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思い出

今年の4月頃に大急ぎで『秦山集』に目を通した。あのときは偶然だったので、どうしても急がざるを得なかった。もちろんそのおかげで短期間に『秦山集』全編に目を通すことができたので、かえって書物全体の状況は把握しやすかったのだが、内容となると、やはり精読したく思う気持ちが強かった。

『秦山集』は、明治時代に秦山の子孫・谷干城が刊本(線装本)を出版したおかげで、貴重書あつかいされるほどではなく、来歴のある図書館にいけば所蔵されていることも多いらしい。しかしそうは言っても明治時代のものだけに、今現在あちこちの古本屋に出回るようなものではなく、出品されてもそれ相当の値段がついてしまう。

そういうこともあって、あれ以来、古本屋に『秦山集』が出ていないものか探していたのだが、案外というべきか、数ヶ月の後に売りに出されているのを発見してしまった。値段はそこそこだったので買うか否か迷ったが、現状から考えて、恐らく私がこの手の古籍を買う最後の機会だろうと思い、手持ちの不要な本を幾つか処分して購入に踏み切った。そして代金を振り込んだ数日後、件の『秦山集』の裸本が手許に届いた。

さっそく『秦山集』の中身を調べたところ、総じて綺麗なものだったが、部分的に破れた頁があった。しかしそれらも運良くむかし抜き書きしておいた部分だったので、内容的に不明なところは一文字もなかった。帙入りでなかったのは残念だが、これは平積みしておけば問題ないだろう。いまは枕元の出っ張りの上に平積みしてある。

とはいえ、『秦山集』を入手しても、のんびりと読み耽っておれるわけはなく、たまに時間を見つけては頁をめくる日がつづいた。最近になって、ようやく1冊ばかり読み了ったところだ。『秦山集』といえば澁川春海らの伝承を伝えた『甲乙録』が有名だが、私は秦山じしんの言葉の多い『丙丁録』以下の記録の方が好きだ。

秦山の言葉は、平凡なように見えて、安易さがない。殊に人間が陥りがちな奢りの心、心の奥底に潜む怨みの情、努力だけでは立派な人間たり得ない厳しい現実を、鋭く指摘している。日々の努力を欠かさなかった秦山じしんが、体験的に得たものだったに違いない。心を落ち着けて読めば、急いで読んだときとはまたひと味違う深みがある。こういう書物を読み得たのは、ある種の幸せといえるだろう。

しかし『秦山集』を読んで思い出すのは、修士課程に入学(進学?)したときに買った『続資治通鑑長編』と『宋会要輯稿』(どちらも影印本)のことだ。あの当時、両書を使いこなす力はなかったが、それでも始めて専門的な本を手に入れたというので、夜中、無意味に頁をめくってニヤニヤしていた。もう随分遠い昔のことだし、もしかするとそれが間違いだったのかも知れない。しかし当時の嬉しかった記憶を思い出すと、やはり今の結果を導いたのは当時の自分なのだなと、改めて思い知らされる。それと同時に、そういう幸せをひとときでも味わえたことは、今はどうあろうと、私自身やはり幸せだったのだろうと思いもする。

優れた人間は世の中にたくさんいるが、私がとりわけ秦山先生に牽かれるのは、なにか秦山の言葉に、私に足らないものを見ているからかもしれない。

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ジャンル : 本・雑誌

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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