スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

補足?

きのうの補足、というほどでもないが。

昨日のは学者が変な優越感を持つのは笑止千万だというはなしで、研究者的な正しさが真理ではないということを言いたかったにすぎない。だから自分の説が一般人に認められないからといって、「世間は分かっていない」という学者は困る、という程度のことになる。

それはともかく、たしかに最近は古い時代も考古学的な資料が出てきて、ここ数十年前までの歴史とはまた違った研究が可能になってきている。私はこれを何とも言えない気持ちで見ているのだが、その理由を書いてみよう。ただし整理できていないので、単なる列挙にとどまる。

第1、学者は信頼できない。神の手を持つやつが他にいないとは限らない。それは昨今の中国古代の発見にも言える。
第2、炭素測定法にしてもなんでも、学説によって年代測定がずれてくる。というか、炭素測定法に他の埋蔵物をあわせて時代を確定する場合がある以上、炭素測定法だけで断定するのは危険と言うことだろう。ということは、単独の考古学的資料に対するものとしては、いまひとつ信頼できない。
第3、考古学的資料はそれ自体として意味をもつか?
第4、考古学的資料そのものが嘘をつく可能性がある。
第5、まあ要するに、歴史って何なの、なぜ必要なの?というところ。

ほかにもあったが、すぐ頭に出てこないので、とりあえずこんなもんで。

1と2は言わずもがな。炭素測定法は主観によらないだけ心強いが、断定できないのでは価値も減る。それに100年単位で分かってもらっても............というのもある。

第3は、明清の「とう案」じゃないが、策書ばかりが出てきても、その意味するところを理解するのは難しい。人間は知らず知らずのうちに先行する思考体系を補正するかたちで新出史料を用いる。だから新出史料がそれじたい主張をもった歴史書なら別だが、たんなる辞令書や記念碑ばかりがでてきても、それだけでは意味をなさない。前の歴史学体系に照らした瞬間、その考古学的発見は学説体系の一部に組み込まれる。もとからある体系がいびつである以上、それに照らして生み出された新しい体系もまた、いびつだ。嘘に嘘を塗り固めても、出てくるのは最後まで嘘でしかない。

もちろんそういう文字資料以外の発見もあるし、それをつなぎ合わせる必要もあるのだが、ならそれで作られる歴史というのは何だろうか。それは我々にとっての歴史か?古代人が貝塚を巨人のなんとかと思ったのと同じように、我々がその考古学的発見を見て憶測逞しくしたところの妄想が歴史なのだろうか。

それが歴史と言えないではない。そうやって昔から王権は己の正統性を保持してきたのだから、民主主義政権だって、そうやって保持するのだろう。それでいいというならそれまでで、私も文句はない。その場合は、私の信ずるところが大多数と違うので、大多数の信ずる歴史は間違いだという、単純なことになる。しかしそれを越えて通有の「事実」でも見つけるつもりなら、まあ本当にそんなことが可能なのだろうか?ということになる。

第4は、まああれだ、発掘資料だからといって、あるいはその埋められた時代が分かったからといって、でてきた物がその時代の物とは限らない。古いものと新しいものが混ざるのはよくあることだ。そういう微細な点まではっきり分かるようになるには、まだ時間がかかりそうに思う。しかし物は語らないから害が少ない。文字資料はもっと厄介だ。たまに歴史書に書いてあるのは嘘だが、発掘資料に書かれてある文字は正しい、なんぞということを、真顔で力説する学者がいるが、そういう人間の神経が理解できない。歴史書が嘘なら、その本になった発掘資料の文字だって、とうぜん嘘だろう。正確に言うと、真偽を見分けるだけの「史料的判断」は常に不在なのだ(個々の事柄の起源を調べる等のことはある程度可能だが、その場合は意味をめぐって第3の問題に抵触する)。

さて、整理できていないことを書いてしまった。

おそらく私は頭で歴史の普遍性、あるいは普遍的なものに対する価値を否定しながら、現実にはその前提を抜けきれないでいるのだと思う。だから目にうつる多くのものを、普遍的なものに対する追求と捉えてしまうのだろう。なんぎなことだと思いつつも、それを切り離せないところが、私の限界なのだろう。

私はかつて、歴史が己の主観と切り離された存在だと思ったから、価値を感じていた。もっと端的に言えば、そうとう若い頃の話しだが、歴史を研究すれば民主主義は間違いだとう結論が、とうぜん出てきてもおかしくないと思っていた。しかし歴史というのはそういうものではない。我々が作り上げるものだから、民主主義を肯定する人間が、それを否定する論理を歴史から導くことはありえない。

しかしそういうところから一歩進んで、歴史は我々の理想だというような立場に立つのなら、いわゆる歴史的根拠は、私から見るところの、都合のよい資料収集に見える作業に変貌する。ここでも、いままでもそうだったし、これからもそうだと言われれば、そうなのだろう。ただ私は自分の観念に囚われてしまっているので、なかなかそうしたものを認められないでいる。

私はせこい正直者だから、口では「目的と結論は決まっているから、さあ、「東アジア」の連携に向けた歴史を作ろう。え?政権変わったの?じゃあ「日本の崇高性」の歴史を作ろうか」と言えても、本気で作業する気になれない。あるいは、「歴史の目的なんてどうでもいい。俺が楽しいからいいのだ。グダグダぬかすな!」とも言えず、さりとて「事柄が分かればいいじゃないか、価値?知らん」とも言い切れない。では私の信ずる妄想を軸に歴史を構築すればいいということになるが、それだと「あらゆるものに価値はない」という有害な思想になってしまう。目的がこうである以上、論証の過程でひっくり返るはずはなく、「価値がなかった」という結論になるのは自明の理だ。


以上。意味不明の文章だと思うが、私も分かっていない。分からなくても文字になるんだな。無意味な文字の列挙というのも、一見すると文章に見えるから、それと似たようなものか。


そうそう、もう一つ忘れていた。考古学的資料というのは思ったより少ない。最近の中国の考古学的発見(戦国時代のね)をもとに作られた研究成果を見て、「なんて堅固な研究成果だ!これでようやく戦国時代が分かるようになる!」と感嘆できる人は、もともと私の意見に賛同できないだろう。偏った見方によるかぎり、私は「あの程度の資料でなんでそんなことが言えるんだ。解釈の大半を既存の資料に依存し、しかも解釈は都合が良く、ましてやもとになった文字の判読は疑問もあり、さらには時代も怪しく............これなら昔の間違った歴史書的歴史を、間違った考古学的歴史に置き換えただけではないか」としか思えなかったのだから。要するに、本当に資料を解析している人の作業や経過を見ていると、とてもその正当性を是認できないということだったりする。

スポンサーサイト

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

コメントの投稿

非公開コメント

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
プロフィール

awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

自営サイト
最近の記事
カテゴリー
リンク集
全記事表示

全ての記事を表示する

FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。