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孔子家語の真偽

この前は虫の居所が悪かったこともあって、いい加減なことを書いたが、考えてみれば孔子家語は狭い世界で有名な本だから、古典愛好家が調べることもあるだろう。ということで、気を取り直して少しだけ紹介しておく。もちろん論題は孔子家語の真偽(についての論争)。と言っても、もう中国のサイトでいろいろ説明されているので、そこのリンクを貼るだけのことなんだが。

まずwikiprdia。さすがに最新の情報が載っているところは中国だな。日本のものはどこかの解説書から取ってきた内容だし、しかも不適切で偉そうな表現が目につくので見なくていいだろう。

中国語wikiのキモは:

20世紀70年代以來,由於出土文獻的出現,給《孔子家語》的研究帶來了新的契機。1973年河北定州八角廊出土了漢墓竹簡中有《儒家者言》,内容与《家语》相近。1977年安徽阜陽雙古堆出土了漢墓木牘,内容同《家语》有关,另有英藏敦煌寫本《孔子家語》。李學勤認為,《孔子家語》可能成于孔安國、孔僖、孔季彥、孔猛等人之手。有學者甚至指出《孔子家語》的價值並不在《論語》之下。(脚注は省いた)


で、要するに『孔子家語』は本物だから『論語』と同程度の価値がある、換言すれば『論語』を読もうと思う人間は、同時に『孔子家語』を読む必要もあるんだよ、ということになる。

もっと専門的にきれいにまとめたものであれば:

歴代《孔子家語》研究述略

一読したところ、著者は『孔子家語』本物派のようだが、研究整理はなかなか綺麗にできていて、読んでいてい分かりやすい。この解説によると、清代に至るまでにほぼ学界の定説となった感のある『孔子家語』偽作説であるが、昨今の出土文献の発見によって、『孔子家語』が本物である可能性が出てきた、そしてそれはなかなか説得力があり、今後のさらなる研究の進展が待たれるというような内容になっている。色は付いているようだが、まあ普通の研究整理とそのアナウンスといったところだろうか。

次に上の解説にも名前の登場する、『孔子家語』本物派の闘将・楊朝明さんの解説。論文も多数執筆されているようだが、ネットにも流れていた。

《孔子家语》的成書与可靠性研究

ちょっと冗長な感じはするし、過激な発言が散見するけど(私は好きだが)、ネットで読める本物派の意見としては貴重なんだろう。というか、楊さんには『孔子家語通解』というのがあって、『孔子家語』を詳細に研究したものがある(本書の冒頭に論文が掲載されている)。だから本人としてはかなり真面目に『家語』の本物たることを信じているようだ。

ということで、各人各論の主張はネット先で読んでください......では不親切なので、以下、分かり難く説明してみよう。


『孔子家語』は『古文尚書』と並び偽作の代表例とされている。つまり現行本の『孔子家語』は、前漢の宮廷に確かに存在した『孔子家語』ではなく、それから二百年以上の後、魏の王肅なる人物が、学界の主流学説(鄭玄の学説)を打破するために自分の都合のいい資料をかき集めて作った偽書だとされる。

まず王肅の『孔子家語』を疑ったのは、馬昭という鄭玄派の学徒で、彼は王肅の出してきた『孔子家語』に対して「鄭玄先生の見なかったものだ」「『孔子家語』には王肅が増加したところがある」といって批難した。ただ馬昭がどれほどの学者であったのか不明であり、また他の鄭玄派の学者は『孔子家語』を普通に引用しているので、馬昭のいう「増加」の意味は、いわゆる全くのパチモンという意味ではなく、来歴ある『孔子家語』に王肅が自分の都合のいい文章をつけたしたという意味だろうとされる。

つぎに隋唐の時代になると、『漢書』の注釈で有名な顔師古が、漢書芸文志の『孔子家語』に「現行本ではない」と注している。もっとも顔師古が何を根拠にそのように論断したのか、今一つ定かではない。上の楊さんもいろいろ試案を出しているが、もともと資料のない世界のことだから、推測の域を超えない。

つぎにぐっと時代が下り、宋末になると、偽書の大家・王柏が登場し、『孔子家語』は全くの偽者である、という大胆な説を提唱する。その根拠は、『孔子家語』の文章は『説苑』や『大戴礼』に見えるものがほとんどで、それらから取材したものだというにある。王柏の学説はなかなかインパクトがあったと見え、元代にあるていど支持者を得たらしい。

後、学問の死滅した明は飛ばして(*)、清代になると大いに『孔子家語』の評判は悪くなり、特に范家相の『家語証偽』、孫志祖の『家语疏証』が出で、『孔子家語』と古典文献との関係が白日の下にさらされるに至り、『孔子家語』の偽書たるはほぼ学界の定説となった。もっとも清代には陳士珂の『孔子家語疏證』のように、本物たると偽書たるとの判断を避けるものもあり、また銭馥のように、現行本『孔子家語』の大半は本物だという人もいたが(陳氏疏證の跋)、大勢は偽書説に傾いた。

具体的な論証過程を説明するには予備知識が必要になるので、ここでは省略するが、要するに范氏や孫氏の論証というのは、「『孔子家語』のどこどこの箇所は、『説苑』と『大戴礼』を足したものだ」とか、「どこどこはまったく『説苑』と同じだ」ということを逐一指摘し、「だから『孔子家語』はこれらの書物から取材して王肅が作ったパチモンである」と説明するにある。

これだけだとあまり説得力を感じないだろうが、『孔子家語』全篇にわたりこういう嫌がらせをした結果、『孔子家語』のほとんどが『説苑』や『大戴礼』『礼記』と重複することが明らかとなった。古典どうしの重複は珍しくないとはいえ、あまりにも重複が甚だしく、しかもつぎはぎしたような跡が見られ、さらに王肅の学問態度(相手に勝とうという気が強すぎるところ)が問題視され、やはり王肅の偽作だろうということになった。

これに対して陳氏のものは、『孔子家語』と類似する文献を挙げるだけで、どちらがどちらを剽窃したのか、といった下世話な論評は一切なく、淡々と資料を列挙してそれで終わっている。学問的には陳氏の方が良心的だが、学者は衝撃的な方を好むので、おのずと范氏や孫氏の結論が好まれた。

ということで、しばらくの間、『孔子家語』偽作説は学界の定説となっていたのだが、ここ20~30年に中国では出土文献がおびただしく発見され、その調査研究が進むにつれ、戦国時代の文献に『孔子家語』と類似する(と彼らは思ったらしい)ものが発見され、また戦国時期の文献と用語を比較した結果、『孔子家語』の方が『大戴礼』や『説苑』よりも古い(らしい)ことが明らかとなった(と彼らは思った)。そのためこの種のものに関わる人間は、『孔子家語』が『大戴礼』や『説苑』から取材したのではなく、逆に『大戴礼』や『説苑』が『孔子家語』ないしそれに類する古籍から取材したのだ、ということを主張するようになった。

で、学界の大勢はいまだ『孔子家語』偽作派が優勢のようではあるが、本物派の人々は一方的に勝利宣言を出して、もはや『孔子家語』偽作説の根拠はなくなり、その本物であるのは明白になったので、これからは『孔子家語』を『論語』に匹敵する書物として扱い、孔子とその教団の真相を解明していこう、ということを言い出だしているらしい。なかなか自己の所信に忠実なことではある。


前にも書いたけど、ここ十数年で疑古派(古い書物は疑えばいいという考え)はとみに信頼を失い、古いのは正しいらしいという考えが勢力をもつようになった。だから従来ならば、『孔子家語』には疑わしいところがあるらしい→だったら偽書にちがいない→やっぱり偽書だった→偽書以外の結果はあり得ない、となった。

しかし一度このような考えが否定され、古いのは正しいと思うところから出発すれば、論理は顛倒する。すなわち『孔子家語』を疑う人々には根拠がない、なぜなら彼らははじめから疑ってかかって、都合の悪い資料は無視し、都合のいい資料ばかりを集めて議論しているのだから、つまり結論ありきの研究なのだ、だから彼らの発言に根拠はない、偽書説ははじめから成立していない、となる。そして、正しいと信じて『孔子家語』を読んでみたところ、言っていることに矛盾はないし、用語法や出土資料とも合致する、さらには実に素晴らしい古典的性質を備えている、やはり『孔子家語』は本物なのだ、となる。

疑古派もそうでない人たちも、結局、常識で考えて是非の判断を出し得る資料的正当性のないところで議論しているのだから、なんとでも意見は出せるし、相手を否定することもできる。

疑古派の発言が論理的に破綻しているのは言うまでもないが、『孔子家語』が正しいという根拠だって、それほど万全なものではない。

例えば、本物だという人々はこういうことを言う。――もし『孔子家語』が偽書であるならば、偽作者は『説苑』『大戴礼』などの書物から巧妙に取材したことになるが、それにしては齟齬が見られる。孔安國の享年だとか、序文跋文の関係だとか、いろいろ細かいミスが指摘されている。しかし考えてみてほしい、あれほど巧妙に本文を作る人間が、はたしてこんな単純なミスを犯すだろうか。

またこうも言う。――もし王肅が『孔子家語』を作ったのなら、それこそ彼は『孔子家語』から自説に都合の悪い部分を全て削除したか改訂したはずだ。ところが『孔子家語』の王肅注には、ほかならぬ王肅その人が批判しているところがある。これこそ王肅が偽作しなかった理由ではないか。などなど。

確かに『孔子家語』の本文ばかりを眺めていれば、そういう考えも浮かぶだろう。偽書説の根拠ばかりに気を取られて、なんとか本物だと証明しようとすれば、こんな意見が出てきても不思議ではない。

しかしね、本文の作り方が巧妙だとかいうなら、もっともっと後の時代、宋の劉敞は『春秋伝』を作ったとき、三伝から巧みに取材して自分の伝を作った。そこで宋元代には、劉敞の意図するところ、あまりに深淵でよく分からないとまで言う人がいたほどなのだ。しかしその劉敞の『春秋伝』ですら、清人によると、割裂が下手で三伝の真意を汲み取り得ていないとか批判されている。要するに巧みに取材しているのだから、ポカミスなんてあり得ないなんてのは、それ自体があり得ない考えで、むしろよくあることなのだ。

それに王肅じしんが『孔子家語』を批判しているとしても、だからどうしたのだ。そんなものはちょっと頭のいい人間ならだれでもすることだ。よく言うだろ?悪しきセールスマンが商品を売り込むとき、人の言うことを信じやすい人には、商品の利点ばかりを並べるけど、自分が頭いいと思っている人間に対しては、商品の欠点めいたところをわざわざ口にして、相手の批判慾を受け入れてから、改めて商品の素晴らしさを説明するって。それと同じで、「おれは『孔子家語』を偽作してないぜ」っていうアピールをするために、わざわざ『孔子家語』に自説に都合のわるい記事を残すことは、人間なら誰でもすることだ。私だったら絶対するね。

その他、出土文献との関係は、まだ出土文献の発見ブームが終わっておらず、したがって確定的な成果がまだ出ていないこと、比較するといっても余りにも断片的すぎて、本当に比較になっているのか怪しいところがあること等々、まだまだ問題は多い。話題になっているらしい『儒家者言』との比較だって、あれは『孔子家語』だけに一致するのではなく、『説苑』にも重複が見られるのだ。そして『孔子家語』と『説苑』は資料的に類似のものが多いのだ。いや、そもそも『儒家者言』と『家語』では相違が見られるのだから、仮に『家語』が本物でも、必ず両者の間に何か別の書物が介在していなければならない。要するに、まだまだ研究途上のことばかりで、本物か偽作かといったややこしい問題の根拠に使うには時期尚早なのだ。


しかし実のところ『孔子家語』が本物だろうと偽物だろうと、あまり重要ではない。『孔子家語』は前漢あたりに伝わっていた孔子学派のエピソードを集めたものに相違なく、それは比較的古い時代の孔子集団の言行録なのだから、孔子とその弟子を知りたいと願う人々がこの『孔子家語』を繙くならば、手っ取りばやく目的を達することができるだろう。

その意味で、『孔子家語』の真偽はともかく、こういう議論のおかげで諸種の注釈書が出版されるのは喜ばしい。そもそも『孔子家語』を説明するものは、その偽作たることの証明に力を削がれて、書物としての性格すら説明しないありさまだったから、こういう本物だという人が力を持つと、おのずと書物としての面白さにも注目が集まるだろう。だからどうってことはないのだが、『論語』よりも『家語』が好きな私としては、喜ばしい傾向ではある。

『孔子家語』の注釈は、上の楊さんの『孔子家語通解』が力作とされる。伝統的な成果(『家語』の該当条がどの古典と類似乃至一致するか)であれば、范家相『家語証偽』、孫志祖『家语疏証』、陳士珂『孔子家語疏證』の3書が現在でも便利本として知られている。その他、去年、『唐宋類書徴引《孔子家語》資料彙編』が出版され、唐宋時代の引用文献を一望できるようになった。

何はともあれ、学問は激しい論争と意見の対立があってのものだから、このままどんどん啀み合って欲しい。間違っても仲良くみんなで頑張ろうみたいな意味不明なことは止めて欲しいものだ。


(*)書くべきことがないこともないが、まがりなりにも由緒ある『孔子家語』本文を閲読して肯定・否定をしていた宋元代以前および清代以後の学者と異なり、学問の死滅した明代の学者は、『孔子家語』の節略本(および佚文を収拾したもの)しか読まずに議論していた。およそこのような低レベルな人々の意見は聞くに値しない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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