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留守希斎の出奔

『木斎紀年録』を調べたので、ついでに留守希斎の出奔記事を載せておこう。

儒学は中国のものだから、他姓の養子を拒否する。しかし日本は他姓の養子に寛容......というか、ふつうに他姓の養子をとる国柄なので、江戸時代の儒学者も、理論上は非難しつつ、現実的には容認していた。ところが崎門派だけは、有言実行を貴び、自他共に養子を禁止した。

享保十七年、木斎七十五歳のときのこと。芳しい跡継ぎに恵まれない木斎は、弟子の中から将来有望なものを養子にとり、後継者(藩の公職に就けるという意味)にしようと考えた。木斎は闇斎の弟子であり、養子否定の側にいても良さそうなのだが、彼は神道を兼ね学んだため、そのあたりは克服できたらしい。

一方、木斎に見込まれた留守希斎は、養子に疑問はあったものの、父親がどうしてもというので、やむを得ず木斎の養子となった。しかし一年の京都留学が決まり、崎門の学を修めると、疑念はますます深まった。そうこうするうちに事態は刻々と変化し、留学から帰国するや、養子・後継者への道が決まってしまう。

進退きわまった希斎は、京都の三宅尚斎に意見を質した。尚斎は事の重大性を鑑みて慎重だったが、結局は、「これから人師となるものが、心に欺瞞をもっていてよいはずはない。ましてや君主に道徳を説く者が、自身に不道徳を抱えてはならない」と判断。希斎に養子の拒否を勧めた。ただし現実的には養子を回避する手段はなく、希斎は出奔を余儀なくされた。

とはいえ、出奔して済むのは希斎だけのことで、出奔された木斎はたまったものではない。しかも自身が老齢であり、余命を悟っての養子縁組だけに、その衝撃は大きかったとされる。それは希斎とて充分認識したところで、したがって木斎にあてた書き置きには、その点が縷縷つづられている。まぁ、細かいことは平重道さんの論文でも読んでください。


*以下、『木斎紀年録』の該当条。文中、好生は木斎、武内は留守希斎を指す。丸括弧は割注。

六月十八日:
好生以自隱居、武内家督、申請之。上書捧大番頭柴田朝隆(中務)。親類(村岡長太夫廣賢)持參、附之帳役。

十九日:
早朝、僕夫曰:「武内夜中有用云之於近所而未歸云々。」尋可行之處、皆不知。南至越河、北至一關、遣人尋問之、不知其行方。其中見書置文。其旨趣謂:為師父教養之恩、山高海深。況至極老病體、奈無可報之日。然棄本氏冒他姓者、聖人之深戒、賢者之明訓、皆明白也。自為養子之日、未決知此理。雖且辭、父臨終呵嘖命之。其後學問、自覺長進、此理決不可易也。違聖賢之教者、背天道也。背天道、則本不立也。本不立背天道、則何以事君父耶、何以交人乎。如此而説經書者、猶己罪人而制盗也。雖無蓄積之金錢、斃於路頭者、有謝罪於天乎。雖小事曲折未盡、守此一大節之志也。因今日出奔、二十四日副此置文申達之。


留守希斎には『学余雑録』なる学問談義らしきものと、『自筆年譜』が遺っている。しかしそれらは無窮会の平沼文庫にあるので、私が見ることはないだろう。平さんの論文にも原本からの引用はなかった。ちなみに秦山は独学のせいか、他姓の養子を完全否定している。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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