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熱い感じがする

いろいろネットで情報を集めていたら、こういう授業があるのを知った。

それで単純に中世の神道もおもしろそうだなと思った。っていうか、私はなんでこう無意味なものにばかり興味が向くかなぁ。もっと役に立つものに魅力を感じればいいものを。

それはともかく、上の講義、面白そうなことは面白そうだが(というか、講義者が面白そうなだけなんだが)、中世の神道というのは何十年も前からあまり進歩がないような気もする。そうとう前から上の授業内容と同じことが叫ばれていたような気がするのだが、気のせいだろうか?それとも中身はすっかり変わっているのだろうか?

しかし上の講義、必死で「日本の伝統宗教=神道」を否定したいようだが、過去にこうだったといって、それで否定したことになるのか?それとも過去を否定したいだけなのだろうか。

過去を利用した現代思想の否定は弱点を含む。一つは単純明快に、我らが神道を日本の伝統宗教だと思えば、それだけで神道は日本の伝統宗教になる、過去は関係ない、という人々には通用しない。これは歴史万能論者に案外有効な方法で、こう言われると、あらゆる歴史万能論を無効化できる。なにせこの種の人々は、儀式のような形あるものではなく、私が思っているという現在の自分の精神を根拠に、伝統を主張しているからだ。私もこの立場に立っている。

もう一つ、過去の否定は技術的に難しいということが挙げられる。過去は資料にすぎない。資料を寄せ集めて、「こうだった!」と言うのが歴史学だ。近代歴史学はその発展の過程で、近代歴史学以外の歴史学をこの方法で葬ってきた。しかし矛を転ずれば、同じ方法で近代歴史学そのものをも葬ることができる。「通説ではAにはBと書いてあるというが、CにはDと書いてある。だから通説は間違っている」と言いがかりをつけて、歴史学は多くの学説を葬ってきた。だからとうぜん、「CにはDと書いてあるらしいが、AにはBと書いてあるのだから、そちらが正しい」と言うことも可能だ。どっちが正しいか、これで分からなくなる。攻め手は受け身に弱い。

もちろん実際にはかなり複雑な技術を要することだが、基本原理は変わらない。歴史歴史といっても、所詮歴史は資料のことだ。資料をつぎはぎしているに過ぎない。なぜそのようにつぎはぎしなければならないか、これは資料をどれだけ眺めても証拠は挙げられない。そのようにつぎはぎしなければならない理由は、歴史研究の前に存在するからだ。だから全く異なる思想を持つ人間とは、歴史を語ることはできない。あらゆる証拠が無効化されるからだ。

件の授業から話が逸れてしまった。しかし生の思想を処理したいなら、別の思想を持ってくるしかあるまい。いたずらに過去を持ってきても、相手を利するだけではあるまいか。ま、私は神道に日本のふるさとを求めていないので、別にどういう結果になろうと興味はないのだが。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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