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四書五経の訳本(3)

外国の文献は、いわゆる常識として、原文で読みのが一番いい。これは中国古文に限らず、どんなものにもあてはまる。しかし、私の所感では、忙しい日常を歩んでいる人間に、そういう無駄な労力を強要するのは正気の沙汰ではない。ましてや古典なのだ。大学の専門で技術を身に付けた人は、あえて訳本を用いる必要はないが、一般の人が原文で読むための努力を払う必要など全くない。そんな暇があるなら、英語の経済誌でも目を通した方がよほど価値がある。

しかし古典の翻訳の中でも、四書五経のような聖典的書物となると、どの翻訳でも同じだというわけにはいかない。選んだ訳本によって、内容理解の傾向が異なるばかりか、収録内容の増減や配列の相違すらあるのだ。

そこで以下には経書の翻訳書を選ぶ際の予備知識を書いておきたい。ただし訳本の傾向という非専門的な問題を扱うことから、原則として有名な事柄のみ説明するつもりでいる。したがって発掘資料を用いた最新知識などという嘘か真か怪しいものは、もとより説明しないので、その手のことを望む人は、読んでも時間の無駄になるので注意されたい。

なお言うまでもないが、もし本記事を利用する人がいるならば、その人はこれが無名のブログに記された程度のものだということを充分ご理解いただきたい。不用な忠告だとは思うが、念のため申し添えておく。


1.傾向

経書の翻訳を選ぶとき、気をつけなければならないのは、(1)訳注者が古注を取ったか、(2)新注を取ったか、それとも(3)自前の注を選んだかの3点につきる。この3点のどれを選んだかは、大抵の場合、訳書の凡例か解説に書かれているはずだから、まずはそれをよく調べていただきたい。そしてこの中、(3)自前の注を選んだ注釈書はお勧めしかねる。訳注者本人は努力したつもりだろうが、よほどの力量がない限り、中途半端なできになってしまうからだ。

したがって、独自訳を除くと、翻訳書を選ぶにあたっての実質的な留意点は、(1)古注か(2)新注かの2点になる。しかしこの相違を述べるには、少しく経学史を知っておいた方が便利なので、以下、長くなるが書いておきたい。経学史の知識は全く不要で、すぐに訳本の選別方法を知りたい人は、飛ばしていただいて結構です。


2.経学の歴史

〔はじまり〕

伝説によると、易・書・詩・礼・楽・春秋の六経は、孔子の手を経たことで完備したとされる。しかし孔子じしんは名声こそ天下を震わしたが、諸侯に受け入れられず、不遇のまま世を歿した。その後、孔子の学問を承けた弟子達は、各自の学んだ学問をひっさげ、あるものは諸侯の間を渡り歩き、またあるものは政治の実権を握り、さらにあるものは隠棲して学者として名を著したなど、さまざまな活動を行った。そうして徐々に儒学は天下に知れ渡った。

ところが戦国の末期、始皇帝の天下統一前後になると、儒学は政治を阻害していると糾弾された。このため経書の所持は禁じられ、逆らう儒者は処刑された(焚書坑儒)。これに恐れをなした人々は、自身のもつ経書を棄て、知らぬ顔を決め込むことにしたのだった。

始皇帝の暴政はすぐに終わり、次の統一王朝の漢が誕生した。漢の高祖・劉邦の時代はまだ世の中が乱れており、とても学問に目をくばる余裕はなかった。しかし二代目の恵帝の時代にようやく秦の禁令が解け、儒学者は自由に学問ができるようになった。当時はまだ始皇帝の時代からそれほど時間が経っていなかったので、戦国時代に経書を学んだ学者も生きていた。

戦国以来の由緒正しき学者らは、郷里にあって師となり、若き後継者を育てていった。こうして世のため人のために働く儒学者が増えてくると、漢の朝廷はそれに目を付け、儒学者を官僚に用いることで、地域の文教政策を手中に収めようとした。このような動きは、儒学者からも願ったり適ったりで、ようやく儒学者は政治の領域に足を踏み入れることになった。

〔今古文〕

ところがここで問題が起こった。各地に散らばっていた儒学者たちは、少しずつ継承してきた学問(経学)が違っていた。そればかりか、彼らの所持する書物(経書)まで異なっていたのである。そのため伝統を背負う学者らは、自身の経書や経学こそが正統であると主張し、その正当性を立証すべく注釈書を作り、他の伝統を受け継ぐ学者と対立を始めた。

しかし問題はそれだけに止まらなかった。漢も安定期に入ると、徐々に娯楽が求められ、学問も重視されるようになった。そこで古い文献を求めて探しあるく道楽者が登場し始めた。河間の献王はその中でも最も有名な一人に数えられる。彼ら道楽者は大金をはたいて古書を買いあさったが、その中に戦国時代の文献が含まれていた。なかには戦国の人々が秦の儒学禁止を憎み、壁の中に隠していたと称する「経書」を献上するものまで現れた。しかし新発見の経書を見た人々は困った。なぜなら文字が違ったのだ。

孔子の没後しばらくして諸侯は王を僭称し、覇権争いを始めた。いわゆる戦国時代である。この戦国時代は各地の自主性が強く、国ごとで異なる通貨や文字を利用していた。ところがその諸侯の一つの秦は、天下を統一すると、自国の文字を公用語に定め、戦国諸侯の文字は禁止してしまった。この秦の文字は漢にも受け継がれ、以後、漢になってから生まれた人々は、秦漢の文字しか知らなかった。そして経書もまた新たに記述されるときは、漢代の通用文字を用いて記録された。この漢代通用の文字を用いて記述された経書を「今文」とよぶ。

ところが漢の時代に発見された戦国時代の経書は、当然にして戦国時代の諸侯が用いていた漢字で記されていた。当時そのような特殊な漢字を読める人間は、ほとんどいなかったので、人々は面食らってしまったのだ。そのため一部の篤志家のほかは、長いあいだ宮廷の図書室に捨て置かれることになった。

しかし学問が好きな人々のことである。時間が経てばこういう古代文字を研究する人間も現れる。前漢も後半にさしかかったころ、劉向なる人物が古文献を研究し、古い経書をあるていどまで復元した。劉向らは今文の経書を模範に、古い経書を解読し、一文字ずつ漢代通用の文字に置き換えていった。その結果、劉向らは今文の経書に致命的な欠陥があることに気が付いた。今文の経書を奉ずる学者が難解だと言っていた部分は、実は長い伝承のあいだに文字が欠落しただけだったのだ。その証拠に、発見された戦国時代の経書は難解でも何でもなく、ふつに読めるというのだ。この戦国の文字で書かれた経書を漢代の文字で置き換えたものを「古文」とよぶ。

我々の感覚からすれば、こうして由来ある経書が発見されたのだから、今後はその経書を用いればよさそうなものである。もちろしん古ければ正しいという分けでもなかろう。しかどう少なく見積もっても、大いに学問の助けになることだけは間違いない。ところが漢代ではそう簡単に済まなかった。古文の経書が登場すると、世の学者は抵抗したのである。なぜか。今文の経書を奉ずる学者は、己の奉ずる経書を解釈することで、飯を食っていたからである。自分の商売道具が否定されると困るのだ。浅ましい限りだが、さきほど書いたように、漢代は儒学者を用いて政治を行った。したがって儒学者の奉ずる学問は、利禄の道に直結していたのである。

〔鄭玄、王肅、義疏〕

このような古文の発生に対して、今文を奉ずる人々は、今文こそ漢王朝の正統性を証明できる学問であることを力説し、王朝からなんとか正式な学問であることのお墨付きをもらった。しかしこのような欺瞞に満ちた権威は、世の学者の反感を買い、こころある人々の憤慨を呼び起こした。民間では徐々に古文の経書が利用されていったのである。そして今文に権威を与えていた当の漢王朝が亡びると、当然の結果として、今文の権威もなくなり、ここに今文学説は事実上消滅した。古文を奉じた代表的な人物は馬融である。

では今文が滅んだ後、一世を風靡したのが古文かというと、必ずしもそうではない。確かに古文は戦国以来の伝統を文章の形で伝える由緒ある存在だが、今文も本を正せば戦国以来の学説を奉ずる由緒正しき存在である。漢王朝に権威を与えてもらうために曲説をなした学者が現れたとはいえ、もともとは詐欺的学問ではない。そこで一部の人々は古文とともに今文も学び、両者を折衷し、経書の解釈として適切なものを随時両者から選ぶという方法を採るようになった。この今古文の両説を伝え、経書のほぼ全てにわたって注釈を行い、新たな経学体系を築いた人物を鄭玄(ジョウゲン。テイゲンともいう)という。ちょうど三国時代が始まるころに死んだ人物である。

鄭玄の学説は多くの学者の心を捉え、学界に巨大な影響力を持った。しかし魏晉の時代には、皇帝一族と関係のある王肅なる男が鄭玄に敵愾心を抱き、皇帝を動かし、自身の学説を正統学説とみとめさせた。また魏晉以後に流行する玄学(老荘思想を尊ぶ風潮)の影響を受け、老荘風味の解釈を経書に施す人々も現れた。例えば易の注釈で有名な王弼や論語の注釈で知られる何晏などがそれである。あるいは鄭玄の一派と目される服虔に対抗し、諸他の学説を折衷して独自の見識を示した杜預の春秋左氏伝の研究も登場した。こうして新たな学問を奉ずる人々と鄭玄の学説を奉ずる人々の間でまた争いが起こった。

このように魏晉時代には、漢代以来の今古文を折衷した鄭玄の学統(どちらかというと古い学問)と、玄学をはじめとする新たな解釈を施した王肅らの学統が生まれ、これ以後の南北朝時代の主導的勢力となった。両学説とも南北いずれにも行われたが、主として北方には鄭玄の学説が流行し、南方には王肅系統の学説が流行したと言われている。

なおこのような鄭玄と王肅の対立とは別に、南北朝時代には義疏の学というものが流行した。そもそも経書は古い時代に作られたものである。漢代の人々とて容易に読めるものではなかった。そのため漢代の学者は、自己の奉ずる学説に従って、経書の注釈を施したのであった。しかし時代が降れば、この漢代の学説そのものも分からなくなる。また魏晉時代に新たに生まれた注釈も、時代が経てば漢代の経説と同じく、理解が難しくなる。

そこで魏晋南北朝のながい時間を経て、先行する権威ある学者のつけた注に、さらに注釈を施すという作業が行われた。つまり「注」に「注」を付けたのである。この二番目の注を「疏(そ)」といい、このようなスタイルの学問を義疏学とよぶ。義疏の学は、師弟間の問答から生まれたとも言われ、またそれは仏教の影響を受けたとも言われるが、最も一般的な形態は、経文の注に対して「問」を発し、それに「答」える形で進められ、最終的には経文本文、経に対する権威ある注の両者を再解釈することに特徴がある。

さて、南北朝時代は隋の統一、さらには唐の再統一によって終わる。そして天下を統一した唐は、学問についても統一しようとした。既に述べたように、南北朝時代は北に鄭玄系統の学問が、南に王肅系統の学問が流行した。そこで唐はこの南北の学説からより優れた学説を一つ選び、その他の学説をそこに折衷させることで、学説の統一を図ったのである。これがいわゆる孔穎達らによって編纂された『五経正義』である。

試みに『五経正義』に選ばれた注釈を選ぶと以下のようになる。
  • 易‐王弼、韓康伯(十翼)……魏晉
  • 書‐孔安国
  • 詩‐毛亨、毛萇、鄭玄
  • 礼記‐鄭玄
  • 左伝‐杜預……魏晉
『五経正義』は南北朝以来の義疏学の伝統にのっとり、これらの権威ある注に対して、孔穎達(ときに賈公彦や楊子)が「疏」とよばれる再注釈を作ったものである。このような学問的伝統は、唐の滅亡以後、北宋初期まで継続し、いわゆる十三経注疏として結実する。十三経注疏のなか、上の五経正義未所収の注の作成者をあげると以下の通り。
  • 儀礼‐鄭玄
  • 周礼‐鄭玄
  • 公羊伝‐何休……今文
  • 穀梁伝‐范……魏晉
  • 論語‐何晏……魏晉
  • 孟子‐趙岐
  • 孝経‐玄宗(唐の皇帝)
  • 爾雅‐郭璞
公羊伝は今文学説を奉じた何休の注を中心に、徐彦なるものが疏を書いているが、徐彦は南北朝時代の北朝の人ではないかとされている。

〔宋の経学〕

既に述べたように、義疏学は北宋の初期まで継続した。しかし唐が滅亡し、五代を経て、北宋が成立すると、従来の経学とは異なる学問が登場し始めた。そもそも従来経学を継承したのは、今文古文、および義疏を問わず、師から学問を伝授された弟子たちであり、そうした弟子がまた己の弟子の師の学説を伝えていった。現実問題として、師弟の授受に際して、各々の独自色が加わったことは否定できないが、系統的には唐初期の学者は遡れば漢代の今古文の師に行き着くはずであった。

しかし唐代に科挙が生まれ、制度として学問と利禄が結びつく一方、経書解釈においても『五経正義』という王朝に権威を認められた正統学説が登場すると、人々は師から学問を授かるのではなく、経書とその注釈を直に読んで自分で理解するようになった。それでも唐代は貴族の権勢が強く、また時代風潮として経学が震わなかったという事情もあり、経学的問題はあまりなかったが、宋代になると貴族は没落し、独自に経を学ぶ人々が大いに増え、結果として従来の経学説に満足できぬ人々が多数登場するに至った。

そもそも経書は有用な書物のはずである。しかし経書が有用であり続けるには、時代とともに変化しなければならない。特に漢代以来の経学は、長い年月をかけて完成したものだけに、既に宋代の人々の心を捉えるほどのみずみずしさがなく、単なる知識人の素養としての死せる古文に成り下がっていた。このような魅力なき経書解釈は、宋代の学者から徹底的な批判にさらされた。ましてや宋代の学者は師から学を授けられた覚えはなく、己の能力一つで経書の本義に迫ろうというのである。新たな経学説が登場するのは時間の問題であった。

宋代の学者は考えた。――経書は聖人孔子の手になるもので、それは後世の人々がよりよく生活し、天下国家を運営するために記されたものだ。ところが現在の経書はカビの生えた注釈だらけで、とうてい聖人の心を解明できていない。ならば我々自身の手で経書の真意を復活させなければならない、と。

彼らの手法はこうである。――まず経書の本文だけを読み、それだけで理解できる場所は、古来の注を無視してそのまま理解しようとした。さらに本文だけでは理解できない場所も、みだりに注に頼ることなく、他の古文献を参照することで、新たに「本当の意味」を探ろうとした。そして彼らにとってこれが聖人の教えだと確信できる解釈が見つかると、古来の説の有無に関わらず、自分の考えを率直に経書の解釈として記した。こうした学問は北宋の劉敞を嚆矢とし、以後、司馬光、蘇軾、蘇轍など、多数の学者が従ったとされる。

宋代の学者が作った注釈は、あまりにも漢代以来の注釈と異っていた。そのため両者の解釈は別物とされ、宋代に新たに生まれた注を新注とよび、漢代以来の注を古注とよぶことになっている。また古注と新注の解釈の傾向から、古注を訓詁学、新注を義理学ともよぶ。

宋代に生まれた経の注はおびただしく存在するが、それらは北宋に創案され、南宋に研磨され、元代に集成され、最終的に明代初期に成立した『五経大全』にまとめられた。ただし宋代に生まれた注は、その多くが朱子学に吸収された。いま試みに『五経大全』の採用した注を挙げると以下の通り。
  • 易‐朱子+程頤
  • 書‐蔡沈……朱子の弟子
  • 詩‐朱子
  • 礼記‐陳澔……朱子後学の徒
  • 春秋‐胡安国……程頤の私淑の弟子
新注系統の学問は、形式としては明から清にかけて権勢を揮い、いずれも王朝から権威を付与されたが、学問的生命は明代を通じて失われ、清代にはその残滓を止めるに過ぎなかった。

〔清代〕

明は学問の崩壊した時代であった。ありとあらゆる学問が明代に流れ、そして亡びていった。あらゆる詐欺と欺瞞が許され、学問的真実はねじ曲げられ捨てられた。そして人々はただ王朝に迎合し、己の欲望を擁護し、名誉を掠め取り得るもののみを学問と信じた。このような徹底的なる学問的荒廃、精神的堕落のあと、明は滅亡を迎えた。そして滅亡を前にして、学者は余りにも遅すぎる反省を行い、ようやく己の堕落しきった学問を捨て、真に学問を志すに至った。

明は形式的には朱子学の流行した時代であった。しかし朱子学の書物などまともに読みもしなかったし、当然にして朱子学を生んだ宋代の学説など知りもしなかった。明の学者はただ自分の名誉になりそうな人物の名前を覚えて世間に吹聴する程度で、その他の学問的努力は一切しなかった。しかも恐るべきことに、明代は内部に叛乱こそ多々あったものの、王朝の滅亡を招くほどの争乱はほとんどなかったにも関わらず、貴重な書物は窃盗的手法によって失われていったのであった。

そのため宋代の学説は、名前のみ知られ、実質は忘れ去れ、まれに心ある学者が求めても容易に得難い状況になっていた。しかし明の滅亡と共にこのような悲惨な状況は解消した。学問の腐敗を深く反省した明代末期の学者は、ようやく宋代の学問の研究を始めた。そして清代の初期に『通志堂経解』が発刊されるや、ようやく宋代の経学説そのものを目にすることが出来るようになった。これは当時にあって画期的なことで、ここに至り『五経大全』は全く過去の汚物となりさがり、清代の学者は宋代の経学説を直に研究することができるようになった。

しかし一度得られた学問的成果を吸収するのは難しくない。清代の学者は、宋人のあまりに闊達すぎる学問に疑問を持ち、その根拠となったはずの『五経正義』に目を向けはじめ、さらに『五経正義』の根幹にあたる古注(特に鄭玄)の経学説を奉ずるようになった。

ただ古注は廃れて既に久しく、また文物制度ともに大きく異なるものであった。そのため清代の学者は、漢代の文物制度を精密に研究し、改めて古注の意味を探るようになった。この時に有力な武器として用いられたのが、音韻を中心とする小学(文字の学)であった。清代の学者は文字の意味を解読することで、古注の意味を改めて当時に復活させたのである。この清代の学問を考証学とよばれ、清代の中頃に隆盛した。

考証学は文献学である。学者の主観的意識とは別に、実質的に実用とは無関係の存在である。そのため清代も後半になり、国勢が逼迫し始めると、このような文献学的研究ではなく、より直接的な実用的な学問を求めるようになってきた。しかし彼らが考証学と無縁でいられるはずはなく、考証学を用いた方法、より正確には、考証学によって開明した漢代の学問を開明する方法によって、実用に供そうとした。

当初、考証学が開明を志したのは鄭玄を代表とする古文系統(あるいは今古文折衷)の学説であった。しかし清末になるとさらにこれを遡り、古文の前、すなわち今文の学説を開明しようとした。しかも清末の学者の言うところによれば、古文は単なる保守的学問であるが、今文は革命的、すなわち国勢を復活させられる学問であるというのである。今文学を奉じた考証学者は、かつて古文を開明したときと同じ技術を用いて今文学説の開明を企図し、さらにそこに実用的な革命説を付与した。今文学説を奉じて名を成した人物に、康有為、廖平、皮錫瑞がいる。

今文学説は政治的学問的の両面を含みつつも、複雑な展開を見せた。しかし結局は清が亡び、民国の成立を見、さらには儒学が国学としての地位から滑り落ちると、もはや世間に儒学を顧みるものはいなくなり、自然と学問も消滅した。これ以後、中国は内乱と戦争の時代をくぐり、共産党による統一の後も、儒学は文化大革命などで巨大なダメージを受けた。ところが近年になって中国の景気がよくなると、今度は儒学の再評価が行われ、現在では古典ブームが起こっている。そして中国古典研究の世界に於いて、圧倒的な地位を再び握るに至った。ただしその学問は既に昔日のものではなく、どちらかというと従来の日本の研究に近いものがある。


〔日本〕

日本は、奈良時代以来、儒学が渡来しているが、本格的な研究が行われたのは江戸時代を待つ必要がある。江戸の儒学は当初こそ朱子学、陽明学、古学、古文辞学など、さまざまな立場があったが、中期以後は朱子学がもてはやされた。したがって経書の注釈書としても朱子学系の新注が用いられた。明治以後、儒学そのものの衰退によって、もはや経学も過去のものになったが、それでも戦前は江戸時代の余波を承け、多くの出版物が生まれた。

戦前の経書の解釈には新注系のものが少なくないが、古注のものもよく読まれた。戦後は研究の進展により、新注は宋代の勝手な寝言と判断され、古注系統が重んじされた。さらに研究が進むと、古注も間違いが多いというので、発掘資料をもとに独自の読解が進められている。しかし儒学は既に有用の学ではないので、現在ではほとんど研究されていないのが現状である。


3.訳本の傾向

訳本の選択基準は、古注か新注かの2つだと書いたが、理想的にはもう少し区分できる。改めて書き出してみると以下のようになる。
  1. 古典成立時の意味を勘案したもの
  2. 今文系列の解釈
  3. 古文(および今古折衷)系列の解釈
  4. 魏晉以後の解釈
  5. 宋代から元代にかけての解釈
  6. 新注系列の解釈
この中、(1)は発掘資料などを用いて、古典成立時の思想や解釈を探るもので、現在もっともホットな分野と言える。ただし現在のところまだ発掘資料を充分に利用できる環境になく、また最近の中国の考古ブームによって出土物の量と質が大幅に変わる可能性が大きい。したがって今後10~30年くらいの余裕をもって考えた方がよい。いちおう戦国楚簡研究会のサイトを挙げておくが、言うまでもなく、日本では研究者の数じたいが少ないので、数人の意見が日本の学界の意見ということになりかねない。したがって定説のように記されるものでも、実体を調べれば、わずか1人(とその弟子)の説ということも珍しくない。変動の大きい分野だけに注意が必要である。

(2)の今文系列の経書解釈で現存するものは、公羊伝と穀梁伝、そして礼記と大戴礼(礼記と大戴礼は古文を含むとされ、詳細は明らかになっていない)くらいなもので、その他は余りにも専門的な技術を必要とする解釈を用いなければならず、普通の読者の利用に堪えないものである。この分野は清末の今文学者の労に追うところが大きい。念のため清代学者の成果を列挙しておく。
  • 易‐特にない
  • 書‐皮錫瑞『今文尚書考證』
  • 詩‐王先謙『詩三家義集疏』
  • 礼‐胡培翬『儀礼正義』
  • 春秋‐陳立(ちんりゅう)『公羊義疏』
この他にも鍾文蒸『穀梁補注』と廖平『穀梁古義疏』がある。しかし鍾文蒸のものは、穀梁伝解釈に都合のいい資料を寄せ集めたもので、今文学説とは言い難い。廖平のものは、手法は徹底的に今文学説の研究方法を用いているが、あまりに恣意的な解釈が目立ち、実質的には今文学説とは言い得ない。なお「穀梁伝は古文である」と主張した公羊学者が民国の初期に現れたが、一般的には荒唐無稽の妄説として退けられる。

(3)(4)いわゆる古注の訳本と名乗るものは、概ね古文の解釈か、その後の魏晉時代の解釈を指している。ただし古注系列の訳本には、(1)と(2)の成果も含まれる場合が多い。古注系統のものは『五経正義』(および『十三経注疏』の大部分)所収の注釈群を指す。

(5)(6)いわゆる新注の訳本と名乗るものは、概ねこの2つの解釈を指す。ただし宋代の学者の注釈は、朱子学系列のものを除き、訳本は存在しない。いちおう朱子の経書解釈が完備しているからというのがその理由である。

古典を読解するとき、その古典の成立時の意味を探ることは当然であり、それが古典の正しい解釈だと思われる人も多いだろう。しかしそれは必ずしも正しくない。そもそも経書のような来歴の古い書物は、一時にまとめて編纂されるよりも、長い時間をかけて1つの書物に結実するのが一般的である。ならばそのような書物は、書物に含まれる各篇の成立時期を選ぶか、それとも書物として完成した時期の意味を探るかで、まず解釈が分かれる。もし前者を取れば、書物としてまとまりのない解釈が行われかねないし、かといって後者であれば各篇成立時の意味と異なる解釈を附加しなければならないことになる。

また古典は古典成立時の意味もさることながら、それがどのように読まれてきたか、またどのように理解できるかが重要であるとも言える。ならば該当する古典に対して、その成立時期の意味ではなく、有力な解釈を選んで訳出する方法も決して間違いではない。したがって上の6種の訳出方法はいずれもある程度の存在価値あるものと言えるのである。


4.古注と新注の違い

古注と新注の違いは多い反面、同じ部分も少なくない。ただ全体的に古注は文字の意味(訓詁)に重きを置き、新注は文の意味に重きを置く傾向が強い。両者の違いとして、経書の注釈そのものではないが、1つのエピソードを引いておきたい。

孔子の弟子に宰我という男がいた。この弟子は口の達者な人だった。あるとき宰我が孔子に尋ねるには、「親が死ねば3年のあいだ喪に服すと言いますが、長すぎませんか?この世はなんでも1年でもとにもどるのですから、喪の期間も1年で充分だと思います」と。孔子、「お前はそれで何ともないのか?」宰我、「はい」。孔子、「お前がなんともないならそうすればいい」。そういわれて宰我は退席した。そして残った弟子に向かって孔子は仰った。「彼奴は不仁な奴だ。人は生まれてから3年は親に抱かれて成長する。だからせめてその3年くらいは親を思い、とても喪を止める気持ちになれないのだ」云々。


この『論語』の一説、もし古注系列の解釈であれば、『論語』本文の難読漢字に対して、「某は某の字のこと」とか、宰我とは誰か、というようなことが解釈され、あとは読者の理解にまかせる。ところが新注を生んだ宋代の人は、そういう文字や人名の解釈は軽く済ませ、次のような発言を好む。

ここからも古代の人々の師弟関係がいかに堅固なものだったかが分かる。考えてもみよ、もし現在であれば、師から「お前はそう思わないのか」と問われて、「はい」と答える奴がいるだろうか。もし内心では宰我のように思っていても、「思いません」と答えるのではないか。いや、そもそも喪に服すこと3年は天下の大法であって、これに疑問を差し挟むのは難しい。内心では疑っていても、決して己の疑念を師に質すことはないだろう。しかし宰我は孔子に自分の疑問を直言し、率直に己の信ずるところを語った。そして孔子もそれに真っ直ぐ応え、宰我の間違いを指摘した。思うに、宰我は孔子を師として完全に信頼していた。また孔子は弟子を決して裏切らなかった。だから宰我は自分の疑問を率直に孔子にぶつけられたし、また孔子もそれを疑うことなく率直に対応できたのだ。そもそも学問とはこうでなければならぬ。学問は、己の本心を師に尋ね、師もまた己の本心で答えなければならない。心と裏腹なことをどれほど尋ねても、決して自分の力にはならないのだ。だからこそ師弟の関係は信頼関係で結ばれていなければならないのだ。


また孔子の「上智と下愚は移らず」という有名な命題に対して、次のような回答を寄せた人もいた。

確かに人間には知恵の上下がある。そして凡人は上質の知恵を持つ者に及びがたく、また下等な愚者の知恵にもならないだろう。だが私たちが重視せねばならぬのは、知恵の上下ではない。人間的正しさをどれほど行い得るかだ。もし自分が下等な愚者であり、普通のものが一回で分かることに十回かかるとしても、それがなんだというのだ。十回かければいいではないか。そうすれば正しき人間になれるではないか。十回でだめなら百回かければいい、百回でだめなら千回でも1万回でもかければいい。要するに、「上智と下愚は移らず」とは、知恵の問題であって、正しき人間になれるかどうかの問題ではないのだ。


宋代の人々が好んだ解釈は、こういう傾向のものだった。発言の是非はともかく、1つの見識として認めることはできると思う。しかしこの発言が『論語』の解釈として正しいかと言われると、現代の人々は疑問に思うだろう。おもしろい感想ではあっても『論語』の解釈ではないと思うのが普通だろう。

つまり宋代の経書解釈には、経書本文から自分が何かの価値をつかみ、その自分がつかんだ価値を解釈として書く、という癖がある。だからどうしても宋代の解釈は、経書の本文からズレがちになる。また新注の代表である朱子は、自身が性理学という学説を奉じていたため、素人には理解の難しい発言を平気でする(当時の人には理解しやすかったのだが)。

例えば『論語』に「仁」という文字が出て来るや、朱子は「仁とは、愛の理であり、心の徳である」と説く。これは「仁は性であり、愛は情である。そして性である仁が情して発露したものが愛である」という一連の理解がなければ意味が分からない。この「性」と「情」の関係、あるいは「性」と「心」の関係など、こういうものが性理学にあり、その理解を前提に解釈されているのである。したがって朱子学の基本概念を学んでいない人がいきなり朱子の解釈だけを読んでも、理解するのはかなり難しい(現在の新注系列の訳本は、このような煩瑣な性理学の解釈を省き、それをふまえた上で訳出している場合が多い)。

以上のように、古注はどちらかというと語釈中心の、新注はどちらかというと意味中心の解釈になる。したがって経書の訳本を選ぶ場合、解釈のおもしろさや斬新さを知りたければ新注のものに引かれる可能性はあるが、単に本文の意味を知りたいだけであれば、古注を選んだ方がいい。経文の語句の意味さえ分かれば、あとは自分でいろいろ考えてみたいという人には、宋代の解釈はやかましく感じるだろう。

一般的な訳本選択の問題はこれで終わりだが、以下、特に厄介な書経(尚書)と大学について個別に書いておく。


5.附録

(1)尚書

『尚書』にも古注と新注の別がある。そして古注と新注によって解釈に異同がある。しかし『尚書』解釈にとって、古注と新注の別は、取るに足らぬ問題である。なぜなら尚書そのものに大きい問題があるからだ。

伝承によると、『尚書』は秦の博士・伏生の伝えたものが、由緒あるものとして漢王朝に尊ばれた。これを今文尚書という。しかし前漢の中頃、戦国時代の文献がみつかるや『尚書』も発見され、孔子の子孫・孔安国が調査したところ、伏生の今文尚書に比べて文字の異同があるばかりか、篇の数も異なっていたらしい。そして孔安国は発見された尚書と今文尚書と比較し、今文尚書と重複する部分のみを当時の文字に移し直した。この孔安国が写し取った尚書を古文尚書とよぶ。

では発見された尚書は正しく、伏生の今文尚書は間違っていたのだろうか。実はここが難しいところで、そもそも『尚書』はふるく『書』とよばれた古代の帝王たちの言葉で、儒学のみならず、他の学派でも重視されていた文献であった。それらは戦国時代を通じて整理されたと思われるが、儒学者のあいだでも種々の伝承があったと考えられ、その一つが伏生の伝えた今文尚書であったと考えられる。しかも複成は秦の博士をつとめた人物であるから、かなりの正統性を帯びた書物であっただろう。それに対して発見された尚書がどのような系統のものは不明ではあるが、今文尚書とは別の系統のものであったと考えられる。

さて漢代は経学が盛んであったが、何も純粋な学術研究ばかりが行われていたのではない。立身出世をもくろみ、よからぬ姦計をはりめぐらせる人間も存在した。そういう人の中に、「『尚書』はもともと百篇あった。序文も百篇ぶん存在する」と主張するものがあらわれた。ここでいう序文は『尚書』各篇の主旨を論じたものである。こうして『尚書』には序文と篇題のみの部分と序文と本文の備わるものの2種が併存することになった。

現実問題として、伏生の今文尚書が完全なものであったのか、それとも欠落があったのか、現在でもよく分かっていない。ただ曲がりなりにも経学を維持してきた漢王朝が亡び、魏晉南北朝がはじまると、ここに今文尚書に存在しない篇をもつ『尚書』を持っていると訴え、朝廷に提出するものが現れた。彼はその『尚書』を孔安国以来の古文尚書(偽古文尚書とよぶ)だと主張した。当時の朝廷は見識が低かったのか、それを信じ込み、以来、今文尚書よりも変数の多い偽古文尚書を重んずるようになった。そして唐が『五経正義』を編纂したときには、その偽古文尚書を用い、これによって今文尚書は消滅した。

『尚書』に今文と古文の相違のあったことは宋代の人も知っていたが、彼らがその内容を詳しく研究することはなく、ただ解釈上において孔安国と異なる意見を提出したにすぎなかった。ところがそれから数百年の後、清の初期に至り、閻若璩なる学者が調査した結果、偽古文尚書は偽者であるということが判明した(だから偽古文尚書と偽の字をつける)。閻若璩の調査によれば、そもそもかつて孔安国が作った古文尚書は、今文尚書の存在する部分のみを書き出したものであった。ところが偽古文尚書は、孔安国が書き出さなかった篇も存在する。要するに孔安国以来の伝本だと賞していた偽古文尚書は、孔安国とは無関係の贋作だということが分かったのである。

では今文尚書、あるいは古文尚書になり部分は、別の来歴ある書物なのだろうか。実はこれが違うのである。偽古文尚書を作った人は、他の古文献から適当な文字をかき集め、古めかしく装飾して、あたかも古文尚書のごとく見せかけて、古文尚書にない篇(つまり偽古文尚書にのみある篇)を自作したのであった。要するに、偽古文尚書のなか、今文尚書および古文尚書になかった篇は、すべて贋作なのである。しかも今文尚書も古文尚書も、偽古文尚書が流布したがために消滅してしまった。『尚書』は経書でありながら、伝来ある由緒正しき書物が消え、かえってまがい物が流通してしまったのである。

そのため、もし学問的良心に従うのであれば、偽古文尚書の中、今文尚書および古文尚書に存在しない篇は完全な偽書(偽古文)であり、価値のない文字の集まりである。したがって『尚書』を訳出する場合、この価値のない偽古文は訳すべきでないことになる。本来はそうである。しかし厄介なのは、偽古文尚書の歴史は長く、その中に極めて立派な発言が含まれていたものだから(例えば朱子学の重要語句である「惟精惟一」などはその一つ)、無視するわけにもいかなかった。

そこで利便性を考えて偽古文尚書と古文尚書(真古文とよぶ)の解説を行った上で、伝来の偽古文尚書のまま全てを訳出する場合と、偽古文尚書の篇列を改訂し、真古文(古文尚書)の『尚書』と偽古文の『尚書』の2つに分けて訳出する方法とが採られることになった。平凡社の文学全集は前者をとり、明治書院や集英社の『尚書』は後者を取っている。ただし序文(百篇の序文)は偽者であるばかりか、『尚書』本文の理解にも必要ないため、訳出を見送られる場合が多い。

したがって『尚書』を読もうとする読者は、伝来の『尚書』そのものに偽作の含まれること、そして訳本には2つの訳出方法があることを知っておかなければならない。


(2)大学

論語、孟子、大学、中庸の四書を四書とよぶ。この四書は宋代の学者、なかんづく朱子の大いに尊信したもので、ために従来の解釈を一新するような解釈を施した。しかし論語と孟子、中庸に関しては、解釈の斬新さこそあれ、本文の大幅な変更はなかった。しかし大学に関しては、実に大胆な手法を用いて本文の改正を行った。しかも大学はこの朱子の解釈によって有名になったこともあり、どうしても朱子の解釈がはずせないのである。

もともとの『礼記』大学篇は一篇連続した作りで、特別な章句(段落分け)はない。しかし朱熹の『大学章句』は全体を経一章と伝十章に分けている。経とは、経書の経、すなわち聖人の言葉のこと。伝とは経の解釈のことであるが、ここでは聖経賢伝の伝で、聖人の経を賢者が解釈した(伝えた)ものという意味で、極めて権威のある解釈である。

さて『大学章句』の伝十章の配列は、そもそもが『礼記』大学篇と異なるもので、それだけでも読者は驚かされる。さらに経の一部に存在する「親民」に対して、朱熹は勝手に「本書の内容を鑑みれば、これは『新民』でなければならぬ」といって独自の解釈を施している。これだけでも驚かされるのに、もう一つこの『大学章句』には極めつけの解釈がある。

朱子は格物致知とよばれる学説を提出した。格物致知は、いろいろな物を研究することで知識を極めることである。朱子によれば、そうしてこの世の知識を極めることで、このよの道理が分かり、したがってこの世の中をうまく治めることができるというのである。が、それはともかく、その格物致知の出典がこの『大学章句』なのである。

ところが『礼記』大学篇を繙いても、格物致知の文字こそ登場するが、その解釈がない。単に八条目とよばれる八つの条目の二つに格物と致知が当てはまるだけである。これでは格物致知がいかに重要であり、またそもそもいかなるものであるか分からない。いや、本来ならば、大学篇に格物致知の解釈がない以上、それほどの価値を格物致知の四文字に与えるのは不可能なはずである。

ところが朱子の考えは違った。朱子が言うには、もともと『礼記』大学篇には格物致知の解釈があったはずだ。そして配列も現在のものとは違ったはずだ。現在の大学篇は間違っている。どれ、一つ私の手でなおしてやろう。こう言って彼は上に述べたように『礼記』大学篇の配列を大幅に変えた。そしてさらに格物致知にはもともとこういう解釈があったはずだと言って、朱子が勝手に自分で文章を作り、格物致知の解釈(伝の五に相当する)に埋め込んだのである。

これは現在の常識人のみならず、当時の人からしても驚くべき行動だった。今風の言い方をすれば、故人の文章を手に入れて、勝手に草稿だと言い放って文章の配列を入れ替えたばかりか、大事な箇所に欠落があるといって、第三者が勝手に文章を継ぎ足したようなものだ。

朱子の『大学章句』とはこうして出来上がったものなので、読者はそのところを充分に理解しておかなければならない。ただし『大学』の翻訳は、特殊なもの(朱子の『大学章句』のみを訳出したと断っているようなもの)を除き、朱子の『大学章句』と『礼記』大学篇の2つを訳出することになっている。だから読者は『礼記』大学篇と『大学章句』には文章の配列や増補といった違いがあることを覚えておけば、それで充分である。


最終更新日:2010/05/14
前回更新日:2010/02/14


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非常に楽しく読みました。ありがとうございます。
気の利いた感想が言えないのが残念ですが……。

それにしても、こういう「研究者なら常識」ということにいちいち新鮮に驚けるのが、素人の楽しみとは言えます。

雑感。
わたしは、宋人のような態度、けっこう好きなんですけど(それぞれの解釈に賛成するか否かは別問題)、それに対して「あまりに闊達すぎる学問」「勝手な寝言」という態度をとる人たちもいいなあ、と思います。しかし、明人は……、いや、ほかの時代はほかの時代でそれなりに真面目にやってるのに、上記を拝読するかぎりでは、なんか圧倒的にだめではないですか……。

感想ありがとうございます。楽しんでいただけたのなら幸いです。

それと私は研究者ではありませんよ。長いあいだ研究室にいただけで、そういう身分は手に入れられませんでした。

> 漢と宋

従来の経学研究だと、漢(清を含む)と宋のどちらかを選ぶのが普通で、多くの人は漢を選びます。どうこういっても、経書の原義を知ろうとすれば、経書成立に近い時代を選ぶことになりますから。私の場合は、経書の原義よりも解釈の方を選びましたので、おのずと宋になりました。

> 明

あれは不思議な時代ですね。思想全般(陽明学)や社会経済史から見れば、明代にもおもしろい題材はあるのでしょうが、経学的な側面からでは苦しいですね。

評判の悪い理由はいろいろあります。宋元代の劣化版に見えること、科挙の受験対策本が少なくないこと(合格したければココはコウ書け!みたいな)、議論に精密さを欠くこと、などがすぐ思いつきます。

とはいえ、評価は人によって異なりますから、記事のものはあくまでも私の判断ということで、他の人の意見も調べてみてください。
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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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