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雑記

1.訳本の(3)
2.検索なし
3.許桂林の穀梁釈例
(※)以下、本文。

1.訳本の(3)

懸案の四書五経の訳本(3)が終わった。ながかった。偶然にも三ヶ月前の同日に改訂していた。嬉しくもなにもないが。

記憶していたものを書いただけなので、おそらく誤謬や不適切な発言、当然書くべくして書いていないことが多々あると思う。1~2年前ならもう少し精確に書けたと思うが、今ではこれが限界か。とはいえ参考資料を使い出せばきりがないので、今回は記憶だけで済ませた。もし読まれるなら、その程度のものとして読んでいただきたい。なお文章の下手さについては文句を受け付けません。


2.検索なし

なんでもGoogleとかAmazonでサイトなり商品なりが検索できず、八分にされているとかなんとか、文句を言う人がいるらしい。まあ、普通に運営している個人のサイトなら言い分は分かる。Googleに何のメリットがなくても、個人サイトの運営者というのはそういうものだ。が、そこそこ社会的ステータスを持つ人間が言うのは理解に苦しむ。

そういう人は何かね、現実は公正なのにネットは不公正だといいたいのかね、それとも現実は不公正だがネットは公正のはずだと言いたいのかね。どうでもいいが、ネットも現実も中味は同じ人間なんだから、そんな美しいことがあるはずもなし、子供の言い分なら分かるが、ええ年こいた大人の言い訳としては見苦しい。

公正公正というのなら、例えばね、売れない学会があるとしよう。日本は学会の名前が異なっても、同じ分野の学会は構成員も同じだから、どこの学会でもいい、そういう学会にむかって、院生とか聞いたことない大学の学者とか、そういうのが「学会に猛省を促す」みたいな論文を提出して、載ると思っているのかね?逆に学会の理事みたいなのが、「学会に疑義を呈す」とか言ったとき、論集に載らないと思っているのかね。

前者なら「だからこいつは駄目なんだよ。もっと出来るようになってから文句いえ」と言われるのが関の山だし、後者なら「さすが○○先生は見識が違う」とか何とか言って褒められるんだよ。仮に前後内容が同じでも、不公正な結果になるのは明らかだ。でも世の中そんなものだろう。いいとは言わないが、人間の世の中はそういう風に出来ているのだから、いちいち文句をいっても仕方がない。だからこそ人の上に立つ人間は、普通の人間以上に道徳的高潔さや行動の責任が求められるのだ。

もっともその手の話しは、自分の気に入る主張が「自由」に発言されたり販売されるのが公正であるらしい。たしかに世の中のありかたが大きく変わるとき、均衡が崩れるから、禁忌を発言できる場合がある。「自由」であることがある。北宋のように160年ちかくそういう「自由」なときもあれば、10年そこらで終わるときだってあるだろう。でも、そういうのは均衡か崩れているから可能なのであって、古いものから新しいものに移るに従って、おのずと禁忌は発言できなくなる。ネットや電子書籍がでてきて「自由」になったからといって、それを当然と思うのも変なはなしだし、そういう「自由」のあることが公正だというわけでもなかろう。

世の中、不自由なのが当たり前で、いちいち自由の自由のと言われても困る。そのような自由は、開かれているようでいて、実は一部の人間しか自由でないことをよくよく考えておかないといけない。


3.許桂林の穀梁釈例

昨日なんとなく許桂林の『穀梁釈例』(総論のみ)を読んでみた。むかし穀梁伝について調べたとき、一通り読んで、つまんねーことやってんなと思って、それっきりになっていた。でも改めて読んでみると成る程、許桂林の言い分にも道理がないではない。

許桂林は穀梁伝がいかに素晴らしいか、他の二伝(公羊伝と左氏伝)に比べてどれほど正しいかを力説している。通常、春秋三伝は左氏伝が最もまともで、公羊伝がそれなりに由緒があり、穀梁伝は一番しょーもないとされている。理由はいろいろあるが――

左氏伝には春秋時代の出来事が細かく載っている。これは当時の資料を見ていないととても書けないものだ。もちろん左氏伝の見た資料や左氏伝の記事が全て正しいとはいえないが、しかし当時の資料を見ている以上、もっとも信頼できる。

公羊伝と穀梁伝は似ている。しかし公羊伝の解釈には首尾一貫したものが見られ、説話や比喩にしても完備している。それに対して穀梁伝には中途半端な説法が多い。公羊伝を見なければ分からないことも多々ある。穀梁伝が公羊伝と異なるのは、公羊伝と違う伝説を具えているからではなく、単純に無理矢理公羊伝の学説を自己流に改めただけだ。要するに、公羊伝が先に成立し、穀梁はそれを見て自己流に改めたのであって、穀梁は後出の文献に過ぎない。

だから左氏伝は最も信頼できるが、公羊伝にもそれなりに由緒を認められ、穀梁伝は恥知らずだ。いや、穀梁伝は「いなくていい子だ」。

これに対して許桂林は云う――

左氏伝は詳しいように見えるが、それは公羊伝と穀梁伝の議論を剽窃したものに過ぎない。左氏伝の方が詳しい記事はたしかに存在するが、それは左氏が公羊と穀梁の説を見て粉飾したからだ。だいたい公羊伝は斉の国のものだから、もっとも斉の国に詳しいはずだ。その公羊伝ですら分からないことを、左氏伝に分かるはずがない。だから左氏伝はまがい物だ。

つぎに穀梁伝と公羊伝を比べた場合、なるほど両者は相補う関係にあり、両書とも価値あるものである。しかし公羊の所説を穀梁と比べると、どうも公羊の方に曲説があることを認めねばならない。ということは、穀梁伝と公羊伝はともに孔子の正伝をうけつつも、穀梁がそのまま正しく伝えたのに、公羊は歪めて伝えたのだ。だから穀梁と公羊は両方価値があるとはいえ、穀梁を基準に是非を判断していくべきだ。

まあね、穀梁伝が正しいと思って資料を操作すれば、そうなるだろう。少し許桂林の考えを敷衍しておくとこうなる。

左氏伝は詳しい。しかし詳しければ正しいのか?違う。正しいことは詳しくなくても正しいのだ。公羊伝は穀梁伝より古いかもしれない。その意味では由緒あるものかもしれない。しかし忘れてはいないか?公羊も穀梁も春秋を解釈した「伝」なのだ。春秋を解釈するという以上、春秋には正しい解釈が想定されているはずで、その想定された正しい解釈を指摘し得たものが、正しい「伝」なのだ。古いか新しいか、由緒があるか否かは問題ではない。穀梁は公羊の所説を改めたのかもしれない。しかしそれは公羊の誤った解説を、穀梁が正したのだ。ならば正しいのは穀梁だ、と。

詳しいことと伝来あることが、正統(正当でもいい)にはならない。許桂林の発言そのものは明らかに間違っているが、物事の考え方として、それなりに得るものはある。

ただ1つ、許桂林は劉敞の穀梁批判を譏っているが、これは完全に間違っている。劉敞は云うではないか、三伝にこだわるものに私の書物は理解できない、と。穀梁の正統を争った瞬間、劉敞の穀梁批判は封じられるのだ。許桂林は全く劉敞が分かっていない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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