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専門的思考

このまえ古典の悪口を書いたおかげで、むかしのことを思い出した。いつのことか忘れたが、パレートの『一般社会学提要』(リンクはアマゾンだよ)を読んだ。パレートの学業は、経済学に熱を入れていた前期と、社会学に力を込めていた後期に分かれ、前期は数量的な合理性を重んじ、後期は残基とかなんとか言いだして人間の非合理的な側面を重視するようになったという。これは専門家の受け売りだから、今でも通用するのか、当時にあっても通用していたのかは知らない。ただそのような話しを聞いた私は、当然のように、前者ではなく後者に価値(興味ではない)を感じ、翻訳されていて且つ比較的厚くない『一般社会学提要』を借りて読んだ。

これと同じようなことは他にもあって、なぜかオーストリア学派に興味を持った私は、はじめは定石どおり(?)メンガーの訳本を読み、ついでベーム=バヴェルクに興味を持ったが(これはちゃんとした訳本がなかった)、最終的にヴィーザーのことが知りたくなった。なぜならば彼は「freedom has to be superseded by a system of order.」と云ったらしいことを知ったからだ(wikiにも見える)。自由よりも秩序を重んじること、いや、秩序のために積極的に自由を犠牲にすべきだといのが、私の好きな思想なのだ。もっと正確に言うと、そのような観念を持っている自由な世の中が好きなのだ。矛盾してはいるのだが。ちなみにヴィーザーのことは外国書を頼らなければならなかったので、結局たいして調べなかった。

しかしながら、私の価値観はともかく、こういう人々は評価が難しい。なるほど前期パレートの合理性をモットーにしている人ならば、残基を重んずる思想は衝撃的かも知れない。しかし本当にそうだろうか。むしろ普通の人間には「当たり前のこと」に思えるのではないか。人間が古いものを引きずるのは当然で、そのことに驚きを感じること自体に、むしろ驚きを感じるのではないか。専門的言葉をその外に適応しようとすると、とかく問題が起こる。

人間はものごとを深く考えようとすれば、必ず何らかの専門に入る必要がある。高畠さん的表現を借りれば、偏る必要がある。偏れば偏るほど深い人間への洞察、世の中に対する観察が可能となるが、それは偏りであるがゆえに、どうしても世間一般から乖離してしまう。同じグループに属す人間には、同じ偏りがあるため、その偏りの限りにおいて深い考察に驚嘆することが出来ても、その驚嘆すべき内容は、実はすこし平静に見れば、あまりに当然のことである場合がある。パレートが残基の重要性を指摘したのは、合理性を重んずる思想の支配する所において意味を持ちうるだろうが、それ自体としては余りに当たり前すぎて、私のような偏屈な人間でもない限り、特別の議論を要するようには思われない。

頭のよさそうな文章を読んでいて、たまに専門的偏りのため、斬新に見えているだけの主張にであう。それは人間だれしもあるものだから構わないのだが、あまりにいきり立たれると、失礼ながら、ちょっと頭を冷やせばどうかと茶々を入れてみたくなる。


ちなみに上のパレートの本はすごかった。単に私の学識がないだけとも言えるが、なんとまあ古典的知識の横溢した人物だと感心した。さすがは英才教育を受けただけのことはある。これくらいの教育を受けるくらいの人間でないと、古典はやくに立たないだろう。いまの日本にこんな教育を受けている人間がいるのかどうかは知らないけども。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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