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儒学の復興はあるか

タイトルはでかいが、大した話しはしない。ふと思いついたので、書いておくだけだ。

儒学の定義は難しいが、私などは権力を肯定するための存在だと思っている。だから私は儒学に価値があると思っている。こういうと反権力が正義だと勘違いしている人間に嫌な顔をされるかもしれない。しかし人間には権力が必要なのだ。それにも関わらず、権力は暴走しやすく、扱いが難しい。その厄介な存在をうまく捌くために、いろいろな知恵を出し合って作り上げたものが、儒学ではないかと思う。何事につけ政治第一の中国らしいが、この辺りが中国の優れたところでもあり、また難しいところでもある。

でも儒学は単なる理念ではない。理念だけを掲げて、現実政治に融合するものではない。そこには経書(聖書みたいなもの)があり、伝来の解釈があり、立ち居振る舞い(儀式)がある。経書は書かれたものだからほとんど不動の存在だが(たまに出土史料で改訂されることがある)、その解釈は比較的融通無碍で、立ち居振る舞いに至っては、時代に合わせればよいという。これは歴史研究には迷惑なことだが、生きた思想となるためには、当然ながら不可欠なものだろう。固定化された解釈や儀式では、揺れ動く時代に通用しなくなる。

儒学が今後どうなるかは知らない。しかし儒学が儒学として生き続けるのなら、当然ながら国家権力と融合して、国家権力を肯定しつつ指導しつつ批判しつつ、経書を都合よく解釈し直し、現代チックな儀式を作るのではないかと思う。もちろん都合のいい解釈だとか、現代チックだとか、そういう風に思われるようでは、未完成の謗りを免れない。儒学が真に復活したならば、その理念の下で動く人々は、過去と異なる解釈や儀式に何一つ疑問を抱かなくなるだろう。そしてそれこそが正しい思想の用い方なのだと、私は思う。ちょうど朱子学が新たな思想で人々の心をつかんだようなものだ。朱子学に許されて、我々にそれが許されぬはずはあるまい。むしろそれを否定する人間こそが異端なのだ。

昨今の日本には歴史的研究が横行している。中には思想まで歴史で語ろうとする人間がいる。これはいけない。思想は生き物だが、歴史は死骸だ。生き物をわざわざ殺して何になるのだ。過去の思想がこうであるからといって、現在もこうでなければならない理由はない。今までそうであるからといって、これからもそうあり続ける必要はない。思想はあるべき現実を実現するために、現実に足を付けつつ現実を否定するものでなければならない。そんな生きた思想を死骸にしてしまっては、なにも得られはしない。過去は思想の半面でしかない。

ただし物事を正しく予見するのは難しい。思想は己の臆断を正しいと妄信させてくれる。だからこそ思想は危険だ。それを振り回す人間も危険だ。長らく自分を培い、人々の信頼を勝ち得た思想ですら、未知の人々は畏怖する。ましてやそれが若い頃から特殊な儒学思想にかぶれ、ひたすら突き進む人間であればなおさらだ。私だってそういう人間とはつきあいたくない。直感的に危険だと感じるのだ。しかし、思想がそういう危険を含むものであっても、あまりにもあふれかえる歴史的研究を前にしては、どうしても私はそれを否定せずにはおれない気持ちになってしまう。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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