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宰我

言うまでもなく、宰我は孔子門人の中で私が最も好きな人間だ。むかし古典籍から宰我の登場する部分を集めたこともある。しかし、ひとり『論語』の言及部分だけを読んでも、宰我がいかに魅力的な人間かすぐわかる。孔子に言わせれば、宰我は弁舌に優れた、酷薄で堕落した人間らしい。孔子にそう見られてただけでも、宰我がいかに優れた人間であったか了解できるだろう。そんな魅力的な宰我先生のお言葉の中、私が最も好きなのが、三年の喪は長すぎると批判した件の発言である。

『論語』陽貨篇に見える言葉によると、宰我は孔子にむかって、「三年の喪は長すぎる。森羅万象は一年で元通りになるのだから、人間も喪に服すときは一年にすべきではないか」と尋ねた。これに対して孔夫子、「お前はそれでなんとも思わないのか?」そこで宰我先生はこう仰った、「なんとも思いません」と。孔子がこれに対してどう思ったのかはよく分からないが、『論語』には「お前がなんとも思わないなら好きにすればいい。人間は親が死んで三年の間は、喰らえども味を知らず云々だ」と言って、宰我が出て行ってから、「あいつは不仁なやつだ」と捨て台詞を吐いたことになっている。

私はむかしこの件を読んだとき、宰我の圧勝だと感心したものだ。それに比べて、孔子は、本人の前で批判せず、かえって宰我が出て行ってから、別の弟子に文句を垂れている。とても人師とは思われない情けない態度だ。まったくあきれかえる小人物ぶりだ。孔子は「お前はなんとも思わないのか?」と聞いたとき、まさか宰我が「思いません」と答えるとは思わなかったのではないか。決めゼリフに近いものをキッパリと弟子に否定され、さしもの孔子も返す言葉が出てこなかったのではないか、と。

『論語』をありがたがる人間は、とかく孔子を正しいものとして理解したがる。それは『論語』の性格上、極めて正しいやり方で、『論語』を読めば普通の人間はそう思う。むしろ『論語』を読んで、孔子は言い負かされていると思うのは、『論語』が正しく読めていない証拠である。なにせ『論語』はもともと孔子が正しいものとして描いているのだから。それ故に『論語』を忠実に読もうと思えば思うほど、孔子は正しくなる。これに対する批判的読み方は、『論語』の正しい読み方に対する読み方でしかなく、それ自体として自立できぬ読み方である。故事(歴史)が残らぬとき、人は判断を限定されるのである。

しかし、『論語』を正しく読むなどというのは勝手な学者の寝言で、私はそんなものに順う気はない。『論語』を読んだ。孔子はくそったれだと思った。宰我は魅力的な人間だと思った。それだけだ。


念のため弁解しておくけど、合理主義だからという理由で、私は宰我を気に入ったわけではない。合理主義というのは都合のいい言葉で、どんなところにも顔を出すが、それ自体に価値はない。合理主義は単に理詰めに説明するだけの意味しかなく、その程度のことでいいなら、孔子の言葉も充分合理的である。私が宰我に牽かれたのは、それ自体は正しく、それを否定することは出来ないにも関わらず、それを行えば世の中の道徳が狂い、従って多くの人間が迷惑をこうむる、そういう言葉を宰我が吐いたと思ったからだ。どんな世の中も矛盾はある。その矛盾に目を背けて生きるのは人間の知恵だ。ところが、その中でも、もっとも目を向けていはいけないところに、宰我先生は目を向けさせてくれる。人を小馬鹿にすることこれほど甚だしいものはない。だれも知っていることを殊更得意げに話してみせる。これほど小人なことはない。だから私は宰我が好きなのだ。もちろん喪に服すこと三年それ自体は、今更どうでもいい。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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