燕雲十六州の奪回(2)
『宋史紀事本末』のつづきで,燕雲十六州の奪回(2)になります。文中,宇文虚中の上奏はあまりに長いので,次回別の記事に掲げることにしました。収録内容は北伐開始直前から燕州奪回まで。金との諍いを作った張瑴の話しは次回以降になります。
バックナンバー:
燕雲十六州の奪回(1)
方臘の乱
以下,本文。
(つづき)
(08)五月乙亥(十八日),蔡攸を河北河東宣撫副使とし,童貫とともに兵を統べさせた。
(09)庚辰(二十三日),童貫は高陽関に到着すると,雄州知事の和詵の計略を用い,黄榜および旗を降ろし,弔民伐罪の意を示した。そこで「燕京から投降する豪傑がおれば,すぐ節度使にしてやろう」と触れ回り,都統制の种師道に諸将の軍を護衛させた。
(10)六月己丑(二日),种師道は退却し,雄州を守った。遼人は〔師道の軍を〕追って城下に逼った。帝は敗戦を知って恐怖に打ち震え,撤兵を命じた。
(11)秋七月,王黼は耶律淳の死を聞きつけ,また童貫と蔡攸に兵を統べさせた。河陽三城節度使の劉延慶を都統制とした。
(12)九月戊午(二日),朝散郎の宋昭を除名した。
(13)己未(三日),金人は童貫の挙兵を知り,朝廷(宋朝)が簡単に燕の地を領有してしまい,歳幣が手に入らぬのではと心配し出した(*2)。そこで徒狐且烏歇らを派遣して戦争の期日を議論させた。帝は趙良嗣を派遣して金に報告させ,「当初の盟約には背かぬ」と言付けさせた。
(14)己卯(二十三日),遼の将軍の郭薬師は,涿易二州とともに〔宋に〕投降した。
(15)冬十月,燕京を燕山府に改め,涿・易など八州に名を与えた。
(16)癸巳(八日),童貫は劉延慶と郭薬師に十万の兵を授け,雄州を出発させた。郭薬師の手引きで白溝を渡った。
(17)十一月戊寅(二十三日),金人が宋に来て,燕の地の処遇を議論した。
(18)十二月戊子(三日),趙良嗣を金に派遣した。
(19)庚寅(五日),郭薬師に武泰節度使を加えた。
(20)辛卯(六日),金が遼の燕京を落とした。
(21)五年(1123)春正月戊午(四日),金は使者を宋に派遣し。趙良嗣がまた金に出向いた。
(22)辛酉(七日),王安中を燕山府知事とし,郭薬師を同知府事とした。
(*1)歴代皇帝が盟約を守ってきたので,孝行者なら歴代皇帝の行いを継承するはずだ,という意味。
(*2)歳幣は宋と金が契丹を挟撃することに対する約束だった。だから宋が独力で燕州を後略すると,挟撃の約束が破綻し,随って金は宋から歳幣を得られなくなる可能性が生じる,と金は考えたのであろう。
(*3)他の戦争を任されたならの意。
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燕雲十六州の奪回(1)
方臘の乱
以下,本文。
(つづき)
中書舎人の宇文虚中は意見書を提出した。(別掲。北伐の批判)
意見書を三省に下げ渡した。王黼はこれを読んで激怒し,他の事をかき集め,〔虚中を〕集英殿修撰にすると,戦争を急かした。こうして北伐の議は収集がつかなくなった。
意見書を三省に下げ渡した。王黼はこれを読んで激怒し,他の事をかき集め,〔虚中を〕集英殿修撰にすると,戦争を急かした。こうして北伐の議は収集がつかなくなった。
(08)五月乙亥(十八日),蔡攸を河北河東宣撫副使とし,童貫とともに兵を統べさせた。
攸は愚昧で兵を知らず,功を立てるなど簡単だと発言していた。帝に出陣の報告をしたとき,二人の妃が帝の側に侍っていた。攸は二人を指さし,「私が成功して帰還した暁には褒美として賜りたい」と願い出た。帝は笑って非礼を咎めなかった。
(09)庚辰(二十三日),童貫は高陽関に到着すると,雄州知事の和詵の計略を用い,黄榜および旗を降ろし,弔民伐罪の意を示した。そこで「燕京から投降する豪傑がおれば,すぐ節度使にしてやろう」と触れ回り,都統制の种師道に諸将の軍を護衛させた。
師道は「今日のこと,例うれば盗賊が隣の家に入りながら,それを救わぬどころか,それに乗じて隣家を分けようなもの。恥ずべきことです」と諫めたが,貫は聞かなかった。兵を二方面から進め,師道は東路の兵を指揮して白溝に向かい,辛興宗は西路の兵を指揮して范村に向かった。
癸未(二十六日),耶律淳は〔宋の〕北伐を聞き,耶律大石と蕭幹に防がせた。師道が白溝に到着すると,遼人は囃しながら前進し,師道の前軍統制の楊可世を蘭溝甸で打ち破った。宋は多くの負傷兵を出した。師道は前に進み出ると,大梃を手に持たせ,防戦に務めた。このため大敗には至らなかった。
丁亥(三十日),辛興宋も范村で敗れた。
癸未(二十六日),耶律淳は〔宋の〕北伐を聞き,耶律大石と蕭幹に防がせた。師道が白溝に到着すると,遼人は囃しながら前進し,師道の前軍統制の楊可世を蘭溝甸で打ち破った。宋は多くの負傷兵を出した。師道は前に進み出ると,大梃を手に持たせ,防戦に務めた。このため大敗には至らなかった。
丁亥(三十日),辛興宋も范村で敗れた。
(10)六月己丑(二日),种師道は退却し,雄州を守った。遼人は〔師道の軍を〕追って城下に逼った。帝は敗戦を知って恐怖に打ち震え,撤兵を命じた。
遼の使者が〔貫のもとに〕来てこう言った。――「女真は本朝(遼のこと)に反旗を翻したのですから,南朝も憎むべき敵です。ところが南朝は一時の利を見て,百年の好を棄て,虎狼の隣国と手を結び,他日の禍を作ろうとしております。とても計を得たものとは申せません。災害を救い,隣国を哀れむは,古今の通義。貴国にはこれを考えてもらいたい。」貫は返答できなかった。
种師道はまた和平を求めたが,貫は聞き入れず,ひそかに「師道は賊の手助けをしている」と弾劾した。王黼は怒って,師道を右衛将軍に責授し,そのまま致仕させた。
种師道はまた和平を求めたが,貫は聞き入れず,ひそかに「師道は賊の手助けをしている」と弾劾した。王黼は怒って,師道を右衛将軍に責授し,そのまま致仕させた。
(11)秋七月,王黼は耶律淳の死を聞きつけ,また童貫と蔡攸に兵を統べさせた。河陽三城節度使の劉延慶を都統制とした。
(12)九月戊午(二日),朝散郎の宋昭を除名した。
昭は意見書を提出し,「遼を攻めてはならず,金と隣国になってはなりません。後のち金は必ずや盟約を破り,中国に禍をもたらしましょう。王黼・童貫・趙良嗣らを誅殺していただきたい」と口を極めて批判したばかりか,さらには「両国の盟約には,『これを敗るもの,その災禍は九族に及ぶ』とあります。陛下は孝をもって天下を治めながら,歴代聖帝の御霊をお忘れですか(*1)。陛下は仁をもって天下を包まれながら,河北の民を塗炭の中に置き,血みどろの苦しみを与えてお出でだ。これをなんとも思わないのですか」と。
王黼は激怒し,昭を除名処分にしたばかりか,勒停・広南編管とした。
王黼は激怒し,昭を除名処分にしたばかりか,勒停・広南編管とした。
(13)己未(三日),金人は童貫の挙兵を知り,朝廷(宋朝)が簡単に燕の地を領有してしまい,歳幣が手に入らぬのではと心配し出した(*2)。そこで徒狐且烏歇らを派遣して戦争の期日を議論させた。帝は趙良嗣を派遣して金に報告させ,「当初の盟約には背かぬ」と言付けさせた。
(14)己卯(二十三日),遼の将軍の郭薬師は,涿易二州とともに〔宋に〕投降した。
当時,薬師は遼の常勝軍の将軍として涿州を守っていた。〔淳が死んで,〕蕭后が立つと,蕭幹が権力を握ったが,多くの国民が反感を持った。
薬師が部下に言うには,「天祚帝は逃亡したし,女の政治ではうまくいくまい。宋の天子の精鋭が我が国境に逼っている。今こそ男児として金印(高級官僚の証)を取るときだ。」薬師はついに部下八千人を率いて,二州とともに投降した。
童貫は投降を受け入れ,帝に報告した。詔を下し,薬師に恩州観察使を与え,劉延慶の指揮下に入らせた。
薬師が部下に言うには,「天祚帝は逃亡したし,女の政治ではうまくいくまい。宋の天子の精鋭が我が国境に逼っている。今こそ男児として金印(高級官僚の証)を取るときだ。」薬師はついに部下八千人を率いて,二州とともに投降した。
童貫は投降を受け入れ,帝に報告した。詔を下し,薬師に恩州観察使を与え,劉延慶の指揮下に入らせた。
(15)冬十月,燕京を燕山府に改め,涿・易など八州に名を与えた。
(16)癸巳(八日),童貫は劉延慶と郭薬師に十万の兵を授け,雄州を出発させた。郭薬師の手引きで白溝を渡った。
延慶の軍には規律がなかった。薬師は「我が軍は無秩序,無防備。もし敵の伏兵でもあえば,我が軍は混乱し,敵軍を前に戦意を失いましょう」と諫めたが,延慶は聞なかった。
延慶の軍が良郷に到着すると,遼の蕭幹は兵を率いて防戦に当たった。延慶はこれに負け,防塁を閉ざして打って出ようとしなかった。
薬師,「幹の手勢はわずか一万。その全兵力を出して我が軍を防いでおります。ならば燕山は必ずやからっぽです。願わくは,私に奇兵五千を授けていただきたい。これで燕山を急襲すれば,城を落とせます。」また延慶の息子の光世の後援を願い出た。延慶はこれを許し,大将の高世宣・楊可世・薬師に六千の兵を授けた。
薬師らは夜半に盧溝を渡った。明朝,常勝軍の将軍の甄五臣は五千の騎兵を率いて迎春門を突破し,薬師らも相継いで到着した。人を遣って蕭后に〔投降を〕打診した。后はひそかに蕭幹に報告した。幹は精鋭三千を率いて燕に戻り,城下で宋軍と戦った。光世は約束を違えて軍を出さなかった。薬師は援護を得られず幹の軍に敗れ,可世と馬を棄てて城外に逃げ延びた。宋軍の死傷者は半数に上った。世宣は戦死した。
延慶は盧溝南方に陣取っていた。幹は兵を分けて糧道を断ち,糧道の守護将軍の王淵を生け捕りにした。また漢軍の二人を捕縛し,二人に目隠しを施し,帳の中に閉じ込めた。夜半,幹らはこんな嘘を密談しあった。――「我が軍は漢軍に三倍。十二分に余裕がある。そこで軍を左右両翼に分け,精鋭を真ん中に置き,漢軍を包み込んでしまおう。火が挙がれば軍を動かすのだ。連中を皆殺しにしようぞ。」会議が終わると,こっそり捕虜の一人を逃がしてやった。
延慶は捕虜の話を信じ込んだ。明朝,〔契丹軍から〕火が挙がると,延慶は敵軍の到来と思い込み,すぐに陣営を焼いて逃げ去った。宋軍は恐慌を起こし,死体は百余里も渡って続いた。幹は兵を出して宋軍を追跡して,涿河まで来て引き返した。
宋は煕寧元豊以来の軍をほとんど失った。延慶らは雄州まで撤兵し,その地を守った。燕の人は宋の無能を知り,賦や詩歌を作ってあざ笑った。しかし薬師は帰還すると安遠軍承宣使に昇進した。
延慶の軍が良郷に到着すると,遼の蕭幹は兵を率いて防戦に当たった。延慶はこれに負け,防塁を閉ざして打って出ようとしなかった。
薬師,「幹の手勢はわずか一万。その全兵力を出して我が軍を防いでおります。ならば燕山は必ずやからっぽです。願わくは,私に奇兵五千を授けていただきたい。これで燕山を急襲すれば,城を落とせます。」また延慶の息子の光世の後援を願い出た。延慶はこれを許し,大将の高世宣・楊可世・薬師に六千の兵を授けた。
薬師らは夜半に盧溝を渡った。明朝,常勝軍の将軍の甄五臣は五千の騎兵を率いて迎春門を突破し,薬師らも相継いで到着した。人を遣って蕭后に〔投降を〕打診した。后はひそかに蕭幹に報告した。幹は精鋭三千を率いて燕に戻り,城下で宋軍と戦った。光世は約束を違えて軍を出さなかった。薬師は援護を得られず幹の軍に敗れ,可世と馬を棄てて城外に逃げ延びた。宋軍の死傷者は半数に上った。世宣は戦死した。
延慶は盧溝南方に陣取っていた。幹は兵を分けて糧道を断ち,糧道の守護将軍の王淵を生け捕りにした。また漢軍の二人を捕縛し,二人に目隠しを施し,帳の中に閉じ込めた。夜半,幹らはこんな嘘を密談しあった。――「我が軍は漢軍に三倍。十二分に余裕がある。そこで軍を左右両翼に分け,精鋭を真ん中に置き,漢軍を包み込んでしまおう。火が挙がれば軍を動かすのだ。連中を皆殺しにしようぞ。」会議が終わると,こっそり捕虜の一人を逃がしてやった。
延慶は捕虜の話を信じ込んだ。明朝,〔契丹軍から〕火が挙がると,延慶は敵軍の到来と思い込み,すぐに陣営を焼いて逃げ去った。宋軍は恐慌を起こし,死体は百余里も渡って続いた。幹は兵を出して宋軍を追跡して,涿河まで来て引き返した。
宋は煕寧元豊以来の軍をほとんど失った。延慶らは雄州まで撤兵し,その地を守った。燕の人は宋の無能を知り,賦や詩歌を作ってあざ笑った。しかし薬師は帰還すると安遠軍承宣使に昇進した。
(17)十一月戊寅(二十三日),金人が宋に来て,燕の地の処遇を議論した。
(18)十二月戊子(三日),趙良嗣を金に派遣した。
これ以前,朝廷が金と約束したのは,石晉が契丹に与えた土地だけで,平・営・灤三州のことを忘れていた。この三州は石晉が与えた土地ではなく,劉仁恭が援軍を得るべく契丹に献じたものだった。すぐに王黼はこれを悔い,三州も奪おうとしたが,金の君主は許可しなかった。
趙良嗣が金に赴くと,金の君主は蒲家奴を遣わし,「宋は兵の期日を失った」と良嗣を批判し,さらに「今更もとの約束のことは言うまい。ただ燕京の薊・景・檀・順・涿・易の六州だけだ」とも言った。
良嗣,「もとの約束は山前と山後の十七州でした。ところが今はこう仰る。金に信義はないものか。」
良嗣の批判は四度に及んだが,金人は聞き入れなかった。そこで良嗣は金の使者の李靖をつれて宋に戻ったが,前山六州しか得られなかった。帝はまた良嗣に金に派遣し,営・平・灤の三州を求めた。
趙良嗣が金に赴くと,金の君主は蒲家奴を遣わし,「宋は兵の期日を失った」と良嗣を批判し,さらに「今更もとの約束のことは言うまい。ただ燕京の薊・景・檀・順・涿・易の六州だけだ」とも言った。
良嗣,「もとの約束は山前と山後の十七州でした。ところが今はこう仰る。金に信義はないものか。」
良嗣の批判は四度に及んだが,金人は聞き入れなかった。そこで良嗣は金の使者の李靖をつれて宋に戻ったが,前山六州しか得られなかった。帝はまた良嗣に金に派遣し,営・平・灤の三州を求めた。
(19)庚寅(五日),郭薬師に武泰節度使を加えた。
(20)辛卯(六日),金が遼の燕京を落とした。
当時,童貫は再度挙兵し,燕を攻めたが,失敗した。処罰を恐れた童貫は,ひそかに王瓌を金に派遣し,約束の通り〔燕を〕挟撃して欲しいと申し出た。金は三方向から兵を進め,ついに燕を攻め落とした。金は騎兵を遣って趙良嗣を宋に送り帰した。また遼の捕虜を宋に引き渡した。
(21)五年(1123)春正月戊午(四日),金は使者を宋に派遣し。趙良嗣がまた金に出向いた。
これ以前,良嗣は燕に到着すると,金の君主と燕京・西京の地について議論した。金の君主は「どうしても平・灤などの州を求めるなら,燕京も渡さぬ」と言って,答書を前もって良嗣に見せた。そして「燕京は本朝の兵が落とした。ならばそ地の租税は当然本朝に帰すべきだ」の件まで読み進めると,良嗣は「租税は地に従うもの。土地を与えておきながら,租税を与えぬものがいるでしょうか。」粘没喝(ネメガ),「燕京は我らが手に入れた土地。ならば当然我らがもの。もし渡せないなら,すぐにも涿州と易州の軍を追い払い,我が国土から出て行ってもらう。」そこで李靖ら良嗣とともに宋に向かわせた。
靖は帝に謁見してから,王黼とも面会した。黼は靖に,「租税は約束になかった。しかし陛下は友好のこととて,銀絹に代えたいと仰せだ。」靖は去年の歳幣をも求めた。帝は特別に許した。そこでまた良嗣と靖を金に向かわせた。
靖は帝に謁見してから,王黼とも面会した。黼は靖に,「租税は約束になかった。しかし陛下は友好のこととて,銀絹に代えたいと仰せだ。」靖は去年の歳幣をも求めた。帝は特別に許した。そこでまた良嗣と靖を金に向かわせた。
(22)辛酉(七日),王安中を燕山府知事とし,郭薬師を同知府事とした。
当時,朝廷は金人が燕を帰すというので,帥臣に守らせることにした。左丞の王安中が願い出ると,王黼も帝に勧めた。そこで安中を慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使・知燕山府とした。郭薬師を検校少保・同知府事とした。
詔を下し,薬師を朝廷に入れた。礼遇は甚だ厚く,薬師に一等地と姫妾を与え,水上遊技を開いて観覧させた。外戚や大臣らに宴会を開かせた。また後苑の延春殿に招いた。
薬師は庭下に拝すと,涙を流した。「私は契丹におりましたとき,趙皇(徽宗のこと)の天上にましますを存じておりました。それがまさか今日陛下の龍顔を拝し得るとは,思いもよらぬこと。」帝は深く褒め称え,薬師に燕の守備を任せた。薬師,「死をもって守り抜きます。」
また天祚を捕らえさせ,燕人の望を絶とうとしたところ,薬師は顔色を変え,「天祚は我が故主。国が敗れて逃亡したので,私は降伏しました。もし別の土地で死ねと仰せなら(*3),辞しは致しませんが,故主に刃向かうは陛下に忠を尽くすことになりません。願わくは他の者に仰せつけられたい。」こう言うと雨のように涙を流した。帝は薬師の忠に感じ入り,珠袍を脱いで与え,さらに二金盆も与えた。
薬師は御前を退出すると,その部下に「これは私の功ではない。お前たちの力だ」と言って,盆を分け与えた。
薬師は検校少傅を加えられると,燕に帰り,燕山府路の守備についた。
詔を下し,薬師を朝廷に入れた。礼遇は甚だ厚く,薬師に一等地と姫妾を与え,水上遊技を開いて観覧させた。外戚や大臣らに宴会を開かせた。また後苑の延春殿に招いた。
薬師は庭下に拝すと,涙を流した。「私は契丹におりましたとき,趙皇(徽宗のこと)の天上にましますを存じておりました。それがまさか今日陛下の龍顔を拝し得るとは,思いもよらぬこと。」帝は深く褒め称え,薬師に燕の守備を任せた。薬師,「死をもって守り抜きます。」
また天祚を捕らえさせ,燕人の望を絶とうとしたところ,薬師は顔色を変え,「天祚は我が故主。国が敗れて逃亡したので,私は降伏しました。もし別の土地で死ねと仰せなら(*3),辞しは致しませんが,故主に刃向かうは陛下に忠を尽くすことになりません。願わくは他の者に仰せつけられたい。」こう言うと雨のように涙を流した。帝は薬師の忠に感じ入り,珠袍を脱いで与え,さらに二金盆も与えた。
薬師は御前を退出すると,その部下に「これは私の功ではない。お前たちの力だ」と言って,盆を分け与えた。
薬師は検校少傅を加えられると,燕に帰り,燕山府路の守備についた。
(*1)歴代皇帝が盟約を守ってきたので,孝行者なら歴代皇帝の行いを継承するはずだ,という意味。
(*2)歳幣は宋と金が契丹を挟撃することに対する約束だった。だから宋が独力で燕州を後略すると,挟撃の約束が破綻し,随って金は宋から歳幣を得られなくなる可能性が生じる,と金は考えたのであろう。
(*3)他の戦争を任されたならの意。
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