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堯宗皇帝

堯宗という廟号をもつ皇帝はいない............多分。少なくとも宋代にはいない。しかしこの堯宗なる廟号を与えられそうになった皇帝はいる。南宋初代皇帝、あるいは宋代第十代皇帝がそれで、正式には高宗という廟号がおくられた御仁である。

廟号の数が増えたからか、それとも単なる珍しもの好きか、宋代にはかわった名前の廟号が多い。神宗、哲宗、徽宗、理宗などなど。しかし廟号に「堯」の字を使われると、ちょっと気持ち悪い。というか、「堯」っておくれるものなのか?

宋代の学者の認識からすれば、堯の名は「放訓」だし、諡法にも「堯」の字があるから、おくろうと思えばおくれるのだろう。しかし私の感覚だと、神宗や哲宗はあり得ても、堯宗はないというのが正直な感想だ。堯宗がありなら、舜宗とか紂宗とかもありだが、それでいいのか?

前置きはこれくらいにして、「高宗」の廟号選定をめぐって議論百出したことは、李心伝の『建炎以来朝野雑記』甲集巻2の光堯廟号議(光堯は諡)にまとめられている。こういうつまらないことに興味を持つのが私の悪い癖で、まだ院生だったころ、もっと詳細な記録は残っていないかと調べたものだ。そして資料は案外簡単に見つかった。この時代に宰相をつとめていた周必大の『思陵録』(『文忠集』巻172)に皇帝(孝宗)と宰相・礼官らの質疑が記録されていたのだ。

以下、『思陵録』を利用して、廟号選定のいきさつをメモ書きしておく。

淳煕十四年十月乙亥、太上皇帝(いわゆる高宗)が崩御すると、すぐさま喪礼の準備が始まり、尊号、廟号などの選定が始まる。同十二月戊申、礼官と太常寺の官僚が廟号に「高宗」の字を選定。概ね意見の一致を見たようだが、洪邁だけは「世祖」の字を用いるべきだと主張。皇帝(いわゆる孝宗)は直ちに礼官に打診。「世」と「祖」の両方に問題ありとして退ける。つづく乙丑、唐輅が洪邁の意見を汲み、廟号には「祖」の字を用いるべきだと主張。皇帝はまたも礼官に打診。礼官は唐輅の無学を激しく罵倒し、「祖」案は消える。この後、しばらく順調に喪礼の準備が進む。

明くる淳煕十五年正月己未、何の前触れもなく、当然林栗が意見書を提出し、廟号に「堯宗」の字を用いるべきだと主張。皇帝は堯の字を廟号に用いられるか否かを宰相・周必大に尋ねた後、ただちに礼官に意見書の提出を求める。四日後、礼官は堯宗の不可を指摘。それを聞いた他の政府高官も賛同。唐輅のときのように、堯宗案も流れるかに見えたが、ここで皇帝から意外な発言があった。

皇帝、「皇太后陛下が憂慮されている。高宗と言えば、唐の高宗を思い出すが、その唐の高宗には則天武后がいる。それを懸念されているのだ。いっそう堯宗でいいのではないか。」

衝撃を受けた宰相一同は、堯宗案はしばらくおき、礼官に他の案を出させるよう求め、皇帝もこれを許可する。(*『繋年要録』によると、林栗の意見書の中に、「唐の高宗と則天武后」のことが指摘されており、皇太后がそれを見て動揺したという。)

ここから連日のように御前会議で廟号問題が語られる。

廟号の選定には、「中興の功」と「禅譲の議(孝宗は太祖系)」の二義を必要とした。このため「成」「正」「寧」「光」「大」「開」「芸」など多様な文字が候補に挙がったが、礼官は自身の選定した「高宗」の字に固執し、また各々の字にも典拠に問題があったことにより、廃案になった。

これらの中、一時は「聖宗」と「烈宗」が有力候補となった。特に「聖宗」は、北宋の「神宗」と対になり、典拠的にも優れていた。そこで皇帝と政府高官の間でほぼ決着を見たが、聖宗は契丹に前例があること、烈宗は反逆者が多く用いていることから、廃案になる。そこで皇帝の意向で再び堯宗の是非が下問されたが、やはり政府高官および礼官の賛同を得られず、廃案になる。

進退窮まった皇帝は、「高」の字に「商の高宗」の意が含まれ、且つ商の高宗は中興の祖であり、宋は商の地と縁深いというので、結局、淳煕十五年二月甲申すなわち林栗の動議から24日後、初議のごとく廟号は高宗に落着した。


宋代では皇帝が死んだ場合、次の皇帝が先帝の諡(尊号)・廟号などを決める。諡も廟号もそこそこの字が選ばれ、あしざまに批判するような文字は使われない。しかし美しい字であればなんでもいいわけではない。皇帝の治世を考え、最も有意義な功績をすべて含んだ文字でなければならない。高宗の場合なら、宋の中興(孝宗にとってはさらに傍系への禅譲)が必須だった。だから中興に関係する文字を経書などの価値ある書物から選び、諡や廟号に充てたのである。

重要なことは、選定した文字にどのような意味があるかではなく、その文字にどのような意味を込めたか、である。換言すれば、きちんと意味づけできているかが重要なのだ。もちろん、ありえそうな批判には前もって答えておくべきだし、そのために異論があれば、そのつど皇帝は関係部署に議論を尽くさせ、衆論の一致をみた段階で決定するのである。しかし衆論を一致(説得)させるとき、もっとも有効な武器になるのが、意味づけであるのに変わりはない。

高宗の場合は、「堯宗」という奇異な廟堂のためもあり、歴史書に皇帝・政府高官・礼官の議論が残っている。これと同じことは、大なり小なり他の皇帝にもあったはずである。しかし幸か不幸か、それらの議論がのこる皇帝はほとんどいない。ただし北宋の九人の皇帝と、南宋の一部の皇帝については、最終決定の諡・廟号の定義が残っている。『宋会要輯稿』『中興礼書』に残る歴代大行喪礼がそれである。廟議を読めば、儒学者がどれほど文字にこだわっていたかよく分かる。


ちなみに周必大の記録を一通り調べたあと、もういちど李心伝の『繋年要録』を見直すと、なるほどさすがに李心伝はよくまとめている。周必大の記録からでは判断できないことも、他の資料を知っていたのだろう、適切に記録していた。さすがに見識ある歴史家は腕ちがうな。あらためて痛感した。まあ、だからどーしたという話しではあるのだが。

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