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三宅尚斎の神道批判

先週、尚斎の『雑談録』について漫然と感想を書いた。今回は残りの神道関係のことどもを記しておきたい。以下、原文の片仮名は平仮名に直し、文字は道学資講本を用いて適宜改めた。世の愛好家は片仮名文字や踊り字に厳しいらしいが、そう大したことを書くでもなし、大目に見ていただきたい。(だいたいこんな感じですが、あとで文字を修正する予定です)


尚斎が神道に批判的だったのは有名な話しで、その精神は『雑談録』においても貫かれている。しかし尚斎の批判する神道は、いわゆる神道者や神道説という類のもので、神代巻そのものであるとか、神代巻の正しい理解といったものまでを批判したものではない。原文を持ち出すのは邪魔だろうが、尚斎の一般論として、次の発言を引いておきたい。

神代巻神道と云ものは、なる程、赤子の樣なもので、ひらけたまゝにしてある。聖道はその開けたものを、列聖のよくひらきなされたものなれば、赤子によく知をひらきて、大人にしたやうなもの。日本には列聖つぎ作ること無ければ、やうやうその赤子なりを、もちつめる樣なものなり。されども今では、下に道が行はるゝはかりで、ひらけぬからして、上は一向道がないなり。〔雑23〕


この一文は二様に解釈可能で、まず神道を純粋無垢の赤子とみなした尚斎の立場を好意的に見るもの、つぎに神道は聖人の知を加えられぬ赤子であるから、日本の神道は、少なくとも尚斎の時代の神道は、明らかに未熟な存在であると、否定的に見るもの、これである。以下に見るとおり、恐らく尚斎としては、神道そのものは天人合一のありがたい教えではあるが、そのままに止まっているので、聖人の知を加える必要があると、このように考えていたであろう。

尚斎は神代巻に価値を認めつつ、不必要な部分の存在することを遠慮無く指摘する。そして孔子が五典を刪去して経書を作った故知に倣い、神代巻も不要の部分を削除するよう要求する〔雑02〕。言うまでもなく、この事業に手を染めたのは、山崎闇斎だった。遺憾ながら未完のまま世をさった闇斎ではあったが、儒学で培った力を用いて、摩訶不思議な神典を有用の書物に仕立てようとしたその試みは正しく、闇斎によって神道ははじめて価値ある存在になったと云う〔雑02〕〔雑03〕。

闇斎の『風水草』『風葉集』などは、後に国学的立場から、儒者のまがい物として指弾されたが、尚斎とすれば、まさにその指弾される所以こそ、闇斎の神典理解が正しい明証となる。尚斎は神代巻を評して「ありがたき天人一致」を記したものと評価する。ではその天人一致とは何を指すかと言えば、鬼神の造化や五行の相生などを念頭に置いていた〔雑08〕。つまり儒学(闇斎の朱子学)的な見地から判断して、天地開闢、天人一致、鬼神、造化等々の概念と相即する部分を神代巻に見出だし、その部分を残し、それ以外を除去しようとしたのである。

このように尚斎は神道や神代巻に対して全面的な否定は避けている。しかしそれは当時の神道家あるいは神道説に対する批判と表裏一体の関係にある。

尚斎の神道家/神道説批判は、雑然としてたものだが、大きく三つに分けられる。第一は学問的な見地からの批判、第二は神儒兼学の徒に対する批判、第三に自身の祭祀来格説との関係からくる批判である。

まず学問的な見地からする神道批判。これは実に尚斎らしい批判でも、その論説も最も説得力がある。例えば、彼は皇統綿々を根拠に日本の天下に冠たることを力説する神道家に対し、「現在の皇統はあるかなきかの状態であり、今後についても怪しい話しだ。そんなものをありがたがっても無意味だ」と発言し〔雑03〕、さらには「皇統連綿と誇ってみても、姓を易えなかっただけで、革命は行われているのだ」と公言し〔黙04〕、その具体例――平城上皇と嵯峨天皇が兄弟で皇位をめぐって争ったこと等――を列挙している〔黙05〕。

またこのような道義的な問題のみならず、当時の神道家の諸説にありがちな秘伝についても至極常識的な批判を加えている。尚斎からすれば、神代巻は遠きむかしのことを記したものだから、不明なところや現在(江戸時代)既に測りがたい心情がある。だから分からぬところを無理に解釈する必要はないと考えていた〔黙06〕。ところが神道家は、「なんでもかんでも牽強付会な説を立てて知ったかぶりをしている。そんなものでよければ、昔話でも道理を説ける」といって、舌切り雀の説話で陰陽を説明してみせ、神道家を嘲笑する〔雑08〕。

たしかに山崎闇斎の神道研究には、五文字の守や神器の伝について好ましからぬ所説がある。しかしそれらは日本に少しでも残っている道を明らかにしたいという、日本に生まれた人間の心情からであり、それ自体は否定すべきものではない。したがって五文字の守や神器の伝は方便法として理解しなければならない〔雑03〕〔雑04〕。逆に言えば、だからこそ神道を理解するには、よくよく物事の道理を弁えてからでなければ、誤った道に足を踏み入れることになる。尚斎が若かりしころ、闇斎に神道を尋ねると、まず儒学の明白なことを学び、それらに熟練してから神道を学べと教えられたという。これこそ神道のあるべき学び方だというのだ〔雑13〕。

ところが当時の神道家ときては、そろいもそろって馬鹿ばかり。垂加神道の正統後継者を自任する正親町公道にして既に化けの皮がはがれ、神道に飽きている。闇斎の佞臣と侮蔑された植田玄節も金で養子をとった笑止千万の愚か者。このような神道家を相手にするなどとてもできないというのだ〔雑05〕〔雑15〕。

この種の批判の背後には、尚斎の「變易して止まざる者は天地の常」〔黙02〕という信念があったようで、皇統連綿の問題にしても、「中和を失う者、反て一路に明らかにして、偏長なる者有り」〔黙02〕といって、そのおめでたき君位一系そのものが「中和を失った」ものであることの証拠とする。しかしこのような学理的な問題はともかく、尚斎の神道説/神道家批判は、極めて常識的な見地に立つもので、後に神道家の秘伝が徐々に影響力を失うことを考えれば、それなりに時代の先端を走った考えであったと言える。

尚斎とすれば、これほど明白な誤謬を含む神道家/神道説に、人並み以上に儒学を学んだ人々が陥るとはとても考えられなかった。ところが、現実はそうならなかった。正親町公道や植田玄節、出雲路信直、桑名松雲、あるいは土佐の谷秦山ら、闇斎の直弟子もさることながら、なぜか絅斎の弟子が神道の研究を始めたのである。もはや人生の最後にいた尚斎は、これに強い危機感を募らせたと考えられ、ついには闇斎の学恩に刃向かってでも、神道批判を刊行せねばならぬと考えるに至る〔雑30〕。

しかし尚斎は、神道を奉ずる同門に対して、学理的な方面からその確信に迫ろうとせず、あくまでも師弟の関係という外形的なものにこだわった。絅斎の門人らが神道を研究するのは、絅斎が晩年に若者は神道を学ぶよう言ったことが原因であり、そのような紛らわしい発言をしたから大きな害になったと結論づけた。だから尚斎自身も神道について思うところはあるが、余計なことは言わぬでおこうと誓うのである〔雑16〕〔雑25〕〔雑27〕。この種の批評は、師弟の関係に厳しく、また師の人間的魅力に感化されて学業に励む弟子等を間近で見てきた尚斎のものだけに、皮相なものとは言えないだろう。しかし絅斎の門人がなぜ神道にこだわるのか、その心の奥深くにまで足を踏み入れたものとは言えないだろう。

神道に足を向ける人々に対し、尚斎は決して好意的ではなかったが、必ずしも自身の思想と全く無関係ではなかったようである。これは単なる日本人として弁護したいという類のものではなく、何か知らん、自身の思想と一脈通じかねない危険性を察知していたらしいことが、断片的ながら窺える。

尚斎は忍藩に幽閉されたとき、祭祀来格の奥義を悟り、後に修正を施して『祭祀来格説』を著した。それは理気の両面から祖考と自家の精神の同一なることを論じたもので、尚斎の特異な思想とされている。尚斎によると、祖考と同一気を持つ己が祈念するならば、何代前の祖考でも木主に再生する。なぜなら、理は消滅せず、しかも必ず気を拠り所とする、ならば理と気は必ず何百年の後も存在するというのだ。

このような所説は、当時としては仏教の輪廻説や気一元論的な思想との違いが問題になったとみえ、尚斎もそれとの違いを強調している(祭祀来格説講義に見える)。尚斎としては理の重要性を強調し、理から判断して気を制御しようとしたようであるが、現象面から言えば、一気の貫通が重視される。したがってここに皇統連綿の思想を持つ神道との類似が問題となったようである〔雑26〕〔雑32〕。

祭祀来格は尚斎の思想の根幹であり、それだけに宗教的でもある。そのため説を立てれば立てるほど複雑になり、また収拾が付かなくなる。『雑談録』『黙識録』ともに、神道との関係は明言は避けている。

尚斎の神道批判は、概ね以上の三点に収まると思われる。尚斎の意見は、変易説や祭祀来格説という彼の特殊な思想を除いても、比較的常識人の立場が保持されており、それなりに人を納得させるものがある。むろん尚斎じしんの所説にはかなり非科学的な側面があり、例えば人が死ねばウジ虫が湧くが、そこには死んだ人間の精神が宿っている等と主張している。また神道家の牽強付会を説きつつも、自分は日常生活から理気の妙用を引き出そうとすることもある。そういう意味でどっちもどっちといった側面もあるのだが、正統朱子学を奉ずる尚斎としては、怪しげな説を振り回す神道家を黙って見ておれなかったのだろう。

とはいえ、後から見ると、尚斎の神道批判には、二つの弱点があった言える。第一に、神道家/神道説が、前江戸時代的な秘伝の効能を無効化し、その上に新たな神道説を組み立てるならば、もはや尚斎の批判には意味がなくなるだろう。尚斎は牽強付会ゆえに神道説を批判したのであるから、牽強付会がなくなり、「合理的に」神代巻を説明できるなら、尚斎の批判は批判ではなくなるのである。宣長のごとく神典を神典のまま読むとまで言わずとも、一種の歴史書として神典を読み出すとき、もはや秘伝的解釈など全く不要になる。と同時に、尚斎の批判も不要になる。

第二に、尚斎は儒学(朱子学)を前提としている。そのため相手が儒学から完全に/半ば足をのけただけで、もう批判の有効性がなくなってしまう。谷秦山は尚斎と論争したが、そのときまだ秦山は朱子学を奉じていた。ところが谷家の学問は秦山から子の垣守に継承されるに従い、徐々に儒学に対する興味を失い、孫の真潮に至っては、神道を中心にすればよく、儒学は盛んだから用いればよいという程度の、一種の和魂漢才を主張し出す。かつて尚斎は神儒兼学の徒が、口で神道を奉じながら、実質は儒学を行うことを批判したが、真潮のように口でも実質にも神道を奉ずる相手に対しては、尚斎の批判は全く意味を持ち得ない。

そういう意味で尚斎の神道批判は、果たしてその晩年においてすら意義があったか否か、疑問とせざるを得ない。絅斎の門人たる若林強斎は神儒を兼学したが、それは尚斎の思うような神道であったかどうか。尚斎の神道批判は、あるていど有意義なものだが、それは彼が壮年ころに見た儒学界での話しである。あるいはだからこそ神儒兼学の人々の心情を理解できず、「余計な一言が禍を招く」という程度の、後学を馬鹿にしたような嘆きに止まらざるを得なかったのではないかとも思われる。まぁ、嫌な相手だからといって正面から戦わなかった人だから、その学識から期待されるほどの成果が得られないのも、当然といえば当然ではあるのだが。

以上、素人の感想でした。

以下、引用文。文字などは上に書いた通り。底本は前の記事と同じ。

番号は、私が『黙識録』『雑談録』から抄出した神道関係条文のそれを指す。全部は引用していないので、順番は飛び飛びになっている。

○黙識録

〔02〕我邦君臣之義、其明過於萬國。蝦夷夫婦之別、其正亦非他國所及。此皆偏國之所致。狐能使己神。螢能自照。人反不可及。蓋失中和者、反一路明、有偏長者。(巻二。道體二)

〔04〕變易不止者、天地之常。一陰一陽、一晝一夜、一闔一闢、節拍將去、不得不變革矣。人事亦然。如堯舜禪讓、湯武放伐、是其大者也。但其間有變革得、而善與不善之別耳。我邦神神者曰:「皇統綿綿、萬萬歳不變、以坐堯舜湯武之上。」殊不知其百代間正統既絶焉。以一姓革命了。斯知變革、天地之常、自不得不變革矣。若我國、若秦漢以後、則變得而不善者也。(戊午歳)(巻四。問諸生)

〔05〕堯舜湯武、是善通變者也。秦漢以後、變革之不善者也。善變者天也。四時之變遷、寒暑之往來、天地常久之道、而天地位焉、萬物育焉。堯舜湯武善通變、而人道立矣、萬物安矣。或曰:「堯舜、父子之衰。湯武、君臣之欠。如此而謂之人道立者、何也。」曰:堯舜不禪讓、則任變於天。人不通之、則民苦物殄、其終也天變之、而其命新。於是乎豪傑興、始受命。斯君臣正、尊卑明、而人道復立、萬物育。湯武是也。桀紂不知天人變革之理、而自取敗亡。天與之湯武、人歸之。當此時、豈可得已哉。如泰伯・伯夷、則天未興、人未歸、其所居變未至。故得守常而已。今也皇統雖未絶、天命雖未變、其間或有與先帝戰、如出公輙者(嵯峨天皇聞先帝平城天皇有重祚之志、催官軍而軍之類)。或有為大臣所要、敬受命、如漢帝於王莽者。上下亂三□湮、正統既絶。所不絶者、為同氣而已。如此而欲夸於湯武之聖、其亦可驚之甚矣。如日本魂所言、合孔孟程朱為大凡夫之見者、則我却不問其是非。信孔孟程朱之徒、而為可怪之談、我恐其未登泰山矣。(巻四。問諸生)

〔06〕余讀神代卷、因考諸家説、皆信不可信者、而妄立牽強説、動曰傳授。癸卯歳四月、路歴信濃國、往于江戸、鹽尻洗馬(皆驛名)之間。有歸經原、有牛伏寺。土俗傳言、唐玄宗時、二頭牛負般若經求、一頭死于此。故謂牛伏寺。一頭自此地負經而歸。故曰歸經原。一説此林嚴冬雪不蓋、黒色似牛之伏。故曰牛伏。余謂此原桔梗多生、故名桔梗原。亦未可知。自古傳言者、往往如是。神代事固當不分明。然神學之徒、爭立牽強臆説。可哀哉。(巻四。經解)


○雑談録

〔02〕山崎先生、儒道に功あること、舉て不可言。今日程朱の正道を知るは、皆山崎先生のかげなり。遺恨なるは、神道には未だ削りのこしあるぞ。然し先生より前は、やくたいもないことにてありつるを、先生如此なされてより、始て明になり〔たり〕。先生のも故あることにてあるそ。然し畢竟遺恨あるぞ。神代巻をよめば、二三策まことにありがたき天人一致の神聖ありたると思はるゝ処あるぞ。孔子も五典三墳を削り正さるれば、神代〔巻〕とて皆可信に非ず。よくよく心得よ。室新助がしかるやうなことではないぞ(室新助、山崎先生の神道をしかるぞ)。かへすかへすも先生は儒道の開基也。(享保七年二月十日)

〔03〕それ神道神代巻、各文字にうつしてあれば、あの文字にてすましてよきことなり。山崎先生のあれほどに神道を開基なされたも、偏へに儒學の力より也。恐らくは何程神道者が口きゝても、文字のとりまはしは、(つかわれほと)〔我程〕にはなるべからず。扨、瓊矛なとゝ云にも、さまさま傳どもありて、色々と云まはせども、畢竟つまる処、伊勢の神主の弟の僧になりたる者の作りたる旧事玄義と云書に、此瓊矛のことありて、それてよくすむと也。その書の跋にも、これなくては神道の秘が埒があかずと書てある。扨々あさましきことにあらずや。(へぬか。○)やうやう法師の作りたるものにて、すむこととなりてある也。然にこれもとほうもなきことなり。書經詩經などに、たまもてつくれる弓の、あかくゑれる弓のと云ことあれば、此瓊矛も何のことない、たまもてつくれるほこと云ことですむことなり。さて(此傳授)〔極傳受〕と云ものは、神籬磐境の傳、さては三種の神器の傳也。然ともこれもほゞ知〔し〕たことなり。神器の傳は、〔專ら〕方便法也。理にて推つめれば、なんぼ皇統が如此目出度つゞきても、今にてはあるかなきかの体也。このごろも禁門を通りて見れば、鳩の糞がかゝりてあるなり。扨々あさましや。諸司代も大はなげをのばしておることかな。是程のことが眼にかゝらぬか。町奉行や(附)〔つき〕の武家か、何の役でおることぞ。これほどのこと一つ云付ぬか。関東などで此やうなことは、御城の近辺にさへなきことなり。かう五六〔百〕年の間に衰へたれば、このあとは又いかゞならんも知れぬ也。かういへば御為めにならぬことなれば、あの神器の傳で御為になることならば、これは儒者たるものが、まけておつたがよきことなり。然しながらおしつめていへば、方便法にて、いやなることなり。(享保七年二月二十七日)

〔05〕神代巻をあの文字に写してあるなりで、吟味しつめると、尤面白。何の六けしきことなしに、天人一体の神霊の仰せられた言と思はるゝ。面白ことある。太極などゝはちがひ、專ら一元気より語て、理気分れずにおる。然し理以可先(ことはりもつてさきなるへし)と理の字も書てあり。扨、あの処に形而上下の分も見ゆることにて、甚深切なることある也。扨、土金の傳の出る処はといへば、色々いへども、証迹がない。畢竟面足尊の処で云こと也。それより(して)鎌と云一字有ても、土金と云様に、めつたに土金を云。あさましきこと也。中々此土金の分にて、人の心術の収ることでなし。土金のつゝまる処は、ちつと土の如くして、其中に金のやうな、きつとしたものを持ておること。これでなんとして心術が収るへけんや。扨、傳授と云〔は〕、儒學(を)〔で〕は曾子の一唯、佛者抷ては悟道して拂子とつたる様のことなるべし。それに正親町一位殿などか、殘らず神道傳授なされたげなが、頃日もきけば、もはや神道ざたはすきとやみ、甚しきなりのよし。さて安藝の植田玄節なども神道傳授の者なるが、金を取て養子したときく。尤笑止千萬なること。其外出雲路民部、桑名松雲なとがなり、皆々心身の治りたるなりでなければ、こればかりでならぬこと知べし。(享保七年二月二十七日)

〔08〕惣体神書には、甚だ鬼神の造化をよく云とり、天人の妙の見ゑることある也。凡て国を(開)〔発〕くことを、生む生むと云てあるも、今迄荒れてありた国を発し立つるも、長度造化の物を生するに等しければ、かう云ことはり也。然るにもうそれに引つゞいて、人を生むと云て、理一の筋は有て、分殊か無なり。然しこれは上古のことなれば、かうあるべし。扨、神道者が、なにもかも、無理に附會して、知れぬことも理屈をつけるひがこと也。よく知れた神道の神道たる妙処さへあらはせば、知れぬことは知れぬにしておいたがよい也。そうたいむりに附會すると、何にても云はるゝ。古物語のやうなものでも、理屈が云るゝ。むかしむかしぢいとばゞとが有て。これ則ばゞぢいとも云ず、ぢいばゞと云は、陽先陰の道理。ぢい〔は〕山へ柴かりに、ばゞ〔は〕内にせんたく。是〔れ〕男は外を治めて、女は内を治るなり。さうしたれば、雀がのりを食た。それをばゞが腹立〔て〕て、舌を切てすてた。是陰の義が裁断したる処。さうしたれば、ぢいがはつと、をとろいた。これ陽仁の物をあはれむ処と。この樣に云へば、むせうになることなり。よくよく考て知るべし。(享保八年二月)

〔13〕往年山崎先生に、我等も神書をきくべきかとありたれば、坦然明白の道理を吟味するうちはいらぬこと、それを吟味しをゝせて、年熟して後きくべしとあり。又此間もいねてゐて、(風)〔ふ〕と思ひ出したり。これ(ら)〔を〕もよくきゝ覚へゐるべきこと也。神書はどうでも、たんぜん明白なることではないぞ。(享保十年九月十五日。道学資講、十一月二十一日に繋く)

〔15〕神道、実にをかしきもの也。それゆゑそのかみ、山崎先生へ、神書が聞たきと云たれば、義理の吟味をてきはきする内は、無用と云れて、(武村)〔竹村〕勘兵衞や出雲路民部の樣なる、愚かしき者に談せられた也。(享保十四年十月十九日)

〔16〕惣体吾道にして、何も不足無ければ、餘のことまぜることは、後世大なる害できることなれば、せぬこと也。山崎先生の神道も、後世の論八け間敷のこと也。(正福謂:神道、吾道の餘に非ず。我邦に傳る所の我道也。然れば孔孟程朱、若し我邦に生れられば、必学はるゝ筈なり。前九月十五日の条看合すべし。△但四書六經の明白なる如きに非、猶易之卦昼也。)(享保十五年五月二十八日。*道学資講、四月二十五日)

〔23〕頃日云こす通り、神代巻神道と云ものは、なる程赤子の樣なもので、ひらけたまゝにしてある。聖道はその開けたものを、列聖のよくひらきなされたものなれば、赤子によく知をひらきて、大人にしたやうなもの。日本には列聖つぎ作ること無ければ、やうやうその赤子なりを、もちつめる樣なものなり。されども今では、下に道が行はるゝはかりで、ひらけぬからして、上(は)〔に〕一向道がないなり。(頭注。正福謂:論神道、通篇莫如此説。餘條當以此準也。)(享保十六年□月十五日)

〔25〕あまり絅斎先生の門人、神道を吟味せねばならぬ樣に云ゆゑ、静斎に問たれば、絅斎の死るゝ時、若きものは、神道をも吟味せよと云れたと。此一言より、あの如く誤り来れり。只此方にも、天地自然の道あるをと云からしてのこと。その道は我得て私するものでなし、日本〔の〕じや、漢のしやと云ことはなきこと。扨、聖賢の書に、事足ぬことあればなれども、何から何まで全具せり。その日本書を吟味するもの、聖賢の書に精〔しき〕や否をしらず。さて絅斎死の前年にあふたれば、考る書が不自由ゆゑ、神道には手を付ぬとありたり。(享保十七年三月二十五日)

〔27〕神道のこと、少々存寄あれども、一向になにとも云ぬ也。直方の樣に、異端のやうに云ても、誤りない。されどもこのこと、どうで二つになる気味あるから、其ついへ多し。絅斎などの、ちよつとしたことを云れたるより、大きに後来害をなしたるゆゑ、若きものに學べとも云ぬ。推して云と、朱子〔の〕参同契・陰符経に注なされたも、あれから異學者がとやかく云也。然れば學者甚大切なることで、(聊示)〔りやうじ〕にひらきては出されぬこと也。(享保十七年五月十九日)

〔30〕いかなれば、少々の學問もあるものが、神道に迷ふことなるぞや。扨々いぶかし。これ迄は、山崎先生をかばひたれども、道に害あるから〔は〕、一と思案して、かばふまいとも思はるゝ。(享保十八年七月二十九日。道学資講、十九日)

〔32〕一陰一陽之謂道。これ程端的に道体をかたりたるは無れども、朱註には、理気上下を判然とわけてあるも、なる程云通り、迷ひが出来るゆゑぞ。鬼神も端的にいへば、神道者に近くなる。こゝを合点の上て、端的に云へばよし。(享保二十一年二月十一日。道学資講、正月二十一日。また道学資講、下文に繋ぐ)

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