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雑記

1.~と思う

高校の小論文はともかく、基本的に評論や判断の部分は「私は~と思う」か、古風に「蓋し」で締めくくらねばならない。どれほど一般法則から導いたように見せても、数学でもあるまいに、社会や思想に関係することは、個人の判断に過ぎないからだ。人様の議論でも、この「私は~と思う」がないばかりに、一般的定理として断定しているように聞こえ、無意味な反論を呼び込ぶものが見受けられる。ひとこと、「だから私は~と思うんです」と言えば、「私はそう思わない」で普通の反論になるのに、「~だ」と言うものだから、「それは違う!」という、少し次元の異なる反論をいただくことになる。

しかし日本語で文を綴るとき、「~と思う」を連発するのは、ちょうど小学生が「そして」で文章を繋ぎまくるのと同じく、見苦しいし聞き苦しい。同じ言葉を連発すると読みにくいという修辞上の問題のほか、「思う」には「根拠のない推測」といった意味が入るので、曖昧でいい加減な発言と捉えられるからだと思われる。個人の判断だということを明示し得て、見苦しくも聞き苦しくもない表現はないものか。


2.龍馬さん

たしかに政治家が龍馬龍馬というのは意味不明だ。まあ言わないより言った方がサマになるといったところだろうか。それとも暗殺願望でもあるのかね?政治家として暗殺されるのは1つのステータスではあるわな。無名の小物は暗殺されても殺人事件で処理されるし、そもそも暗殺されないから。


3.コンテンツ閲覧率

翻訳などのコンテンツは、どれほどの力作でも、全篇通して閲覧する人は多くない。むろんそこから情報を絶対に得たいと思う、極めて少数の人は別だろうが、普通の人はそういう異常な努力をしない。

まず全く無関係の鍵概念で訪れる人は、力作と否とを問わず、そもそも興味を示さない(検索の表示と実際はズレる場合が多い)。フィン語の語形変化を調べるのに忙しい人が、枢密院だの中書省だののページを読んではくれないだろう。たまたま検索に引っかかっても、「なんで関係あるんだ?」と思って数ページ捲くるに止まるのが関の山ではないか。

次にレイアウト(読みやすさ)の問題。岩波の文庫が発刊された当時(戦前)、いろいろ凝って作ったことは有名だが、そういう労力がないと、中味だけでは人は寄ってくれない。「字が小さすぎて目が痛い」というのは論外だが、字間行間の取り方、余白の使い方、配置の問題等々、それらが良好であってはじめて読む気になる。

最近のネット書籍も、そういうところに目を配ってくれないと、pdfの劣化版とかそういうレベルでは、そもそも読む気が失せる。ネット書籍は、ネット書籍という新しさに溺れて、読む行為を軽視している風があるのは残念だ。もっとも最近は素人の手製かと思わせるレイアウトで販売している新書もあるから、仕方ないのかも知れないけど。

閑話休題。次に思いつくのは、文体の入りやすさ。手練れによる書き物でも(あるいはそれ故に)、その人の書き癖に馴れるためには数頁を要する。その数頁の間に読者を引きつけなければならないのだが、これは素人には難しい。え?だから素人だって?違う。そういう意味ではない。

素人は金をとらない。日本の場合、どれほど価値ある記事を書いても、「いい記事ですね」と言われるくらいで、なんのメリットもない。むしろ利益を受ける人間は(私を含む)、利益を要求しないことが道徳的に素晴らしいことだと思いすらする。そういうところで払われるユーザビリティは、自己主張のための最低限度必要な部分に限られる。そして、他人様はそういうコンテンツを必至に読もうとしない。

もう1つ、とくにコンテンツを複数のページに区切っている場合、検索で特定箇所のみ閲覧し、要が済めばそのままおさらば、という作法をする人がいると考えられる。私などは根が曲がっているので、いいとこ取りすると誤解を生むような文章をわざと書いたりするが、人の文章をデータとしてしか扱わない人は、コンテンツ全体を通して理解するという意識に乏しい。

等々、思いついたところを列挙してみた。もちろん他にもいろいろあるだろう。とくに読者の望む結論や展開を用意してくれないコンテンツは、問題外として見向きもされない。

でも、結局、この手のものは最後に矛盾に陥る。自分のしたいことと他人の求めることが対立するからだ。しかもこの対立を解除する最も有効な手段であるところの「利益」が、個人のコンテンツにはほとんど望めない。だとすれば、はじめはともかく、結局は自己満足のコンテンツに陥るか、不平不満のはけ口に変貌してしまうのが落ちではないか。これも情報がタダであることの御利益なのかどうか、私は知らない。

(補足)
「他の欲するものを己も欲する」という態度をもってすればいい、という意見もあるだろう。しかしその手の人の議論は、往々にして中味のないご都合主義が多く、また結論が最初から決まっているために、詐欺的な調査や史料操作を行う場合すら見受けられる。ならば自己主張を持つほどのものは、結局、自分と他人との矛盾に目を向け、その解決に努力するか、あるいは自他の区別を超越した価値を探索しなければならなくなる。と、当たり前のことすぎて、いちいち書いておかなければならないものでもあるまいが。


4.秦山の蔵書

ある本の解説を見ていたら、やはり谷家の蔵書のいくつかは山内文庫に寄贈されなかったらしい。その寄贈されなかった分の一部も、敗戦後しばらくは残っていたが、その後、処分されたようだ。そしてその処分されたものの一部は某大学が古書店から購入したらしい。

祖先の顕彰に熱心な遺族ならともかく、時代も変わり、意味も薄れた敗戦後の世の中、苦しい時世に蔵書は負担だと思われる。負担でないにせよ、換金したい気にもなるだろう。

蔵書の消滅を嘆く学者や文化人は数多くいる。その気持ちは分かる。しかし批難がましい発言は許されない。もし蔵書の売却を批難するのなら、学者本人が買い取ればいいのだ。そして膨大な金をかけて維持すればいいのだ。自分でやる気もないくせに、有利な立場から他人を批難するのは、人として美しいものではあるまい。

得てしてこの種の批判は、自他の利害を無視した、反社会的なものが多い。私などは生きる人間のためなら、古物は積極的に破壊すべきだと思っている。いずれにせよ後世に残したいと思うものなら、思った人が汗をかいて残すための努力をしないと駄目だということだ。「社会全体で」などとは、恐るべき欺瞞であり、またそれ自体が反文化的な態度と言わなければならない。


以下、つづ......かない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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