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雑記

今日は日曜か。どこまで新記事が書けるか。
1.学会誌
2.漢字で有名な許慎さん
3.魏晉の王肅さん
4.読書感想
5.美学
6.読書感想2
7.某氏の天下
(※)以下、本文。
1.学会誌

の金払えって送ってきたけど、どうしようかな。雑誌本体が送られてるいる場合は払うけど、これは振込用紙だけだし、どうせ退会するのに後から雑誌送ってもらってもねえ。雑誌なんてゴミだからな。売って儲かるなら買い取るけど。専門の学会誌というのは、専門家が学界で生きていくために読んでおかないといけないだけのことで、学界で生きていこうと思わなければ、そこらの同人誌といっしょだし。ただ値段が異常に高いだけで。どうせだれも読まないんだから、データで配ればいいのに。それに最近はレイアウトとか誤植とか、そういう二次的なものばかり気を遣うのが増えて困る。もう人ごとだから笑って済ませられる話しだけど。これが日本全般のことでないことを祈るだけだ。


2.漢字で有名な許愼さん

の著書に『五経異義』というのがある。許愼は古文学者で、今文学に敵愾心を抱いていたから、今文と古文とで経文の解釈がどう違うか、いちいち指摘したものだ。そしてこれをもとにして、後漢末の鄭玄が『駁五経異議』という反論を行った。どちらかの原文が残っておれば、清代の考証学者は驚喜雀躍しただろうが、残念ながら『五経正義』に引用された部分を除いて、残っていない。

でも清代の学者は涙ぐましい努力でその引用文を抜き出して輯佚書をつくった。そしてご丁寧にその意味を解釈してくれた人もいる。例えば陳左海の『五経異義疏証』はその一つで、その後、皮錫瑞(清末から民国にかけての今文学者)が『駁五経異義疏証』を著した。彼らの努力は超人的で......とまでは言わない。中国の学者というのは、このくらいのこと昔からしていたから。でもよーやるなぁという印象は拭えない。あ、でも、普通の人が読んでも全くおもしろくないよ。それに「初心者お断り」的なものだし。

彼らの研究は既に古すぎてそのままでは役に立たないけど、こういう細々した研究が好きだった私は、影印本が欲しいな~とか思っていた。でも研究分野も違うし、廖平の『今古学考』を読むとき陳壽祺の『疏証』を借りて読んだだけで、皮錫瑞のは書を開いただけで終わった。それを思い出して、昨日のデータを見てたら、1000と1500円で合計2500円なんだけど、そんなに薄いものだったっけ?皮錫瑞のは2冊くらいあったような気がするけど、いや、気のせいかな。

どうでもいいけど、日本語は本と書の区別がなくて書きにくいな。日本の話しならいいけど、外国文献を書くとき本と書は区別されるから、本を読んだとかいうと気持ち悪いことになる。なんとかならないものかな。

以下、百度から。これはwiki中文版と大差なかった。両方とも中国語ね。
陳壽祺
皮錫瑞


3.魏晉の王肅さん

に『聖証論』というのがあったらしい。一見するとキリスト教の文献かと思ってしまうが、当時の主流学説だった鄭玄の学説にいちいち反対した書物だったらしい。らしいというのは、これが現存しないからで、現在伝わるのは清代の学者が『五経正義』などの引用部分からかき集めてきたもの。その輯佚本にわざわざ注釈して難癖をつけたものに、上の皮錫瑞の『聖証論補評』がある。

これは皮錫瑞の著書をかなり集めた『師伏堂叢書』に収録されているが、これは収蔵機関が限られているので、なかなか普通の人では見られないのが欠点(いや、他の叢書にも入っているけど、もっとマイナーなもんで)。でも『師伏堂叢書』には上の『駁五経異義疏証』が入ってなかった気がする。むかしの全集は面倒なものだ。

なお『聖証論』の輯佚だけでいいなら、『玉函山房輯佚書』に収録されている。これは珍しくない書物だから、比較的閲覧しやすいと思う。書虫でも1万6千くらいで売っている。でも買うなら古書がお勧めだ。なぜなら、書虫の新版は文字が消えかかっているからだ。古い本を複製する技術が足らなかったのだろう。だから古書でむかしのものを買うといい。

王肅さんは評判わるいけど、一つには鄭玄に勝ちたいばかりに書物の偽造までした(孔子家語のことね)というご本人にまつわる不祥事があるばかりか、もう一つには清代に鄭玄の学説が大流行したので、そのために鄭玄に反対して鄭玄の学説を分からなくした王肅の評判が極端に下がったというのがある。でも前者の問題からして、王肅はあまり褒められない人というのは、宋代あたりにもあったように思うが、どうだっただろう。

さっきwiki(日本語。中国語なし)を見たら、王肅の学説は司馬氏の権力奪取のための一階梯だったと「推定」しているらしい。学説保持者の名前まであがっている(というか、この時代でいま活躍してるのこの人だけだけど)から、その人は本当にそう言ったのかも知れない。でもこの解説はいかにも歴史学者っぽいな。中国の経学者はいかにも政治家だが、日本人の思うような政治家とは違うように思うが、その辺りは分野の差だろうか。

なおwikiの王肅について2つほど補足しておくと、「礼制について後漢の鄭玄の説に反対し」とあるが、彼は五経全般にわたって鄭玄に反対し、わざわざ鄭玄と異なる注を作ったことで知られている。中央研究院の二十五史の『隋書』経藉志経部(巻32)をチェックして「王肅」で検索してみるといい(無料)。彼の夥しい注がでてくるはずだ。

もう一つ、「近年、王粛説の再評価もされつつある」とあり、「要出典」になっていることについて。近年っていつなのか知らないが、祭天説については王肅説も比較的評価されている。いや、そもそも王肅の学説は南北朝を通じて鄭玄と激しく争ったのだ。別に鄭玄に一方的に負けていたわけではない。それが完敗のように見えるのは、1つに『五経正義』が鄭玄よりだったのと、清代の学者が鄭玄大好きだったからだ。

ただし近代の学説は、人と違うことを言えば評価されるむきもあるし、研究するところがなくなってきたので穴場(どうでもいいから放っておかれた分野)を探したらそうなった、というのもないではないから、評価の裁定にはもっと時間がかかるかもしれない。宋代のは『群書考索』あたりにあったような気もするが、『三礼義宗』のことだったかもしれない。よく覚えてない。でもなにかで読んだ記憶はある。


4.読書感想

人類が消えた世界』ってのを読んだ。何年か前に出た本らしい。正直なところ、だらだら想像ばかり書いてあって、読むのに無駄な時間を取られた気がしないではない。タイトルこそ「人類が消えた世界」だが、そんなものは最初の章の半分くらいだけで、あとは昔の動物とか地球の現状とか、著者の妄想とか、そんなことばかり書いてある。で、著者のいいたいことは、最後の数枚に書かれてある。要するに、人間の数が多いからいけない→人間の数が減ればみんなうまくいく→出産制限すべき→教育大事、みたいな話しだ。

この本は人間と自然が別物で、人間がいなくなれば自然がよくなるとか書いている。欧米のによくあるけど、こういうのは日本人の(一部の)人と意見が合わない。私などからすれば、人間も自然の一部だから、人間のすることは全部自然のすることだ。自然の保全は人間生活に必要だからで、人間のいなくなった後の自然のためではない。著者のいう自然と調和をとってないと人間が生きていけないというのは賛同できるが、それ以外の基本的な認識のところにズレがあった。

ちなみに中味に比して読みやすい本ではない。厳密な論証をした本ではないから、もっと思い切って訳してもよさそうな気もする。大したことではないがちょっと気になった。

まぁパラパラめくってみて、興味のある章だけ読めばいい本かな。


5.美学

そんな大げさな話しではない。むかし応援していた四コマが単行本にならずに終了したことがあった。そのときの著者のコメント(サイトだったと記憶する)は模範的なもので、頗る立派だった。またこれとは別の、応援していた四コマが終わったとき(恐らく打ち切られたのだろう)、その著者氏はサイトでずいぶん悪口を書いていた。それを見た私は、また前者のときとは別の意味で、ほほえましく思った。

確かに非を受け入れてファンに謝罪し(ファンは単行本を待っているのだ)、今後の活躍を誓う態度は立派だ。それを批判する気は毛頭ない。しかしだからといって、批判がましいことを言う人にも、私はそれなりに好感を持ってしまう。世の中に名前の出てしまった有名人は別だが、あまり有名でもなく、また影響力もない分野の場合、そもそも非を自分に引き受けるだけのメリットがないからだ。だから文句を言った著者氏は、一般に知られていない怨恨を外に出して批難したのだろう。

一般的に言って、失敗や敗北に対して怨みがましいことを言うのはよくないこととされる。しかしそれは怨みを言われて利益を失う聴衆側の言い分に過ぎない。その場合、怨みをいう当事者に実害がなければ、どれほど聴衆が批判してみても意味をもたない。感情的に文句を言う人はともかく、確信犯的な人が文句を言うのは、その人にとって、発言による不利益がほとんどないため、発言することによって得られる快感が優ったものと思われる。こういうのは当事者と聴衆の間の均衡......というよりも、当事者と世の中の関係が崩れるとよく起こることだ。

そう思うと、均衡が崩れた場合に失敗の責任を引き受けるのは、単に美学(個人の価値観という程度の意味ね)になってしまい、「かくあるべきだ」という道徳律は働かなくなる。道徳律は、現実がどのようなものであれ、観念として全ての人が守らなければならない普遍律(と思われているもの)であり、それは世の中と個人の強固な利害関係、すなわち道徳律を破ると恐るべき実害が(あると思われているもので)なければならない。だから実害を与えられなくなった(と思われた)時点で、道徳律は有効性を喪失する。それに対して美学は、単に個人の美的観念に過ぎない。それを守るかどうかは、全く個人の判断にかかり、その他の人々の預かり得るものではない。

むろん個人の暴言によって世の中のかなりの人間が被害を被る恐れはある。しかしそれも「だからどうした」という一言で終わってしまう。人間はどこまでも個人であり、その個人が崩壊するとき、その他がどうなろうと関係ない。だから何らかの事情で当事者と世の中の関係が断ち切れた場合、その人の言葉を止めるすべがなくなる。せいぜいその人を個人的に説得するしかなくなる。

だからどうということもないが、私はあまりに赤裸々な発言をする人、しかも自分の身を切るような発言をする人を見ると、ちょっとその人のことが気になるのだ。もっとも、最近はかなりの有名人のわりに、あまりにも「反社会的」発言をする人が多いので、日本(だけかどうか知らないが)の人間生活の根本的なところでその紐帯が崩れているのだろう。

しかし紐帯は時間をかけてつくるもので、「作ろうぜ!」といって出来るものではない。それに「作ろうぜ!」とかいう人は、たいがいそれによって最も利益を受ける人間だけに、聞いて白けるのは避けられない。一度くずれた道徳律を復活させるのは不可能だし、新しい道徳を作るにはそれなりの環境が必要になる。そして環境は時間と共に作られるものだ。いましばらく変な世の中は続くのかもしれない。

よく分からないことを書いてしまったが、要するに、連載が終わって文句を垂れる作家の言い分も分かるし、それはそれで好感が持てるので、なんとかまた頑張って欲しいということだったりする。


6.読書感想2

八木雄二という人の『天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡』を読んだ。中世哲学の入門書らしい。Amazonのレビューの1つがおもしろかったの、ついつい読んでしまった。

......って感想を書こうと思っていたが、ちょっと時間的に無理っぽいな。もしまだ書けそうなら次回に書く。


7.某氏の天下

天下は王朝時代の中国に頻出する言葉で、だいたい自分たちの権威の及ぶ範囲、もっと狭くは自分たちの実力行使の及ぶ範囲くらいを指す。もちろん理念的にはこの宇宙全部ということだろうが、まあ現実にはその範囲はもっともっと狭いのだ。しかしこの天下に某氏という制限のつく場合がある。宋代の場合で言えば、皇帝の姓である趙(趙匡胤とかいう趙)をつけて「趙氏の天下」と言ったりする。これはなにか。

我が秦山先生には、君臣一丸、一蓮托生、死なばもろともという、はっきりいって変態的な発想がある。いや、日本の熱烈な朱子学者(だけではないが)には、そういう気色の悪い考えが横行している。実は他ならぬ私も気持ちは分からないではない。それは私が日本人だからか、それとも変人だからかは分からないが、とにかく、君臣一丸となって最後までいってしまいましょうということだ。ちょうど会社とともに一生を終わらせようとする人に似ている。

が、中国の士大夫(知識人兼文化人兼権力者)にはそういう発想がない。儒学を奉ずる彼らにとって、この世界の道理を守る義務(その義務の中心が父子の孝である)はあり、その意味で天下のために働く義理くらいはある。しかし現在の天下を有している人のために自分が殉ずる必要はどこにもない。そう、天下の為に働く義理はあっても、某氏の天下の為に死ぬ必要など、全くないのだ。士大夫は、目の前にいる君主といった「ちっぽけ」な存在のために働かない。彼らはこの宇宙の道理のために働くのだ。

もちろん例外はある。君主から特別の目をかけられ、それを士大夫じしんが受け入れ、その君主のために働き、ともに天下を治める責務を持った場合だ。もっと具体的に言えば、王朝の高級官僚となった場合だ。このときは某氏の天下が亡びるとき、すなわち王朝が亡びるとき、その士大夫もともに死ぬ必要がある。

ただし抜け道はある。劉敞の説くところによれば――危機の迫る前に去るのは正しいが、危機の迫ってから去るのは卑怯者だ、と。

このままではヤバイなと思った場合、士大夫は前もって君主に危険を説き、改心させる必要がある。必要があるのだ。ということは、必要だから説得したのに君主が聞かなかった場合、士大夫の方から君主を切って下野することは可能だ。自分が出て行ってから王朝が亡びようとも、それは知ったことではない。「ほら、いわんこっちゃない」だ。だから裏を返せば、危機が目の前に迫るまで自分が気付かず、「このままではヤバイ」ではなく「もうヤバイ」段階になって逃げの一手を打つのは卑怯者のすることで、これは許されない。

もっとも人情の常として、君主や王朝に殉ずる必要がないのに殉じた人に対しては、あまり批難めいた言い方はされない。あえて死ななくてもよかったのにとは言われても、激しい気性の人だからといって、事実上ほめ言葉をもらえる場合が多い。反面、うまいこと逃げ延びた人には風当たりは強い。どれだけ「あのときはまだ大丈夫だった」と言ってみたところで、そんなこと分かったものではない。それに世話になった手前、いざというとき危機に馳せ参じた人の方が信頼できる。

と、法則やら慣例やら人情やら、いろいろあってややこしいが、「某氏の天下」という表現があるように、士大夫にはもともと天下と天下の所有者との区別らしいものはあったようではある。ここらは有史以来、同じ氏(?)の天下でしかなかった日本と違うところで、そのあたりを意識していたからこそ、秦山先生は恐るべき教説を世に残したのだろう。



そういえば学会があったらしい。人から言われて思い出した。そんで、数日前に研究止めたので出る必要ないというと、薄情者と言われてしまった。薄情って、そんな情的つながりないでしょ。互いに利用できるから利用しているだけで、片方が利用できなくなればそれで終わるのは当然だ。私はいままでそうやって都合よく利用されて捨てられた人を何人も見てきた。だから私はそうなるまいと思って活動に積極的ではなかったが、今から思えば、もっと冷淡に付き合ったらよかったと思っている。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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