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雑記

今日は頭が痛い......寒暖の差が激しいから、そのせいかな。

1.花のささやき
2.新興書局の国学基本叢書
3.胡安国の夏時説(1)
4.やはり春秋の解説は大変だな
5.訳本の説明
(※以下、本文)

1.花のささやき

と言われても知らないだろうけど、アニメ・小公女セーラのOP。音楽のことは全然分からないが、妙に大げさな曲だった。なんというかね、この物語はかわいそうというより、いじめかっこわるい的なはなしなんだよね。私はこの前作、牧場の少女カトリの方が好きだった。EDがねぇ、それが子供のもつ希望なの?という感じだった。

『牧場の少女』はフィンランド(スオミと言った方がいいのかね?)の小説で、全3部作のうち、いちおう第1部に相当することになっている。原作では少女から牧場持ちの大人になるまでを描いたもので、女性の社会的地位向上を描いた小説の一つだったとか違うとか、そういう話しを聞いた。

でもこの作品は日本語訳とアニメでかなり違うし(もうねえ、全然違うと言ってもいいくらい違う)、日本語訳も原作(フィン語)の第1部の正確な翻訳と言うより、抄訳ではないかと思うところが多く、第2部以下を先取りしたと思しきところもある。フィンランド語の原作を確かめたわけではないので明言できないけど、ええ歳になって読んだ感想では、文献的に正確な翻訳だとは思えなかった。

ちなみにアニメと原作(日本語訳)を比べた場合、多くの人がアニメに軍配をあげる。私もふつうに作品として見ればアニメの方がうまいと思うが、日本語訳の原作がどれほど正確なのかも不明だし、本作の生まれた背景も説明がないから、甲乙つけるのは難しい。

むかし原作を読もうと思ってフィン語でも学ぼうかと思ったが、「原作はもう手に入らないよ」と聞いて止めた。今考えれば、入手の方法はいろいろあるんじゃないかと思うので、やっておけばよかった。まあ、やっても一文の価値にはならないだろうけど。


2.新興書局の国学基本叢書

国学基本叢書というと、私などは商務印書館のものを思い浮かべるが、これは新興書局という台湾の本屋さんのもの。下の写真は「春秋経伝集解」(杜預の左氏伝の注のこと)の影印本で、本文にはあまり信頼できない断句が入っている。しかし1冊だし400頁くらいの小冊だし小さいし(A5くらい)だしというので、私は重宝している。同じものに公羊と穀梁もある。

それはいいのだが、本書の後には「歓迎翻印、以広流伝」とある。......これはどういう意味なのだろう?普通は「許可を取らずに勝手に印刷すんなよ」みたいな文句が書かれてあるのだが、これは勝手に印刷して広めていいということなのだろうか?それともこの8文字の時は別に意味するところがあるのだろうか?勝手に印刷されては商売あがったりだろうけど、もしかしたら勝手に印刷される恐れすらないのだろうか。いまだによく分からない。

新興書局の国学基本叢書


3.胡安国の夏時説(1)

研究も止めたので、気楽に書こう。北宋から南宋にかけて胡安國という学者がいた。日本では鳥羽上皇とか崇徳天皇とか武士とかが活躍していた時代だ。日本も内乱で大変な時代ではあったが、宋の人もそれは変わらず、尊大不適に振る舞っていたら、北方の軍事強国・女真の怒りの鉄槌をくらい、宋の皇帝一族は連行されるは、領土の北半分はなくなるはで、なかなか大変だった。

そういう時代に生きた宋の人々は、当然ながら祖国廃滅の歎きとともに、夷狄排撃の思想を生みだし、激しい攘夷論が巻き起こった。............と言うと、実に分かりやすい。が、事実は違う。たしかに攘夷論に組した人もいたが、かなりの人々はそんなことどうでもよかった。自分とその一族が助かればよいのであって、別段、宋が滅んでもよかったのである。春秋学は最も攘夷論を生み出しやすい学問であり、事実、ここで問題とする胡安國は激しい攘夷論を振りかざすが、同時に活躍し、ともに春秋学者として名高い葉夢得は、全くといっていいほど攘夷論を無視している。彼の春秋研究は古典学の鏡のようなもので、文献と博識を駆使したおとなしい学問だった。

人あるいは言うかも知れない。葉夢得は然り。しかし胡安國の春秋学こそ、南宋以後の人々に影響を与えたのではなかったか。ならば胡安國の攘夷論こそ、人々の期待するものではなかったのか、と。曰く、否。胡安國の春秋学説として激賞されたのは、その解釈の道徳的透徹さであって、攘夷論ではない。むしろ胡安國の春秋学は、その道徳的解釈の優秀性にも関わらず、攘夷論において過激にわたる点が悔やまれると、当の南宋の人から譏られたのである。世の中、理解しやすいことや都合のいいことが真実なのではない。

それはそうと攘夷論を振りかざした胡安國は、夏時説という珍奇な学説を提示した。現在では誰も嘲笑し無視する学説だが、こちらは攘夷論と異なり、南宋中頃から明朝初期にかけて猛威を揮った。狭い春秋学界を二分する勢力をもったのである。では夏説とは何か。それを答える前に、春秋という書物の記入方法、そして春秋とよばれる書物の存在理由を説明しなければならない。

春秋は魯の編年体である。例として隱公を挙げると:

隱公
元年春王正月……
二月……
夏五月……
秋七月……
九月……
冬十有二月……
二年春……
夏五月……
秋八月庚辰……
九月……
十月……
十有二月乙卯……


とつづく。「……」には記事が入る。これだけ見ても春秋を知らない人には分かりにくかろうから、もう少し砕いて説明する。
(1)魯の君主が即位した場合、その君主の二年目を元年とする。上の隱公の場合、先代の恵公は前年に死に、隱公はその年に魯の君主になったはずであるが、正式に「隱公の元年」となるのは、位についた次の年からである。
(2)年は元年、2年、3年......とつづく。これは我々の感覚と同じ。
(3)各年を四時(春夏秋冬の四季のこと)に分ける。これも我々の感覚と同じ。ただし四時の配置は現在と異なり、春は正月~3月、夏は4月~6月、秋は7月~9月、冬は10月~12月になる。
(4)各年は正月、2月、3月......とつづく。これも我々の感覚と同じ。
(5)日付は干支で記す。現在は干支を用いないので分かり難いが、上の庚辰とか乙卯がそれにあたる。
(6)事件は起こった日、あるいは月、あるいは季節、あるいは年で記す。

なお原則として一年の中に四時は必ず記録するようにし、四時を記入する場合は、四時の首月(春は正月、夏は4月、秋は7月、冬は10月)に書くようにするが、首月に事件がない場合は季節の中の大一番目の事件の月の上(月にかけられない場合は事件の上)に記し、一つの季節に全く事件がない場合は、首月の上に季節だけを記す。

こう書くといかにもややこしいが、実際は単純なものだ。上の隠公元年を例に取ると:

元年
春王正月……
  二月……
 〔三月〕
 〔四月〕
夏 五月……
 〔六月〕
秋 七月……
 〔八月〕
  九月……
 〔十月〕
 〔十有一月〕
冬 十有二月……


隠公元年には3月、4月、6月、8月、10月、11月に記すべき事件がなかった(〔〕内の月)。だからこの6ヶ月は記されない。となると、残るは正月、2月、5月、7月、9月、12月である。そこでこの6ヶ月を我々の感覚通り、時間順に配置すると:

元年
正月
二月
五月
七月
九月
十有二月


となる。しかし春秋は四時(四季)を記入することになっている。だから上の隱公元年にも季節を書き加えないといけない。四時は季節の首月(第一月)の上に記すことになっていた。春は正月だから問題ない、秋も7月だから問題ない。ところが夏の4月と冬の10月には事件がなかったために月がない。そこで夏は4月~6月のなかで事件のあった最初の月、すなわち5月の上に書く。冬も同じく12月の上に書く。これをまとめると:

元年
春正月……
二月……
夏五月……
秋七月……
九月……
冬十有二月……


となる。あと一つ、春秋は正月の上に「王」を書くことになっているので、これを書けばはじめの隠公元年の経文と同じになる。

ここからが本題。さきほどから問題にした四時(四季)とは何だろうか。こう言われて戸惑った人は、正常な感性の持ち主と言える。我々にとって季節は余りにも当然のものだからだ。もしかすると旧暦の季節のことじゃないかと思った人もいるだろう。その人はさらに勘がいい。しかし実はこの四時は我々の思っているものでもなければ、旧暦の季節ですらない。ここに記入された季節は、周正という、特殊な季節なのだ。理由は省略するが、春秋の時代、正月は旧暦の11月だった。

11月が正月といわれても意味不明だ。しかも実際の暦を調べて、本当に11月が正月だったのかどうかも怪しい。しかし古典世界ではそういうことになっている。

かつて存在したといわれる夏王朝は年のはじめを正月に定めた。そして次の王朝の商は、夏を打ち破り、天下を統一すると(伝説では統一したことになっている)、そこから1ヶ月だけ前倒しして正月をはじめた。だから夏の12月が商の正月になった。そして商の次の周王朝は、商からさらに1ヶ月だけ前倒しして正月をはじめた。だから夏の11月が周の正月になった。そして夏の正月は、いわゆる旧暦の正月にあたる。

だから夏の正月は旧暦の正月であり、商の正月は旧暦の十二月であり、周の正月は旧暦の十一月になる。そして春秋は周王朝の暦を用いた。だから春秋も周王朝の暦で記入されている。ならば春秋の正月は、夏の十一月であり、旧暦の十一月になる。季節もそれに準ずるので、旧暦の冬が、春秋の春ということになる。

新君主は先代の後を嗣いだ後、次の月の正月に即位することは既に述べた。したがって春秋は魯の君主の即位を記して、通常は「元年春王正月公即位」と記す。公は魯の君主のこと。しかしこれをもし夏の暦で記入するならば、「元年冬王十一月公即位」となる。気持ち悪いが、そういうことになるはずなのだ。

さて周の正月は夏の十一月に当たる。したがって常に夏の月から2ヶ月だけ離れる。ところが夏正(夏の暦)は農耕に便利だった。だから農耕を行うには、夏正を用いた方がよく、周正は不都合が多かった。そのため孔子は「もし王道を行うことができるなら、暦については、夏王朝のものを用いたい」と言ったとも伝えられている。この孔子の発言が春秋学に微妙な(いや、露骨な)影響を与えた。

春秋は上にくどくどしく述べたように、編年体の歴史書である。たしかに形式はそうである。しかし春秋は経書と呼ばれる神聖な書物である。なぜ単なる歴史書が経書なのか。

......つかれた。まだ本題の胡安國の夏時説に入ってないけど、明日にする。


4.やはり春秋の解説は大変だな

春秋学のような超マイナー分野のことを説明するのは大変だな。本当は上の夏時説も、「胡安國の夏時説は2つの根拠から成り立っている。1つは○まる、もう1つは○○」で終わるところなのだが、では夏時説ってなに?となる。そして夏時説を説明するには、春秋の形式を説明する必要がある。そして春秋の形式に夏時説を適応する意味を説明するにいは、春秋という書物の性格を説明する必要がある。

どちらかというと、春秋の形式とか春秋の性格とか、そういうものを説明するのに力を費やしてしまって、本題を忘れてしまうくらいだ。いっそのこと○○読んでおいてくれ!と言いたいところだが、その○○もないんだよね。春秋学の入門書らしいものも何冊かあるが、三伝の入門書になっている場合が多く、あまり勧められない。中国語にはなかなか勉強になる入門書もあるが、日本で売ってないし、輸入しても高いし、中国語はともかく漢文が読めないと意味不明だし。


5.訳本の説明

昨日なにげなくブログの管理をしていたら、四書とか五経とかの訳本について前に書いた記事に拍手が入っていた。あれはね、(1)と(2)は気力がつづいたけど、(3)はもたなかったのよ。だから書きかけで放っていたのだけど、よりによってその(3)に拍手が入っていた。理由は大いに不明だ。それで昨日あわてて書き直そうとしたのだが、途中で目が痛くなるし、記憶が曖昧になるしで、もっといい加減になってしまった。いっそのこと消そうかと思ったが、これから頑張って補正してみる。無理なら消す。

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テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

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細かい事情は存じませんが、いろいろとお疲れ様でした。
(3)の続きはちょっと楽しみにしておりますが、ご無理をなさるには及びません(書き方えらそうで恐縮)。
ぼんやりと眺めては、「ほおお」とか「ふむ」とか「へえ」とか思ってるだけの読者でしたが、楽しませていただきました。ありがとうございました。

コメントありがとうございます。

もともと「へえ」とか言っていただける内容ではなかったので、少しでも楽しんでいただけたのなら望外の喜びです。

例の(3)は、14日の雑記にも書きましたが、書き直して公開しました。無駄に長い文章で、内容も期待できるものではありませんが、もしよろしければご覧ください。
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awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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