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資料の処理

歴史の調べごとをしていると、ふと気づくときがある。自分の知りたい事柄はきっと解明できると思い込んでいることに、気づかされる。時代が近くなればなるほど、資料の数も増えるので、分かる範囲も多くなる。しかし常識的に言って、過去のことがすべてわかることは、まずありえない。それは現在おこりつつある事件の真相ですら分からないのだから、当然のことといえる。ましてや環境も人間もなにもかも異なる過去のことなら、なおさらのことだろう。

ところが歴史の資料を分析していると、なぜかしらん、自分の求めていることが、資料を通して解明できるのではないかと錯覚してしまう。私の場合なら、『長編』(続資治通鑑長編のこと)とか『宋会要』とか、あるいは他の文集やら何やらを使えば、解明できそうな気になってくる。もちろん単純な事柄、例えば誰某の卒年とか、法令文章の全文とか、その手のものは解明の可不可が簡単に分かるので、もともと調査の対象に入らない。ここでいう「求めていること」とは、ある事件の全貌とか、ある問題の影響とか、そういったもう少し大きい問題を指している。

なぜそういう大胆不敵な考えを懐くのか、その理由はさまざま考えられるが、その一つに、資料に正しいことが書かれているから、それをうまく捌けば(組み立てれば)正しい結論が得られるはずだ、という思い込みが挙げられる。もちろん上の考えは、理論上はだれしも否定する。いや、そもそも肯定する人間などいないだろう。ところが実地に資料を分析し出すと、この考えがなぜか頭をもたげてくる。

例えば、歴史の研究をする場合、相互に矛盾のある事柄にでくわすと、「Aか、それともBか」という二者択一の方法、もしくは「AとBは一見すると矛盾するが、実は両方正しい」という資料の整合を取る方法と、あたかも自明のようにこの二つを選択する場合がある。だから資料をうまく捌けば、ただしい事柄が分かるはずだ、ということになる。

しかしこれは明らかにおかしい。当然ながら、「AもBも全て間違っている」とか、「あらゆる資料を使っても、求めるところの解答は得られない」という選択肢もあるはずなのだ。しかし不思議なことに、資料を調査している瞬間は、どうもこの考えが消し飛んでしまう。それはちょうど、ある人間の人生が「どうがんばっても無駄」という結論を導けるのと同じほど自明であるのに。

私などは、平素から、歴史など分からなくて結構だと思っているのにも関わらず、資料を前にすると全てが解明できそうな気になるときがある。なにごとにつけ、自分の関与することだけは特別だとでも思っているのだろうか。だとすれば驚くほど未熟な話ではある。もっとも、それは「正しい歴史」があると思うからのことで、「正しい歴史」は作るものだと思えば、なにも問題はおこらないのだが、どうも私の頭は古いのか、なかなか綺麗に頭が回転してくれない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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