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秦山・尚斎・木斎

谷秦山も三宅尚斎も、ともに山崎闇斎の晩年に弟子入りした。両者に接触はあったのか、なんとなく気になっていたので、少し調べて見た。

尚斎が闇斎に入門したのは、十九歳の延宝八年(1680)で、そのまま闇斎没後まで弟子の列にいた。対する秦山は、その一年前の延宝七年に十七歳で上京、六月一日に浅見絅斎に師事、ついで十月二十一日に闇斎に師事。翌八年四月に諸般の事情で帰郷している(谷氏族譜による)。尚斎の入門月日が不明のため、正確なところは分からないが、秦山と尚斎が切磋琢磨した時期はなかったか、あったとしてもごくわずかだったことになる。もちろん両者は書簡で神道の押し問答をやっているので、面識のあるなしに関わらず、知り合いではあったはずだ。秦山の弟子・宮地静軒も後に尚斎に師事している。それに年もほとんど変わらない。

一方、同じく闇斎晩年の弟子で神儒兼学に走った男に仙台藩の遊佐木斎がいる。彼もまた微妙な時期に入門している。木斎先生についてはネットに手頃な年譜があったので、それを借りて............というわけにもいかないから、大昔に複写した『仙台叢書』所収の『木斎紀年録』を繙くと(っていうか、部屋の奥から出しただけだけど)、山崎闇斎に始めて面会したのは延宝六年三月二十七日のことらしい。時に歳二十一。そして同七年八月九日に帰国命令が到着し、二十七日には京都を発っている。

ちなみに上の紀年の中、尚斎だけは手許に資料がなかったので、やむを得ず『佐藤直方・三宅尚斎』(明徳出版社、『叢書・日本の思想家』12。担当は海老田輝巳氏)を用いた。『日本道学淵源録』に尚斎の行状や年譜が入っているので、もしかしたら月日も分かるかも知れない。

それはともかく、こうしてみると木斎が尚斎と会うことはなかったろうが、秦山とは微妙な関係にある。ただ木斎は佐藤直方を通して闇斎に入門したのに対し、秦山は浅見絅斎に弟子入りしてから闇斎に入門している。また木斎は神道入門したのに、秦山は許可されなかった。ということで、木斎と秦山も、秦山と尚斎に同じく、京都での関係はほとんどなかったと想像される。闇斎晩年の弟子として著名な三人が三人とも、微妙な時期に入門し、みな微妙に接触していないらしいというのも、なにかしら奇縁を感じておもしろい。

しかし闇斎入門時の三人の身分は、なかなかどうして将来を予想している。木斎は所謂国費留学というステキな肩書きを持っての勉学だったのに対し、尚斎は自身の発案で闇斎に入門し、秦山に至っては家計を苦しめてまでの上京だった。その木斎は、自身の後継者にこそ今一つ恵まれなかったが、仙台藩の儒臣として重きをなした。尚斎も壮年にして忍藩で幽閉されたが、最後は崎門派の最長老として重きをなした。ところが秦山は、貧乏暮らしの上、神道に走って絅斎から義絶されるは、最後には閉門蟄居を喰らって罪人のまま死んでしまった。

登場時にその人の一生が見えるというのも、なんとも嫌な話しだ。ただし死後の顕彰という意味では、おそらく生前の逆になるだろうと思う。むろん私は三人ともに敬意を払っているのだが。


なんとか尚斎の年譜を確認したい。

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