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「日本の学」

なぜ秦山に興味を持ったのか、私にもよく分からない。私は「大王は神にしませば」の奈良時代が好きで、幕藩体制で地方分権の江戸時代はむしろ嫌いな時代だし、むりにネイティブぶった日本の漢学者は総じて好きになれないのだが、なにを血迷ってわざわざ江戸時代の漢学者の秦山先生に牽かれたものやら。

直接的な理由は案外単純なもので、『秦山集』を短期間に読んだからとか、その程度のことだと思う。しかしその手のお気に入りはすぐに熱が冷めるものだが、秦山に至ってはなかなか飽きないどころか、むしろ垣守だとか、真潮だとか、そういうややこしい方面に興味を持ちだし、挙げ句の果てには、崎門だとか、神道家だとか、そういう最も手を出してはいけない方面にすら関心が出始めた。

私が秦山先生に牽かれる本当の理由は私自身もよく分からないが、思いつくのは、彼が貧困苦節に甘んじ、美しい人間的生活を歩んだところと、教育者として後進を導いたところと、そして恐らく神だの日本だのといって「国粋」的な発言をしたところだと思う。前の二者は言うに及ばず立派な話しで、別段秦山でなくても構わない。問題なのは当然三番目の理由だ。あるいは前二者と三番目が妙に融合しているので、秦山に強く牽かれるのかもしれない。ちなみに国粋は清末(民国だったか?)に生まれた言葉だったように記憶する。気になる人は自分で調べてください。

グローバル化の進みつつあるこの頃、神道だの日本だのと喧伝するのは、愚か者のすることのようにも思える。私もそれが単なる復古である限り、賛同する気にはなれない。どれほど素晴らしく、どれほど懐かしく、どれほど帰りたくとも、過去には帰れないからだ。敢えて高畠素之の言葉を引いておこう。

然るに世の復古主義者、尚ほ廣くいへば精神主義者は、社會主義もまた唯物主義だから人類の幸福に寄與し得ないといふ。そして求むるところは、過去の社會生活そのものである。昔を今にするよしもなしといふ古歌の心意氣は、等しく今を昔にするよしもないのである。汽車、電車、瓦斯、等々の物質的なそれが、一時に眼前から、拭蝕されたなら、その不便は目明がめくらになつた以上であらう。生れながらの盲目なら別として、現世的な美と幸福を眺めた兩の眼が、一時につぶれたとなれば、その不幸は想像外であらう。ところが復古主義者、なほ廣くして精神主義者は、十億の人間が皆めくらになれといふ。そして盲目にのみ幸福があるといふ。世にこれ程の出鱈目はあるまい。(『自己を語る』向ふ三軒兩隣り)


しかし私が思うのは、ずいぶん前に引用したが、高畠さんの弟子の石川準十郎の次の言葉だ。

このことは現在に於いて国家の消滅を考えて見る時は最も明瞭に理解される。日本が仮りに米国なら米国と戦い、不幸にして敗れ、その下に征服され、その属国とされたと仮定する。然る時は日本国家は其処で消滅して了う。然し日本社会はそれに依って必ずしも消滅しない。否日本民族社会はそれに依って決して滅びない。ただ極めて不幸でありみじめであるというだけである。而して其処からは勃然として日本国家再興の運動が起きて来るであろう。国家滅びて国民の幸福はない。それ自身の独立せる統制組織、権力組織、即ち国家を失った国民乃至民族なるものが、如何にみじめなものであるかは歴史の証明しているところである。(国家主義と社会主義(上)、『国家社会主義』第2年12月号。原文旧漢字旧仮名使い。原文の傍点は太字に変えた)


国家というとややこしいが、高畠さんや石川さんの国家は、支配統制機能のことで、いわゆる国家とは少し異なる。別の言葉で説明するとよけい混乱するが、文化的な運命共同体的なものの上に成りたつ秩序立った組織だと思ってもらえばいい(文化的な運命共同体とはいっても、オットー・バウアーの概念とは違うので)。

要するに、人間は一人で生きていけないが、集まっていればそれでいいわけではない。そこに一体感がなければ、単なる烏合の衆で、秩序の維持などできるはずがない。経済や偶然や環境のため、秩序ある集団からはみ出たために、残酷な人生を歩まざるを得なくなった人間はもちろん悲惨であり、それはなんとか救済されるべきであるが、単なる烏合の衆のなかに生活する人間は、これと同じくらい悲惨だろう。

いまの私にそれほど明確な意図はないし、力量はもっとないが、自分の頭の中を探ってみると、不回避的に崩れゆく昔日の日本(国力とか経済力のことではない)を思い、改めてこれから日本という存在や日本人というものを考えようとした場合、そもそも日本とは何であるのか、これを知りたいのではないかと思わないでもない。もちろん「日本とは何か」といっても、「平静に歴史を読めば、日本はこうだった」というような、過去そのものの日本の探求には興味がない。そもそもそのような理屈は原理的に成立しない。歴史を平静に読んで得られるのは、矛盾だらけの都合のいい結論だけだからだ。私は秦山の努力を通して、これからの日本のための歴史とその本質を知りたいのだ(と思う)。

ちなみに、言うまでもなく、具体的な「日本」の定義に至っては、秦山先生の発言は役に立たない。秦山先生の具体的提言は、具体的であればあるほど、江戸時代特有のものなのだから。現代に生きる人間は、秦山先生の糟粕を嘗めるのではなく、秦山先生の精華をつかみ取る努力をしなければならない。間違っても、「秦山先生(別の偉いひとでも可)が~と言っていた」などと権威主義的な発言をしてはいけない。「私は~と思う」と発言すべきだ。

なお題目の「日本の学」は、秦山が日本の儒学崇拝主義者に対して発した言葉。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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