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雑感

しかし中国思想にはなぜ歴史の研究が多いのだろうか。なんでもかんでも「歴史的にこうだった」とか、「当時の風潮でゴニョゴニョ」とか、「これが当時の特徴だった云々」と言われてもねえ、まったく思想の説明になっていない。これは春秋学でも同じで、なぜか「春秋学の歴史」をやろうとする人々が多い。言葉を換えれば、歴史的に説明すれば、それで春秋学が分かったつもりになる人が多いのだ。私などは思想を歴史で語り出したら、その瞬間、その学者には価値がなくなると思っている。若手の学者が全国紙に論文を載せるために媚びるなら構わないが(どうせ就職できれば無視するんだから)、地位のある人間が歴史で語りだした日には目も当てられない。

春秋学は春秋の「真理」と言われるものをつかむのが学的使命なのであって、決して春秋学を用いて当該時代の歴史的特徴を解明することに目的があるのではない。例えば、宋代の経解類を利用して、春秋学の研究をより高めることは明らかに春秋学の研究だが、宋代の春秋解釈書を分析して宋代の特徴を割り出すのは春秋学でもなんでもない、どうでもいい存在だ。はっきり言えば、後者の研究は思想にとって不用なばかりか、有害だといってもいい。

なるほど胡安国の『春秋伝』は「当時の政治状況を反映して攘夷論が強調されている」かもしれない。思想を歴史的に研究する人間は、驚くことにそれで胡安国の『春秋伝』が分かったと思うらしい。私はそのような人に、「では胡安国の『春秋伝』とはなにか?」とあえて聞いてみたい。胡安国『春秋伝』とはなにか?「当時の政治状況を反映して攘夷論が強調されている」書物などは、説明にならない。もっと端的に胡安国『春秋伝』はこれこれであると答えてもらいたい。それを答えるのが思想研究のはずだ。当時の歴史的状況などどうでもいい。それらはより深く胡安国『春秋伝』を考える手段に過ぎない。

もちろんこれを答えるには、答える人間に答えるための資質が必要だろう。自分の信念(理念でもなんでもいい)、たとい世界の全ての人間が反対しても正しいと思う信念がない人間に、過去の思想を論ずることはできない。むしろ思想の研究とは、その自分の信念をつきつめるために、自分自身が過去の研究と戦うものだと言ってもいいくらいだ。思想の研究は最も魅力的であると同時に、もっとも危険な存在だ。信念は一つではない。他の信念をもって別の信念を曲げることはできない。信念と信念とがぶつかるところには、ただ争いがあるだけであり、それは信念を争うが故に決して妥協できないものだからだ。

まぁ、信念がどうとか、そこまで大げさなことを全ての研究に求めるつもりはないが、「歴史的」に説明しただけで思想が分かったつもりになるのだけは、どうにも研究として認めがたい。とはいえ、だからどーしたと言われたらそれまでだけどね。信念などなくても人間は生きていけるし、そして人間は必ず死ぬからねぇ。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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