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『論語』は偽書か

偉そうなタイトルだけど、そんなたいそうな話ではありません。いつもの雑談です。

この前は「『孔子家語』は一般的に偽書と言われているが、一部の専門家は本物だと主張している」というようなことを書いた。しかししばらく調べていると、どうも中国の方では「専門家の間では本物説が定説となりつつあり、無知蒙昧で救いがたいアホな民衆だけが未だに偽書だと思っている」ということになっているらしい。

『孔子家語』が本物だろうと偽物だろうと、私個人からすればどうでもいい。『孔子家語』が本物であっても少しも困らないし、それで孔子が偉くなるわけでもないし、馬鹿になるわけでもない。もちろん偽者でも同じだ。要するにそれだけのことなのだ。

しかしそれとは別に、そもそも偽書とは何だろうか。『孔子家語』はなぜ偽書であり、なぜ本物たりえるのか。ここ最近そういうどーでもいいことを考えていた。

(※)以下本文

『孔子家語』には王肅の序文と、孔安国の後序が掲載されており、さらに孔安国の後序はこれを孔安国本人の後序と孔衍の記事に分割できるとされる。ただし学者の間に諸説あり、どうにも手の付けられない状態にある。

有力な三説をあげると、実は孔安国の後序と孔衍の記事はすべて王肅の偽作だという説、孔安国の後序は王肅の偽作で孔衍は本物だという説、そもそも王肅の序文も孔安国の序文も孔衍の記事もすべて後人の偽作だという説、この三種類あるようである。もちろん『孔子家語』が本物だと主張する一派は、王肅の序文も、孔安国の後序も、孔衍の記事も、すべて各自の自作であり、内容も完全に真実だという。

これだけ学説に対立があると、どんな学説でも一方の立場から批判されてしまうので、正直なところ、議論のしようがない。が、普通の人は王肅も孔安国の孔衍も「たぶん各人が書いたのだろう(ただし真実かどうかは別として)」と考えることにしている。


ということで、それらの序文類が偽作でないとして、『孔子家語』の由来を考えると、だいたい以下の5段階を経たと考えられる。

(1)「『孔子家語』はみな当時の公卿士大夫および七十二弟子の諮尋して交々相応対する所の言語にして、既にして諸弟子各自その問うところを記すものなり」で、粗雑に解釈すると、「『孔子家語』は孔子の弟子および関係者が残した、孔子との問答の記録だ」ということになる。

(2)「この時、弟子はその正実にして事に切なるものを取り、別出して『論語』をつくり、その余りは則ちすべて集録して名づけて『孔子家語』と言う」で、要するに、「(1)の問答記録の中、孔子の言葉として後世に伝えるに足るものを集めて『論語』をつくり、それ以外の部分を『孔子家語』として残した」ということになる。

(3)その後、『孔子家語』は孟子と荀子の手に渡り、さらに秦の有に帰し、漢の宮廷蔵書に入った。それを高祖の妻方の呂氏一派が取ったが、呂氏の廃滅とともに民間に消えた。民間に散った『孔子家語』は儒学系統の文献と合併されたり、改竄されたりした。そのため景帝の時代にふたたび朝廷の所有に帰したが、既に『孔子家語』は乱雑な書物に成り下がっていた。

(4)武帝の時代、孔安国は『孔子家語』が亡びるのを惜しみ、「諸公卿士大夫によりて私(ひそ)かに人事をもってその副(本)を募求し、ことごとくこれを得たり。すなわち事類をもって相次し、撰集して四十四篇」としたらしい。そして孔安国は『孔子家語』を他の古文系の経書とともに朝廷に献上したが、巫蠱の事件のために沙汰や身になった。

(5)漢が滅亡した後、孔子の子孫に孔猛という人物がおり、この人が家蔵の『孔子家語』を見つけた。孔安国の撰定したものであった。孔猛は王肅の弟子だったので、さっそくそれを王肅に見せた。王肅は自説と合致し、かつ鄭玄の学説の妄を破るに足る資料を得て大喜びし、さっそく天下に宣伝することにした。

ということになるらしい。


さて、もし『孔子家語』が(5)の段階で偽作された場合、すなわち王肅か孔猛が『孔子家語』を自作して、それを孔安国や伝説やらに附託して世に吹聴した場合、これはどう考えても『孔子家語』は偽書である。これ以上に偽書らしい偽書はないと言っていいほど偽書である。

では(4)以前の段階で『孔子家語』が偽作、ないしそれに類する編集がなされていた場合、はたして偽書と言えるのか。

例えば、孔安国は(1)(2)が真っ赤な嘘だと知りながら、『孔子家語』をもっともらしく編集し、その孔安国の嘘を真に受けた王肅が『孔子家語』を世に出したとする場合、『孔子家語』は偽書なのだろうか。あるいは(1)や(2)は世人のデマだったが、孔安国はそれを信じ、『孔子家語』らしいものを各書から持ち寄って『孔子家語』を再編集し、それを王肅が再び顕彰した場合、その『孔子家語』は偽書なのだろうか。

もっと別の考えからすれば、『孔子家語』と名づけられたしょっぼい書物は存在したが、それを孔安国が立派な本だと思い込み、『孔子家語』を「再編集し」(つまり捏造し)、さらにその『孔子家語』を孔猛が発見して王肅が顕彰した場合、その『孔子家語』は偽書なのだろうか。もし偽書の定義を、由来と実際が異なるものと定義するならば、そもそも『論語』と『孔子家語』の関係が間違いであれば、孔安国に嘘偽りがなくとも、王肅が真実であっても、『孔子家語』は偽書になる。

しかし研究者の方からすれば、恐らく孔安国、乃至それ以前の段階で『孔子家語』が編纂(偽作)されており、それをほぼそのままの形で王肅が世に問うたのであれば、偽書とばよばないだろう。そもそも孔安国の時代、すなわち前漢の武帝時代に編纂された書物を偽書とよんでしまえば、もう世の中のほとんどの中国古典は偽書になってしまうからだ。易経も書経も詩経も偽書だし、孟子も荀子も墨子も荘子も韓非子も偽書になってしまう。


我が国の高校では諸子百家とかいって、孟子や荀子、墨子、荘子、韓非子を習い、各々の著書として『孟子』『荀子』『墨子』『荘子』『韓非子』があげられている。しかし古典好きなら誰でも知っているように、これらの書物は、孟子や荀子などのご本人(ないしその弟子)が編纂したものではない。それらはご本人と弟子の言葉が各種の形態で世に流れていたものを、前漢の後半にもなってようやく劉向が再編集し、現在の状況(の原型)に作り上げたものだ。その劉向が見たテキストが、現在の本とは似ても似つかぬものであったことは、その『別録』の佚文を見れば明らかである。

とはいえ、『荀子』にせよ『孟子』にせよ、もし現行本が、先生ご本人とその弟子筋の人々の言葉や伝説・妄説・虚言から成り立つ書物であるならば、それは確かに先生ご本人の学説ではないかもしれないが、百歩譲って、「某々先生学派の人々の伝説と妄説」ということで楽しく読める。しかし恐らく現実には、それほど素直に学派の資料がまとめられたとは考えられない。無関係の学派の言葉も多く収録しているだろう。

劉向を代表とする前漢の学者の編集作業を、もし由来と事実が一致しないといって「偽書」扱いすれば、当然ながらほとんどの書物は偽書になる。これは経書とて例外ではない。経書が現在の経書らしい形になったのは、漢代に入ってからだと推測され、それ以前は各地各人にばらばらの経書があったと考えられているのだから。

だとすれば『孔子家語』が偽書であるか否かの線引きは、王肅と孔猛は伝来の『孔子家語』を信じていたということになる。もっと雑に言えば、『孔子家語』が王肅と孔猛の偽作でなければ、『孔子家語』は偽書でないということになる。ずいぶんいい加減なところに線引きがあるものだ。

そもそも「『孔子家語』はみな当時の公卿士大夫および七十二弟子の諮尋して交々相応対する所の言語にして、既にして諸弟子各自その問うところを記すものなり」「この時、弟子はその正実にして事に切なるものを取り、別出して『論語』をつくり、その余りは則ちすべて集録して名づけて『孔子家語』と言う」に寸分でも間違いがあるならば、すなわちわずかでも『孔子家語』に弟子と関係者以外の関与があったとすれば、一発で偽書のはずなのに。


そういえば『論語』には3つのテキストがあったらしい。いや、後漢末ではそういうことになっていた。もっと正確に言えば、『論語』の形態を伝えるほぼ唯一の証言である何晏の序文にそう書いてあるから、そういうことなんだということになっている。その何晏の発言によると、魯の地方で流行していた魯の論語(すなわち魯論)、斉の論語(斉論)、そして出土資料の古文の論語(古論)の3つがあったらしい。この3つは各々章句と本文に異同があり、現行本は魯論を中心にしたものだとされている。

ならば現行本『論語』は、原『論語』から派生した最低3つの『論語』の中の1つということになり、原『論語』の派生作品でしかないことになる。正確に言えば、原『論語』の決定版を正しく継承したか否か、他の本との厳格な比較が可能でない現在、分からないのだ。もしかしたら斉論の方が正しかったかもしれないし、3つの全ては失笑ものの出来だったかもしれない。いやいや、そんな偽作なんてないでしょ、と思う人は、明代の石経大学を調べてみるといい。儒学者はそういう連中なんだ。

『論語』の由来は、『論語』本文に書かれていないから、よく分からない。内容から推して、孔子とその弟子の問答ということになっている。魯論が全くの捏造でないかぎり(当然否定はできない)、恐らく『論語』の中には孔子の本物の言葉も入っているだろう。しかし全くどーしょーもないプーな奴の発言である可能性も充分にある。『論語』を読んでありがたがるのもいいが、そういう人は「孔子」が分かったのではなく、現行本『論語』が分かったと言って欲しい。どーでもいいけど。


ああそうそう、いつものことだけど、『論語』なんてちっとも偉くないよ。孔子もね。孔子ていどの人間なんて世の中たくさんいる。『論語』レベルの本なんて世の中に溢れてる。大事だ大事だと言われてるから、実価以上に大事になっているだけだ。え、何があるかって?例えばこれとかこれ(*)とか、これなんてもっと人生に安らぎを与えてくれる。最後にこれもあげておこう。

(*)人間の信頼関係と依存関係に対する某嬢の指摘は鋭いものがある。発言はリンクの巻にあらず。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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