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古典教育(続)

先々週のこと、若年者に対する『論語』教育(中国古典教育)は有害だと文句をつけたら、一般人にとっての有益な用い方を書くべきだというお叱りを受けた。もっともな話しだ。批判だけなら誰でもできる。しかし正直なところ、『かなめも』のレビューをしたり、さくらちゃんは神だと言ったり、四コマの感想を書く人間が、『論語』のような中国古典の有用性を説くのはどうよという気がしないではない。なによりも、もし人々を賛同せしめるような中国古典の有効利用法を説明できるのなら、恐らく私はそれで飯を食っているはずだ。

ということで、まともにお答えするのは困難なのだが、せっかくのコメントなので、私自身の考えを書いておこう。手順として、まず「恐らく求められているであろうこと」に対する「求められていないだろう答え」を、ついで「相手の存在を無視した私の所感」を書くことにしたい。ただし、ありきたりの解答か、さもなくば肩すかしになるというのは、予め申し上げておく。

*コメントは管理画面で一元的に管理できるので、関係する記事のところに書いてもらって構いません。
*本記事は上記のコメントに対するものです。非表示でしたので、コメントの内容は細かく書きません。

(1)普通の返信

私は一般の人間に古典(中国古典)を薦めるつもりはない。古典を読んで意味があるとすれば、恐らくそうとう裕福な人間に限られると思う。古典を専門にして生活に困らない人間は、古典を学ぶ価値がある。しかし自身の生活も苦しい人間が古典を読んでも、時間を空費することになるだろう。古典は金持ちの遊びなのだと思う。

とはいえ、古典を学びたい人にやめろというつもりはない。例えば、世の中にはhowto本を好む人がいる。うまくhowto本とつきあえるのなら、そのhowto本はその人にとって有益なものとなるだろう。それと同じで、『論語』や『孫子』や『韓非子』を読んで、その人にとって有益なものを引き出せるというのなら、それでいいのではないかと思う。その場合、学者の求めたがる「高尚な解釈」や「理解」を求める必要などない。自分の必要に応じて読めばいいのだ。

また、実益の有無だけで古典の要不要を考える必要もない。つりを好む人がいる。それと同じように、古典を読んでおもしろいと思える人もいるだろう。その人にとって古典は娯楽なのだ。単に同好の士が少ないだけで、その人にとって古典は立派な娯楽たり得ているのだ。ならば楽しく古典を読む人に向かって、価値がないとか、実益がどうとか、そういう発言をすることは無粋だろう。

あそこの記事で、私は「古典は魅力的」と言ったが、あの「魅力」は、恐らく「有効利用」を尋ねられた方の求めていない「魅力」だと思う。

古典は現実と異なる論理で動いている。したがって古典的論理を理解することは、とりもなおさず現実の論理と異なる論理を、自分自身に宿すことになる。しかし現実の論理を否定する論理を同一人の中に宿すのは、思うほど簡単ではない。例えば、現在の日本では、ふつう殺人は否定されている(戦争等を除く)。しかし古典の世界では異なる。むしろ条件が揃えば推奨されることすらある。その二つの論理を同時に肯定するのは、思うほど簡単ではない。

では、なぜこの異なる論理を知ろうとするのか。まず、研究者的態度で言うならば、異なる論理は、それ自体が楽しいからだ。その効能や実益などどうでもいい。知りたいだけなのだ。同じ現実を目の前にして、異なるものとしてその現実を捉えられる。これは発見であり、非常に楽しいものだ。

だが、もう少し実益というものを考慮するならば、次のように説明することも可能だ。すなわち、そのような作業を続けることで、現実の中に潜む問題を認識したり、その打開策を考えることもあるていど可能となる、と。問題を解決するとき、最も有効な方法は、試行錯誤によって問題そのものを無効化することだが、次善のものとして、現実の論理の外にいる人間の知恵を借りる方法がある。古典はその最も有効な利用法の一つだと思われる。しかしそのとき注意しなければならないのは、読み手が古典のもつ歴史性に曳かれることだろう。

人間がなにかを主張する場合、必ずなんらかの背景を必要とする。その背景なくして物事は主張できない。しかし主張を一般化するには、背景が邪魔になる。しかも厄介なことに、数式などを用いて一般化した定理は、現実から余りに隔たりが生じ、現実的な有用性を失ってしまう。そのため古典を利用するものは、常に背景に依存して古典を読みながらも、常に古典の哲理から背景を除去して理解する必要に迫られる。かつて中国の学者が「六経は糟粕だ」と不遜な発言をしたのも、恐らくこの種のことを指してのことではないかと思う。

六経は儒学(したがって旧時代の中国の知識人)の根本聖典であり、糟粕は「残りかす」を意味する。根本聖典であるはずの六経が、なぜ真理を抽出された残りかすなのか。――六経の文字に拘泥して、その歴史性に依存するならば、六経の精神は理解できない。六経の文字に拘泥するものは、六経の糟粕を嘗めるに等しい。だから六経は糟粕なのだ。しかし、六経の精神を、もし心の問題のみとして捉えるなら、それは間違いだと言わなければならない。六経の精神は六経の文字そのものにはないが、その文字がなければ精神は伝わらない。したがって六経の精神を知るには、六経の文字に即しつつ、しかも文字を忘れなければならない。

簡単に言うと、古典を読むのに、その背景となる歴史や一般事項を知っておく必要はあるが、古典の歴史だけいくら勉強しても、古典を読んだことにならないという、至極一般的なことになる。そしてこのようにして有益たり得る古典的知識は、およそ普通の人間には必要ないものだと思われる。普通の人間は、このような古典的知識を得たところで、実際に用いるところがない。用いて有益であるとすれば、それはもっと「高尚な世界」や「高度な判断が求められる世界」に住む住人ではないかと思う。

さて、このような結論がお気に召さないものであることは、私も十分承知しているつもりだ。人間が問いを発するとき、既にある範囲の結論を求めている場合が多い。むしろ自分の好む傾向にある結論をうまく導き出してくれる解答、もしくは自分の好む傾向を導くのに有益な解答を求めて、あえて問いを発する場合が多い。したがって中国古典の有効利用はどうかという問いを発した人間は、有効利用が可能であり、その方法は何かを知りたいのだと、考えなければならない。そしてもし私が商売でこれをしているなら、そのように答えるだろう。あるいは顧客の要望の情報が不足しているなら、段階を踏んで顧客の求めを探り、その上で顧客の望む結論を出すだろう。しかし幸か不幸か私はこれを商売にしていない。

したがって中国古典の有効利用法を尋ねられたとき、私は、中国古典の有効利用はないという結論を出し得る。そのような私からすれば、中国古典の利用法は、通常のhowto本と同じような効果しか期待できない。「東洋思想で磨く人間力」、「ビジネスに活かす中国思想の叡智」、「今こそ求められる春秋の筆法」などともっともらしく説明してみても、それはhowto本と同じなのだ。ただ少しばかり高尚に見えるだけだ。もし実益を求めるなら、古典を学ぶ意味など、ほとんどない。

なお以前の記事で書いたことだが、中国との関係上、中国古典を知っている方が国益に適うというで、そのために中国古典を学ぶのなら、それは明らかに有用だ。その場合の古典の有効性は、いわゆる古典を学ぶという「高尚な」ものではなく、徹頭徹尾実利的なものとして、つまり直接利用するための、もっといえば知識をひけらかす/相手に欺されない/相手を欺すために、必要なものとなるからだ。

一番目の回答はここで了わり。


(2)相手の存在を無視した返信

中国古典の利用法として、私がすぐ思い浮かぶのは三つある。第一に、それによって直に技術や実用知識を身に付けるため。第二に、自身に箔をつけるため。第三に、実践的なもの以外のもののために、例えば暇つぶし(読書)とか、自己満足(俺は知っているという類のあれ)とか、修行とか、趣味(無意味な学者の研究)とか、そういうもののため。

この中で中国古典の利用法として本質的なのは第一であるが、第二の方法も決して無視できない。例えば、江戸時代の儒学者は、もともとネイティブと同等のライティング能力はなく、書き下し文的なものを下敷きに漢文らしいものを作っていたとされる。下敷きが書き下し文なら、それはもう日本語のようなものだから、それなら一層のこと日本語で書けばよさそうなのに、そうはしなかった。なぜか。中国古文で書かないと一流と見なされなかったからだ。当時の知識人からすれば、中国古典の知識を用い、美文らしく見える文章を書くことが、知識人の証だった。だから内容に関わらず(しかも読むのが日本人に限られるのに)、中国古典の知識をもち、それを中国古典のように書く必要があったのだ。箔をつけるための古典利用は、非常に有益で実益のあるものなのだ。

では第二の利用法が現代に有効かといえば、かなり疑問がある。まず第一に、古典的知識に溢れる人間は、少なくとも一般的には評価されるだろうが(日本では顰蹙を買う可能性があるが)、必ずしも必須ではない。殊に中国古典は不利な立場にある。かつて中国古典の影響を受けた我が国でさへ、もはや影も形もなく無視されている。それがもとよりその影響を受けなかった他の大多数の地域であればどうか。古典的知識を持つ人間が尊敬されるのは、その古典的知識が他の人々と共有されているところに限られる。したがって日本人の前でシェークスピアを引用してみても、教養を感じるのは一部の学者だけで、現地人は特別な感銘を受けない。それと同じことは当然ながら中国古典にも当てはまる。

中国人にはいざしらず、中国古典の知識など、日本人にとってほとんど無意味なばかりか、白けられるのが関の山だ。では今後ますます重要性を増す中国で用いるなら有用だろうか。これも大いに疑問がある。仮に中国で古典的知識が喜ばれたとしても、恐らく普通の日本人が普通に学んだ程度の中国古典の知識では、ゴミに均しいだろう。むしろ失笑を買うであろう。日本では古典勉強が冷遇されているので、我が国の古典的知識はほとんど学ばない。しかし他の国がこれと同じというわけではない。要するに、第二の方法として中国古典を用いるのは、努力の割にほとんど実益がない。

では第一の利用法はどうか。かつて中国古典には現実的に有益なものが記されていたと考えられていた。だから多くの学者が古典を研究した。古典には、現在の医学や薬学や経済学と同じ価値があり(あると信じられており)、漢文には現在の英語と同じ効能があった。だから古典の研究に精を出したと考えられる。しかし現在は違う。古典に医学や薬学や経済学と同等の効能を求める人間はいない。なるほど、古典を読めばもしかするとヒントくらいは得られるかも知れない。しかし費用対効果が悪すぎる。不確実なヒントを得るために古典の研究に数十年の時間を払う人間はいないだろう。

ここにもう一つ考慮しておかねばならないのは、かつて古典は人間世界における価値のほとんど唯一の源泉だったが、現在ではそのように考えられていないということである。なるほど古典に価値はあるかもしれない。しかし古典と同様の価値を、近しい時代に生み出され、また現在生み出されつつある書物も持っている。むしろ近現代の書物の方が、古典よりも我々との時代が近い故に、より一層価値があると考えられる。ならば敢えて読みにくい古典を読んで、わずかなヒントを求める必要はない。少なくとも古典と同格の価値を持つ最近の書物を、我々は読めばいいことになる。従って、第一の古典利用法は、現実においてほとんど存在価値がないと言える。

なおこれに関連して、中国の独自性を知るために中国古典を学ぶ必要があるという考えがある。これはなかなか有力なものらしく、あちこちでこの種の考えを耳にする。確かに中国の独自性は中国古典から得られるだろう。しかし中国への効果的な対応は、古典から得られるものではない。かつて実務的に成功した人物の全てが中国古典に通じていたわけではない。否、古典の解釈はつねに変化し続けており、学者によると「進歩しつづけている」らしいから、かつて存在した人間は、誰一人として古典を正しく理解できていなかったはずだ。ならば成功を夢見る人は、古典のような不確かなものを頼りとせず、もっと別のものに身に付けるべきだということになる。

ましてや中国のことを知るのに中国の古典(したがって歴史)を用いるというのは、一種の同義反復でしかない。例えば、現実の中国を研究した結果、A{a,b,c,d}の特徴を得られたとする。それと同様に過去の中国(もっと厳密に言えば歴史書)を分析した結果、歴史順にB{a,c,f,g,}、C{a,b,g,q}、D{a,d,g,z}の特徴と区別を発見し得たとする。この場合、中国を特徴づけるものは{a}であり、変化したものは{b,c,d,f,g,q,z}であり、結果として中国は{g}の特徴を喪失させ、{a}の特徴のみをもつものとして推移したと考えられる。しかしこれは常に現実の中国A{a,b,c,d}に依存する。過去は現実から遡った場合に意味を持つのである。Aが変化するとき、中国の特質も変化する。Aは古典によって証明されたように見えるだけで、古典の意味はAによって決定されている。したがってAを証明するのに古典を用いることは、意味をなさない。

ましてや現実の中国の推移は、歴史的に判断できるものではない。これも便宜的に個々の場合と全体の場合の二つに分けて説明するならば、まず個々の決定について、これはほとんど偶然に依存する。誰しも知るように、ある決断に対して、歴史的英断を下す場合もあれば、「やはり」という決断を下す場合もある。その各々は複雑に動く現実と当事者の間で決定されるのであり、決して大時代的な歴史が決定するものではない。

第二に、これよりも少し大きい問題として、中国の全体性的推移を問題とする場合が考えられる。しかしこれも非常に心許ない判断である。なぜか。大抵この種の大時代的な歴史的推移を根拠とするものは、中国を例に取るならば、中国以外の諸条件が不同の場合、中国はこうなるという判断をする。あるいは顕在化した中国外の諸条件と中国の諸条件を可変的に扱うことで、判断する。もちろんこのような方法は、歴史的問題以外の研究に対しては、例えば経済学のようなものに対しては、ある程度有効性をもつのかも知れない(私は知らない)。しかし古典研究それ自体から価値を引き出すような大きい試みのための方法としては、あまりに問題が多すぎる。

もし古典から大時代的な結論を引き出すならば、潜在化している問題のみならず、人間の無意識下にある問題、さらには人間に関知し得ない問題をも考慮に入れ、常にあらゆる条件が変化しつづける中で分析しなければならない。しかしそのようなものは不可能だ。まれに歴史に依存して正しい現実を把握したと称する人間が、歴史学者の中にいる。しかしその種の学者の著書を見るならば、およそ意識化されない多くの前提や知識が既に存在し、それらに導かれる形で史料を解釈して結論を出したものであることが分かる。極端な言い方をすれば、取り立てて史料的根拠などならべなくても、はじめから結論が出ていたとも言い得る。

こうして考えるならば、中国古典に対する贔屓を捨てたとき、果たして中国古典に特別の価値を与えられるだろうか。中国古典贔屓とは、言うなれば武士道贔屓や仏教贔屓と同じだ。それぞれに有益なものを含んではいるだろうが、それ以上のものではない。その各々のもつ有効性は、他のものがもつ有効性と、おそらくほぼ同量だろう。ならば中国古典を他よりも優遇しなければならない理由はなくなる。他よりも優遇する必要のない存在は、個人の好み以外に魅力を持ち得ず、それは結局趣味ということに他ならない。

そこで最も無益な第三の方法が残ることになる。しかしこれは説明しなくてもいいだろう。こういう利用法は、本質的ではない。学者が古典研究で遊んでおれるのは、せいぜい「我が国にはこういう暇なものに金を出す余裕がありますよ」という見栄にすぎない。見栄をはる余裕がなくなれば、当然ながらまっ先に切り捨てられるだろう。そして学者のように国から金をもらっていない場合、つまり普通の人間が個人的な興味で中国古典を学ぶ場合は、それはもう個人のお金と時間がつづく限り、どうぞご自由にということになる。そして古典に対する第一と第二の利用効果がない現在に於いては、中国古典に対する教養は一部マニアにしか受け入れられず、web上であっても小さいサークルの中で活動するしかなくなる。

結論として、中国古典の有効な利用法はあるかと問われるなら、本人が大人であり、且つそれに興味があるなら、個人及びそれに友好的な理解を示してくれる人間同士で、喜び合うことが懸命な有効利用法だと思う。皮肉な言い方をすれば、わざわざ中国古典を用いなくても、howto本で充分こと足りる知識を、あえて金と時間をかけて手に入れたいと思う人間が、精神的な満足を得ること、それが中国古典の有効な利用法だと思われる。私があえて「大人」と断るのは、古典の描く世界は、その論理に従うならば、それなりに合理的なもの故に、現実を知らない子供が古典を玩び、古典的論理の罠に身を嵌めるならば、現実を否定して古典的論理を肯定しかねず、そうなればその子の将来を駄目にするばかりか、世の中に与える害悪も大きいからだ。

もし中国古典を万人に有用たらしめようと思うなら、なによりもまず万人の望むものが中国古典にあることを示さなければならない。それなくして万人が中国古典を学ぶことなどあり得ない。しかし仮に中国古典の中に有用性を発見し、世の中に開示できたとしても、恐らくそのとき従来の中国古典愛好家は閉口するだろう。なぜなら、そのとき開示される中国古典は、既に愛好家の知るそれではないからだ。愛好家の知る中国古典とは、かつての中国古典であり、医学や経済学のような武器を備えている古典ではないからだ。


なお吉田茂をはじめ、むかしの多くの政治家が漢文に親しんだというのは、別に異とするに足らない。戦前は現在よりも江戸時代に近く、従って現在よりも漢文の知識が漸減しつつ生きていた。漢文を学んだ人々が多い中では、漢文も意味を持ち得る。上の第一と第二の意味が、漸減しつつも、存在したからだ。だから現実的な力が中国古典にあったのだ。現在はその最後の延長線上と考えられる。だからまだ漢文に固守する人がいるのだろう。

私が中国古典に興味を持ったのは、半分は最後の延長線上に引っかかったからだが、もう一つは、私の住む世界とは全く異なる存在として、中国の古典に興味を持ったからだ。言うまでもなく、その場合の中国の古典は、日本ではほとんど知られていないアフリカや南米の諸文化と同等の意味を持つ。自分と異なるものだから、牽かれたというに過ぎない。そして興味を持ち、その道に足を踏み入れた以上、当然のこととして私は中国古典に価値を付与しようと考えた。付与という言い方が嫌なら、発見でもいい。どちらも同じことを別の表現で述べただけだ。私がこのブログで春秋学を無意味に喧伝しているのは、古い春秋学を復活させたいわけでもなければ、春秋学の歴史を宣伝したいからでもない。私にとってそれらは無価値なものだ。私が春秋学を云々するのは、新しい価値ある体系としての春秋学を復活させたいからに他ならない(まだ発見できていないが)。

二番目の回答はここで了わり。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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