者を高麗に向かわせた。ここに至り,〔二人の医者は〕帰国し,報告書を提出した。――「高麗の医官は甚だ勤勉で,いつも用兵・布陣・防御の方法を研究しております(2)。その高麗が言うには,『天子(宋の皇帝)は女真とともに契丹を討伐されるとか。しかし契丹があれば,まだ中国の守り手ともなりましょう。ところが女真は虎狼の人々,理解し合えるものではありません。早くに備えをなさいませ』と。」帝はこれを聞き,喜ばなかった。
安堯臣が意見書を提出した。
金の君主は慶を帰国させたが,こう言付けした。――「私は既に遼の数路を手に入れた。お前は帰国すればこう伝えよ。もし通好を望むなら,早く国書を示すべきだ。なおも詔書を用いるようなら,通好は難しい。」
これ以前,高麗が医者を求めてきたときのこと。帝は二人の医者を高麗に向かわせた。ここに至り,〔二人の医者は〕帰国し,報告書を提出した。――「高麗の医官は甚だ勤勉で,いつも用兵・布陣・防御の方法を研究しております(2)。その高麗が言うには,『天子(宋の皇帝)は女真とともに契丹を討伐されるとか。しかし契丹があれば,まだ中国の守り手ともなりましょう。ところが女真は虎狼の人々,理解し合えるものではありません。早くに備えをなさいませ』と。」帝はこれを聞き,喜ばなかった。
安堯臣が意見書を提出した。
陛下は即位したばかりの頃,求言の詔を下されました。そこで剛毅な人々は忠節を立てました。しかし邪悪な者共が陛下を誤らせ,〔先帝〕誹謗の罪を加え,陛下に諫言拒否の非難を負わせました(3)。それ以来,世の人々は口を閉ざしてしまいました。先程宦官は勅命を専らにし,権臣と結託し,北伐の謀事を唱えておりましたが,宰執以下,一人として陛下のために発言するものがおりません。私見によれば,燕雲の役が興れば,国境に亀裂が生じ,宦官が権力を専らにすれば,陛下の権能は衰えます。
むかし秦の始皇帝は長城を築き,漢の武帝は西域に通じ,隋の煬帝は高麗に遠征し,唐の明皇は幽薊に遠征しましたが,あのように失敗しました。周の宣王は北方の玁狁を伐ち,漢の文帝は匈奴に防備を構え,元帝は賈捐之の議を納れ,光武は臧宮・馬武の謀事を斥けましたが,あのように成功しました。
我が太祖皇帝は,乱世を治め不正を正し,みずから甲胄を身につけられました。当時の将軍・大臣はみな太祖ともに天下を取った人々にございます。その勇略智力をもって幽燕両州を下し得ぬはずがありましょうか。蓋し両州の地は,契丹が必ず争うであろうとて,我が赤子を戦禍に苦しめる忍びなかったに過ぎません。章聖皇帝(真宗)の折りも,契丹に勝利を収めながら,その和睦を許しました。これもまた国の根本を固め,民に休息を与えようと思し召されたからに他なりません。
現在童貫は蔡京と結託し,二人して燕人の李良嗣を懐刀とし,謀事をめぐらしております。このために燕雲平定の議が起きたのです。しかし恐らくいつの日にか,脣亡歯寒の喩えのごとく,辺境に乗ずべき亀裂を生ずましょう。夷狄は鋭気を蓄え隙を狙い,大いなる欲望を逞しくせんとするでしょう。これこそ私がいつも陛下のために寒心するところにございます。
陛下におかれましては,祖宗以来の艱難を心に留め,歴代君臣の得失を鑒み,辺隙を塞ぎ,〔景徳以来の〕旧好を謹守することで,夷狄が隙を衝いて中国を狙わぬようにしていただきたい。上には宗廟を安んじ,下には生霊を慰められませ。
むかし秦の始皇帝は長城を築き,漢の武帝は西域に通じ,隋の煬帝は高麗に遠征し,唐の明皇は幽薊に遠征しましたが,あのように失敗しました。周の宣王は北方の玁狁を伐ち,漢の文帝は匈奴に防備を構え,元帝は賈捐之の議を納れ,光武は臧宮・馬武の謀事を斥けましたが,あのように成功しました。
我が太祖皇帝は,乱世を治め不正を正し,みずから甲胄を身につけられました。当時の将軍・大臣はみな太祖ともに天下を取った人々にございます。その勇略智力をもって幽燕両州を下し得ぬはずがありましょうか。蓋し両州の地は,契丹が必ず争うであろうとて,我が赤子を戦禍に苦しめる忍びなかったに過ぎません。章聖皇帝(真宗)の折りも,契丹に勝利を収めながら,その和睦を許しました。これもまた国の根本を固め,民に休息を与えようと思し召されたからに他なりません。
現在童貫は蔡京と結託し,二人して燕人の李良嗣を懐刀とし,謀事をめぐらしております。このために燕雲平定の議が起きたのです。しかし恐らくいつの日にか,脣亡歯寒の喩えのごとく,辺境に乗ずべき亀裂を生ずましょう。夷狄は鋭気を蓄え隙を狙い,大いなる欲望を逞しくせんとするでしょう。これこそ私がいつも陛下のために寒心するところにございます。
陛下におかれましては,祖宗以来の艱難を心に留め,歴代君臣の得失を鑒み,辺隙を塞ぎ,〔景徳以来の〕旧好を謹守することで,夷狄が隙を衝いて中国を狙わぬようにしていただきたい。上には宗廟を安んじ,下には生霊を慰められませ。
帝はこれに賛同した。また久しく言路が滞っていることに留意し,言路を導く意味も込め,褒美として堯臣に承務郎を授けた。しかし後日邪悪な人々の手により,帝の意向は撤回させられた。
(05)二年(1120)二月乙亥(四日),趙良嗣を金に派遣した。
これ以前,呼慶は金から帰国すると,金の君主の意見を報告した。また金国の来書を提出し,別の使者を派遣して金と通好すべきだと言った。当時,童貫は燕州奪回の密旨を受けていたため,右文殿修撰の張良嗣を派遣したいと申し出た。そこで馬の売買を名目としつつ,実際は遼の挟撃を金と約束し,燕雲の地を奪回しようとした。
(06)八月,金人が宋に来て,遼の挟撃および歳幣について議論した。馬政を派遣して金に報告させた。
これ以前,趙良嗣は金の君主にこう言った。「燕はもともと漢の土地です。遼を挟撃する場合,金が中京大定府を取り,宋が燕京折津府を取るようにしていただきたい。」金の君主はこれを許可すると,歳幣に議論が及んだ。
そこで金の君主は手札を良嗣に渡した。――金兵は平地松林から古北口に向かい,宋兵は白溝から挟撃してすること。さもなくば従えない,と。こうして金は勃菫(金の高級官僚)を良嗣とともに宋に派遣し,その君主の言葉を伝えさせた。
帝は馬政を派遣して金に報告させた。帝の書には「大宋皇帝から書を大金皇帝にお渡しする。遠く親書を特使から承けました。特に函書をお示しします。契丹討伐のこと,約束の通りに致しましょう。すでに童貫に命じて兵を動かし,〔金兵に〕呼応させました。なお宋金の兵ともに関を越えては成りません。また歳幣は遼と同額にします」とあった。また契丹との講和を許さないことを約束しあった。
そこで金の君主は手札を良嗣に渡した。――金兵は平地松林から古北口に向かい,宋兵は白溝から挟撃してすること。さもなくば従えない,と。こうして金は勃菫(金の高級官僚)を良嗣とともに宋に派遣し,その君主の言葉を伝えさせた。
帝は馬政を派遣して金に報告させた。帝の書には「大宋皇帝から書を大金皇帝にお渡しする。遠く親書を特使から承けました。特に函書をお示しします。契丹討伐のこと,約束の通りに致しましょう。すでに童貫に命じて兵を動かし,〔金兵に〕呼応させました。なお宋金の兵ともに関を越えては成りません。また歳幣は遼と同額にします」とあった。また契丹との講和を許さないことを約束しあった。
注釈
(1)以下,原文は国名を省略するが,訳文では適宜これを補足した。ただし煩瑣を避けるため〔〕を省略した。
(2)この一文不詳。
(3)建中靖国に諫言を受け入れたが,蔡京によって紹述が始まり,対立集団に先帝誹謗のレッテルを貼り付け,政界から追放したという意味。
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