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谷真潮略年譜

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

前に谷秦山垣守の略年譜を作ったので,真潮のそれもと思っていたが,年月日の分かる史料が見あたらなかったので年譜は断念し,そのあらましを写すに止めていた。ところが最近松山秀美氏の「土佐歌人群像」の真潮の篇を見ることが出来た。

松山氏の論文は真潮の生涯を詳細に組み立てており,真潮の生涯を探るべくまず読まねばならぬ論文だが,亡失した史料を多く引くため,現在では「単なる詳細な論文」以上の価値をもっている。今回はこの論文を利用して,真潮の年譜を作ってみた。言うまでもないが,詳細は松山論文を直接参照のこと。なお真潮には吉崎久氏に『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』があり,松山論文を利用しての詳細な研究がある。以下はあくまでも私的な略年譜に過ぎない。附録として北渓行状から逸事二三条を引いた。

以下,2009/08/09追加。

○享保12年。1歳。
1月3日,誕生。
○元文1年。10歳。
2月23日,惣領御目見。
○寛保2年。16歳。
7月28日,弟の銀六(万六好井)誕生。
○同3年。17歳。
1月28日,垣守の宅が類焼。
○延享2年。19歳。
12月29日,立田道庵の娘と結婚。
○同3年。20歳。
3月,父垣守に随い江戸出府。御宮仕役。橘恒樹と交友を結ぶ。
○同4年。21歳。
5月11日,父垣守に随い帰国。
○寛延1年。22歳。
1月9日,三人扶持を賜い,学問相励むべき旨仰付られる。
9月22日,長女誕生。
○宝暦1年。25歳。
8月18日,長男氏太郎丹蔵誕生。
○同2年。26歳。
2月18日,大谷直昭の代わりに宮地春樹と御屋敷講釈代講を拝命。
3月30日,父垣守が病死。
7月22日,父の跡目を嗣ぐ。
○同3年。27歳。
9月1日,宮地静軒(80)が病死。
○同4年。28歳。
3月3日,江戸出府のため浦戸出港。
○同5年。29歳。
4月17日,帰郷のため江戸出発。
5月4日,帰郷。
○同6年。30歳。
3月3日,江戸出府。
○同7年。31歳。
6月10日,帰郷。
7月26日,大風雨により家が倒壊。
○同8年。32歳。
7月17日,次男三次郎誕生。
○同9年。33歳。
12月22日,教授館落成。
○同10年。34歳。
1月16日,宮地為斎(春樹)・箕浦立斎・戸部愿山と教授役に就く。儒者となる。教授役中に暗闘が盛んになる。
○同11年。35歳。
6月28日,江戸出府。
7月3日,若殿(豊雍)御師範役を拝命。浦戸出港。
9月4日,嫡子氏太郎(丹蔵)が御目見。
○同12年。36歳。
江戸出府。
○同13年。 37歳。
弟万六を従えて江戸出府。縣居門人録(賀茂真淵)に載る。
○明和1年。38歳。
6月16日,帰郷。
11月24日,秦山妻が病死(86)。
○同2年。39歳。
2月13日,北山通りで江戸出府。
6月27日,母池内氏が急逝(58)。
○同3年。40歳。
6月10日,帰郷。
11月9日,二男三次郎が死亡(9)。
○同4年。41歳。
4月13日,長子丹蔵とともに江戸出府。
11月19日, 豊敷薨御,豊雍襲封。
○安永1年。46歳。
1月9日,切符四石加増。
25日,江戸出府。
5月11日,妻(立田道庵娘)が死亡。
○同2年。47歳。
5月21日,帰郷。
○同3年。48歳。
11月17日, 別府伝之丞の娘と再婚。
○同4年。49歳。
4月8日,丹蔵が病死(25)。
○同5年。50歳。
4月1日,万六好井を養子とし御目見。
11月12日, 娘が死亡。
17日,丹蔵の遺腹の男子万三郎が誕生。
○同7年。52歳。
1月9日,新知百五十石を拝領。
2月末日,浦奉行を拝命。教授役免除。儒学は好井を取立。
4月1日,東灘を巡回する。
○同8年。53歳。
4月3日,室津湾の暗礁を取り除く。
○同9年。54歳。
3月19日,日本紀会で雄略紀を講了。
○天明1年。55歳。
7月28日,三男楠八宅守が誕生。
○同2年。56歳。
6月1日,関東御用船が甲浦へ漂着。
5日,安芸郡甲浦へ出張。
7月27日,漂着船の始末滞りなく勤める。
○同3年。57歳。
7月5日,役領知三十石を下賜。
○同5年。59歳。
4月11日,宮地為斎(春樹)が病死(58)。
5月28日,浦奉行を退職。教授役にもどる。
○同6年。60歳。
2月3日,大火事。
○同7年。61歳。
1月,万六が帰宅。
8月4日,郡奉行・普請奉行・物頭格を拝命。役領知五十石を拝領。
○同8年。62歳。
1月23日,大目付切支丹役柄弦御差物となる。
2月26日,諸臣を会して緊縮省略を議す。天明の改革開始。
6月14日,弟の大吾垣雄が病死(57)。
7月17日,江戸出府(仕置役場を相兼)。
○寛政1年。63歳。
4月22日,仲枝を従えて江戸を立つ。
5月18日,帰郷。
29日,五藤永之助の江戸出府に代わり教授館頭取。
8月24日,豊雍薨去,豊策襲封。
12月3日,異国船の要務を帯びて甲浦へ出張。
14日,甲浦から帰着。
○同2年。64歳。
4月14日,万六が江戸で三人扶持十石を拝領。二人扶持五石合力米を拝領。格式御小姓格。
○同3年。65歳。
7月9日,老齢を理由に大目付役柄弦差物を罷免。教授役に戻る。
○同4年。66歳。
1月23日,神代巻講釈開巻。
○同6年。68歳。
8月5日,安並雅景が素読に来る。
○同7年。69歳。
3月5日,宮地仲枝が江戸出府。
8月17日,発病。
○同8年。70歳。
2月15日,加増知五十石を拝領。
6月16日,宮地仲枝が帰国。
○同9年。71歳。
9月11日,発病。
10月17日, 病死(18日の説もあり)。
12月15日, 万六が家督相続。
○同10年。
3月1日,宅守が好井の養子となり御目見。
9月18日,丹蔵の子の万三郎が病死(24)。
○同12年。
5月23日,宅守が江戸で客死(20)。
○享和3年。
9月25日,真潮の妻が病死。


先生 家の神道、大父秦山先生は渋川春海先生より伝来あり、父君垣守先生は玉木翁より伝来ありて、誠に奥秘ある伝授の事なり。然るに先生 壮年の時より神書を通読せられ、伝来の事に間然する事有りて、垣守先生の説を受けたまはず。垣守先生 殊のほか深いに思し召し、我が家に悪魔が入りしなどとまでもいはれしとなり。先生 恐れ入りながら、終に伝来の説に随ひたまはず、神書文面の儘を自見めされ、終に一見識を立てられけり。垣守先生も力及ばず、以後にはその方の見識の処も一種の事なれば、まずその分の事なり。されども、只今まで蔵来りし神道奥秘の書 いつまでも大切にいたすべしといはれしとなり。

先生 近年著述し給ひし『論聖』『論仏』の二編、誠に世に類ひなき物にてぞありける。儒仏の事は古来論説多かれど、この二編のごときもの和漢ともにいまだ先哲の説を聞かず。古今の確論と云ふべし。この論に『神道本論』を併せ読みて三国の道体、掌上に見るべし。

先生 儒道の学風、壮年の頃より、他に異なる事多しとぞ。勿論程朱の学を本とせらるれども、亦た諸家の取るべきをば平常捨てたまはず。徂徠などの説にも服従の事多し。軍法は『孫子』を常に講ぜられ、能くその義を精究したまひけり。常にいはれしは、軍法の事はその時その事に出合せざれば、ただ書面のみにては会し難き事ありなど、毎々聞しなり。

先生の和歌、誠に当世の絶調といふべし。近年自ら撰出したまへる物三十首ばかり、いづれも風調の高き事、人の及ぶべきにあらず。大坂の人とやら、先生の歌を聞きて、大いに感吟し、「歌はかやうにこそよむべきものなれ。されど今の世、この地などにてかくよみては、口腹の為にならず」といひし事ありとぞ。

以上、『北渓先生行状』より抄す。



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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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