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感想

相変わらず体調悪いけど、まあ人間には反省が必要だろう。

改めて春秋の訳文を読み直してみたところ、やはり分かり難さは如何ともしがたいものがあった。1つには当然にして訳文が洗練されていないことがあげられる。しかしこれはすぐにどうこうできるものでなく、これからも地道に努力していくしかないものなので、今回は問わないことにしたい。

ただ訳文の洗練とは別の問題として、言葉の背景がとらえ切れていない、あるいは私はわかっているつもりでも、それを訳文に落とし込めていないところがある。もともと春秋のような分野は、専門家の中の専門家が己の学問的レベルの高さを誇って研究成果を世に問うていたものだけに、当時においてすら一般の人にはわかりにくかったものだ。それを当時の知識をまったく持たない現代の人の前に出すのであれば、当然ながら原文に用いられた言葉や文章、あるいは分の流れのもつ意味を訳文中の落とし込んでいなければならないはずだ。もちろんそう思ってあるていど努力したつもりではあったが、はやり不出来なのは目の覆いようがない。

とはいえ、こう考えたときいつも頭をよぎるのは、明治書院のある訳本のことだ。私はあのほんの訳文だけを読んだとき、すぐに著者の所感や解釈を混ぜて訳した(?)ものだということがわかった。そして実際に原文と比べてみて大幅に訳者の感想を加えたものであることが確認できた。

訳文だけを読んだといっても、もともと原文で読んだことのある文章だから、わかってもたいして偉いものではないが、それ以外にも理由がないではなかった。そもそもあの訳文は日本語臭味が強すぎた。残念ながら中国の古典はああいう書き方をしない。もっと我々にわかりくい論理の展開をする。訳文はあまりに日本人に親切に解説されすぎていた。だからすぐにおかしいと思ったのだ。

まぁ、あの訳本は全体の文意をとらえ損ねたところが多く、根本的に訳本としての及第点にも達していないものだったから、もとより訳文の巧拙など論じてもしかたのないものではあった。しかし訳文の作り方という点においては、少し考えるところがあったのもまた事実だ。たしかに原文だけではわかりにくいところに大幅に解釈を書き加えれば、訳文もどきを呼んだだけで読者は原文の意味を理解した気になることはできるだろう。しかしそれは訳文ではあるまい。

このような訳者の解説を防ぐ方法としてもっともありふれたものは、膨大な注を付すやり方だ。よく学者系の訳文にみかけるのがこれで、失笑すべきことに、一行に3つも4つも、下手をすれば10前後の注を加えるものがある。それも本論冒頭のもっとも難解なところならやむを得ないが、どうでもいいところにまで注釈をつけて、自分の知識をひけらかすのが目的ではあるまいかと邪推させられるものもある。

私はこういうものは全く評価することができない。率直に言ってこのような注は不必要であり且つ読者を混乱に陥れるばかりか、単なる自己満足でしかないからだ。異常に多い注の中には明らかに訳文に手を加えれば目的を達成し得るものがたくさんある。要するに訳文を練るのが面倒だから、そして自分は間違っていないことを示すために、もっともらしくたくさんの注を加えているだけなのだ。

とはいえ、訳語や文字の配列を変更することで読者により正確に文意を伝えられるならもちろんそうすべきではあるが、それ以上に深いところで理解を困難にしている部分に対してどうすべきかとなると、いまだによい答えが出てこない。

たとえば孔子の無謬性を知らない人が、「孔子は間違っていた」という訳文を読んでも、意味を正しくとらえることはできないだろう。この場合、強いて訳せば、「(絶対に間違いを犯すことのないと世間一般で信じられている)孔子は(なんと)間違っていた」というような意味になる。あるいは孔子のように「子」をつけて呼ばれる人間に対して、あえて「孔丘」とかくことの意味は、このような中国の習慣や慣例を知らなければわからない。しかしこれを訳文に補足することは明らかに翻訳作業の逸脱になると思われる。翻訳もやっかいなものだな。

でも思ったより春秋に興味を持っている人がいるらしいので、今度はいよいよ劉敞の『春秋権衡』でも訳してみようかな。あれは葉夢得とか清代のと違って、見識のレベルから春秋三伝を批判したものだけに現代の人が読んでも感動的なところが多々ある(と思ふ)。

春秋は自分にとって大事なものだけに間違いたくないが、宋代史の訳は私にとって遊びみたいなものだから、ああいう訳本はすぐにできるし、間違っていても苦にならない。だいたい偉い大学の学者が平気で間違ったことを垂れ流して許される世の中なんだから、私のようなゴミのような人間が間違いを犯しても批判されるいわれはない。私を批判するならさきに偉い学者の誤りを糾弾してもらいたい。

ああ、そうそう、なんでも日本語に翻訳するのはよろしくないとお思いの人もいるだろうから、そういう人は原文でよんでください。訳文は強制されて読むものではなく、読みたい人が読むだけだから、読む必要のない人は一切みなければいいだけなのだから。


書き忘れていた。

たぶんあの訳本に興味を持った人は違う意味で手に取ったのだと思う。さすがにあれそのものに興味を持ってお金を払おうと思った人はほとんどいないだろう。さすがにそれくらいのことは私も自覚している。ただ「春秋」という名前に興味を引かれる人がいるらしいことを知ってうれしく思ったというにとどまる。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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