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meisou

予定は狂うものだな。当初はすぐにも環境が変わるはずだったが、いろいろ試してみるべく、しばらくこのままの調子になりそうだ。まぁ、今さら慌ててどうにもならないので、折角の人生、試行錯誤してみるのもいいだろう。ただ先立つものが心許ないのはどうにもならないところだけど。

1.古典
2.『ザ・コーヴ』とかいう映画
3.ライター規制
4.今日の『詳説政治経済研究』
5.『論語』の利用法
6.電子書籍

(※)以下、本文。

1.古典

角川は折に触れて古典を出している。理由はよく分からないけど、そういうのが好きなのだろう。岩文みたいに出す必要のない古典まで出す奇特な出版社もあるが、世界の超有名な古典くらいは、君子国の威信にかけて出して欲しいような気もする。でも、申し訳ないが、角川の出している古典では、売れそうには見えないんだよね。なんとなく古くささが残っていて(表紙じゃないよ)、読むものを遠ざける何かがある。

とはいえ、古典も最近はいろいろな種類のものがでるようになった。古い訳本に慣れていると驚くものも多いが、本来はそれでいいのだ。特に今後、電子で出版されるようになれば、なおさらいろいろな訳仕方があっていい。これも学者以外の人間が積極的に訳出しているからだろう。学者しか読めないような訳本は、学者だけにくばればいいのであって、世間に流通させるのを止めて欲しいものだ。昔の偉い学者の話ではないが、翻訳は研究ではない。翻訳ですらないならなおさら価値がない。

2.ザ・コーヴとかいう映画

そういえば「ザ・コーヴ」とかいう映画が上映中止になったとか、ちょっと前のニュースに流れてた。一時期話題になっていたので話しくらいは聞いていたが、興味もなかったので忘れていた。Wikipediaによると、ネットに無料で流れているらしいので、別に上映中止になっても構わない気もするけど、エログロでもあるまいに、上映して逆に反環境団体熱でも煽ってやればいいのに。

臭いものに蓋をするのはよろしくない。積極的に蓋を取って、それを利用すべきだ。例えば、こういう分からん団体がどれほど狡猾で汚い集団かを逆に映画にしてネットに流して広めてやるとか、大々的に討論会を開いて、ネットに流して、彼らをいかにも売名行為の卑劣な集団のように演出するとか、そういうもっと建設的な行動をすべきだ。相手の批判を真に受けて小さくなってどうするのだ。

どうせ広まれば嘘でも真実になるのだし、ばれたって後の祭りなんだから、学者お得意の捏造でも何でもやって、むしろ相手に都合の悪い状況を意図的に積極的に作ってやればいいのだ。それをなぜなかったこと、見なかったことにするのだろうか。そんなことをすれば相手の思惑通りになってしまうではないか。

もちろん相手を誹謗中傷するときは、対象となる集団をできるかぎり絞り込んで小集団にしないといけない。間違っても日本文化対欧米文化みたいなよく分からない構造を作ってはいけない。作るべきなのは、意味不明な小集団対その他の善良の一般人でなければならない。

3.ライター規制

そういえばライター規制とかいうアホな話しはどうなったのだろうか?ちょっと前に新聞の片隅で見た気がする。日本の政治家はどれだけ暇なんだ。今さらながら思い出して怒りが湧いてきた。本当の意味での「貴い犠牲」という意味を知らないのか。

4.今日の詳説政治経済研究

第1部第5章「平和主義と日本の安全保障」は読まない方がいい。著者の主観が入りすぎている。だいたい政府が何かすれば「政府が」とか「日本では」とか批判がましく書いているくせに、その批判となると、「~という批判がある」とか「~と言われている」とか、役に立たない記述が目立つ。

批判するのは結構だ。「~という批判がある」のも結構だ。だがそれなら「誰某は~と批判している」と書かなければならず、「(誰かは知らないが)~という批判をしている人/団体があるらしい」では駄目だ。批判の主体をきっちり明記しないから、胡散臭い記述になってしまうのだ。

それに本書を通じて、私の好きな「と思う」という記述法は取られていない。ということは、「~と言われている」という記述法は、明らかに伝聞情報を指している。根拠のない文章である。高校生の読む参考書に、こういう危険な無根拠の発言は厳に慎まねばならない。

他の章にも大なり小なり思想的偏向は見て取れるが、この第5章は特に酷い。理想と現実をごちゃ混ぜにしている。まず確認しなければならないのは、この世界には戦争があり、残酷なことがあり、それを止める最大の力は暴力だということを確認することだ。しかしそれでは根本的な解決にならないから、その対策を考え、目下、平和や人権が大事だということになっている。だから我々は現実問題として、暴力を肯定したところから話しを進めなければならない。それを逆に、理想から現実を見るようなことは、絶対にあってはならない。

本書を読むために一問一答政治経済用語問題集とかいうのを併用しているが、他の章はだいたい参考書と対になっているのに、問題の第5章だけは問題集に存在しない(他の章に散らばっている)。他の参考書を見ていないのでよく分からないが、なんとも第5章の存在は胡散臭さがただよっていると言わざるを得ないだろう。平和、平等、人権、相互理解、結構なことに相違なく、それを批判するのは危険人物だ。しかしそれがそのままでは成り立たない世界に生きていることを、まずもって教えなければならない。その上での理想だろう。

5.論語の利用法

論語がはやっているらしい。

論語をまともに読まず、人の解説を読んで理解できたつもりになる人がいる。ごく標準的な人と言えるだろう。私も意味不明な思想書を読んだふりをするときは、たいがい解説書や概説書を読んで理解した気持ちになる。酷いときには人から聞いたとかいう信用できないものを信用しているときがあるくらいだ。

が、こういう理解の仕方をしている人間が、本当に原文(訳本でもいい)を読んだ場合、「あれ?おかしいな?」となる。言うまでもなく、解説書と書いていることが違うからだ。

論語には人間の素晴らしさや何やらがたくさん書かれているはずなのに、庶民の味方のはずなのに、実際に読んでみるとあら不思議、貴族万歳のアホ話が多いし、君主絶対の「反動思想」が随所に見られるし、甚だしくは「民は依らしむべし知らしむべからず」とか言い出すし、意味不明な礼儀作法を重視するし......とあって、困惑してしまう。

だから論語を本当に読むことを薦める手合いは、それを見越して、「細かいことにこだわるな。大事なのは精神だ。孔子が伝えようとした精神を摑むんだ!」とか、どっかの漫画に出てきそうなことをあらかじめ書いている。

それも嘘ではない。日本人の悲しいところで、中国でも欧州でも印度でも、そういう古典は読めば読むほど日本ではなくなるのだ。結局は違う土地の違う文明になってしまうのだ。「礼儀?中国でやっていたことだろ(日本ではやってなかったんだろ)」となる。しかも「日本は中国から移民した国だ」とか信じられるならそれでもいいが、日本は日本で中国は中国だと思っているふつうの人からすると、中国の古典はどこまでも中国の古典に過ぎない。

それを無理に日本人が利用しようとすれば、いきおい精神論にならざるを得ない。私などは、精神は形がなければ発現せず、したがって形の理解のないところに精神の理解はありえないと思うが、精神だけを理解できると思う人には、そういうことに関係なく、自分の都合のいい記述が論語の真実だということになっていく。

日本にも中国の礼制を研究したものはあり、優れた成果もあったが、それにも関わらず精神論が多い。そうしなければ日本人として中国の礼制、すなわち形あるものを学ぶ意欲をもてなかったのだろう。だからこそ日本の研究は素人の研究になってしまうのだ。論語でも経書でも、そういう部門の研究は、まず文字や制度の理解でなければならない。それを追究し、その形を開明し、その形の意味が分かったとき、はじめて精神が分かる。というよりも、その形の意味が精神なのだ。

私からすれば、春秋学は属辞比事の学問であり、具体的な経文操作そのものが経文の意味だと考えている。ところが日本の春秋学は、「で、それはなにを意味したのか?」というあり得ない問いを投げかける。そういう人には永遠に春秋学など理解できないだろう。なぜならその問いは春秋学の外にいる人間にしか出来ないものであり、外に出た瞬間、春秋学という学問体系は崩壊するからだ。ちょうど西欧の思想の外にいる人間が、「それで、それは何?」と問うたとき、返答に窮するようなものだ。西欧人は詐欺師だとか思うのも、西欧の思想の外にいる人間の発想と言えるだろう。

......でも本当に論語ははやっているのかね?周辺の人間に聞いてみたけど、そんな話しは聞いたことがないと、みなに言われたんだけど。

6.電子書籍

ipadが発売されて電子書籍の時代だと言われてちょっとおもしろそうだと思ったが、落ち着いて考えてみると、無意味に思えてきた。文字は人間の伝達手段として重要だ(他のも重要視されるようになってきたけど)。だからむかしから文字を伝えるために試行錯誤して紙の本が登場した。でも、それはそういう方法で文字を伝えるのが便利だったからであって、なにも紙に印刷された本でなければ文字を伝えられないわけではない。

子供の頃から紙の本に慣れ親しんでいるせいか、電子書籍といわれてすごそうに思ったし、実際に販売している一部の電子書籍も紙の本のような体裁を取っているが、なぜみな紙の本をまねようとするのだ。別に何バイト=某円で、文字を売ればいいように思えるのだが。

ブログに有料記事があるのと同じで、なにも電子「書籍」を売らいでも、金をとって記事なり小説なり参考書なり評論なり文芸なりを売ればいいだけじゃないのかね。今までと同じになるけど。なぜ紙の本の体裁でなければならないのか、その理由が分からなくなってきた。そして紙の本の体裁でなくてもいいなら、今までと同じではないか。

とはいえ、電子書籍にはまだまだ問題が多い反面、今後どうなるのかおもしろそうではある。


ああ、もちろん電子書籍の効能はいろいろあるだろうけど、あくまでも「紙の本形式が必要か」という意味ね。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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