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石川準十郎の著作目録

石川準十郎(1899-1980)著作目録

1.単行書
(A)著書
『マルクス社会主義より国家社会主義へ』(日本社会主義研究所,1932年)
『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』(国際日本協会,1941~43年)
第1分冊:1941年11月
第2分冊:1941年12月
第3分冊:1942年7月
合冊普及版:1943年5月
『歴史の方向侵すべからず』(1945年)
『共産主義国家論批判』(共和書房,1948年)
『社会主義論稿―理論と歴史の再検討―』(新思潮研究会,1963年)

(B)翻訳
カール・カウツキー『マルクス経済学入門』(『社会哲学新学説大系』第9輯。新潮社,1925年)
G.D.H.コール(George Douglas Howard Cole)『機能的社会国家論』(新潮社,1926年)
フリードリッヒ・エンゲルス『マルキシズムの根柢』(新潮社,1927年)
ヨゼフ・ディーツゲン『マルキシズムの認識論』(改造文庫,1929年)
ハインリッヒ・クノー『マルクスの歴史社会並びに国家理論』上巻(別府峻介との共訳。改造文庫,1934年)

2.雑誌・雑誌掲載
(A)論文
1924(大正13)年
「自称マルキシストの非マルクス的国家論」(第1次『急進』9月号,1924年9月)
「マルクス国家論に就いての一考察」(第1次『急進』10月号,1924年10月)
「二種の似而非マルキシスト群」(第1次『急進』12月号,1924年12月)

1925(大正14)年
「復帰コンミュニズム検討」(第1次『急進』第2巻1月号,1925年1月)

1926(大正15)年
「アナキズムに就いて」(第3次『局外』2月号,1926年2月)

1931(昭和6)年
「マルクス主義か国家社会主義か―近世社会主義の帰結としての国家社会主義―」(『日本社会主義』第1巻第1号,1931年10月)
「マルクス主義か国家社会主義か―近世社会主義の帰結としての国家社会主義―」(『日本社会主義』第1巻第2号,1931年11月)
「マルクス主義か国家社会主義か―近世社会主義の帰結としての国家社会主義―」(『日本社会主義』第1巻第3号,1931年12月)

1931(昭和7)年
「我等の当面の任務及び陣成に就いて―国家社会主義党結成問題に対する一提説―」(『日本社会主義』第2巻第1号,1932年1月)
「下中氏等の新党組織問題」(『日本社会主義』第2巻第2号,1932年2月。「時評」の一つ)
「所謂『三反主義』の意義」(『日本社会主義』第2巻第2号,1932年2月。「時評」の一つ)
「森戸氏の『国家社会主義の正体』論(上)」(『日本社会主義』第2巻第3号,1932年3月。「時評」の一つ)
「国家社会主義党の結成を望んで―国家社会党樹立に就いての若干の注意―」(『日本社会主義』第2巻第4号,1932年4月。「時評」の一つ)
「森戸氏の『国家社会主義の正体』論(下)」(『日本社会主義』第2巻第4号,1932年4月。「時評」の一つ)
「国家社会主義運動の確立の為に!」(『日本社会主義』第2巻第5号,1932年5月)
「最近の国内政情と国家社会主義運動当面の任務」(『国家社会主義』第2巻第6号,1932年6月。時評)
「国家社会主義党の成立とその若干の問題」(『国家社会主義』第2巻第6号,1932年6月。時評)
「議会の問題とされら国家社会主義」(『国家社会主義』第2巻第7号,1932年7月。時評)
「謂はゆる『中間階級』の問題」(『国家社会主義』第2巻第7号,1932年7月。時評)
「斎藤内閣と自力更正主義」(『国家社会主義』第2巻第9号,1932年9月。時評)
「謂はゆる『満蒙モンロー主義』」(『国家社会主義』第2巻第9号,1932年9月。時評)
「国民の満洲か財閥の満洲か」(『国家社会主義』第2巻第10号,1932年10月。時評)
「最近のドイツと国民社会主義運動」(『国家社会主義』第2巻第10号,1932年10月。時評)
「国家主義と社会主義」(『国家社会主義』第2巻第12号,1932年12月)
「ドイツ国民社会主義運動紹介(一)」(『国家社会主義』第2巻第12号,1932年12月)

1938(昭和13)年
「日支事変とその終極について」(『国社』第2巻第3号,1938年7月)
「ドイツに於けるドイツ主義の最後」(『国社』第2巻第3号,1938年7月)

1939(昭和14)年
「思想上の支那と日本(二)―日支思想工作の前提的一研究―」(『国際評論』第4巻第7号,1939年7月)
「欧洲大戦の日本に及ぼす影響―英仏が勝利すれば東亜の新秩序は画餅を免れず―」(『国際評論』第4巻第11号,1939年11月)

1940(昭和15)年
「二千六百年への緊急主張」(『国際評論』第5巻第1号,1940年1月)

1943(昭和18)年
「満洲訪問雑記」(『国際評論』第8巻第1号,1943年1月)
「敵反撃の結果と戦争の現段階―敵にも学ばざるべからず―」(『国際評論』第8巻第8号,1943年8月)

1944(昭和19)年
「時局随想」(『国際評論』第9巻第2号,1944年2月)

1945(昭和20)年
「歴史の方向侵すべからず」(『協和運動』第7巻第2号,1945年2月)

1948(昭和23)年
「共産主義の破壊性とその由来」(『暖流』第5号,1948年11月)

1949(昭和24)年
「世界は何処へ行くか」(『協同主義』第20号,1949年1月)
「共産主義国家論」(『経営者』第3巻第4号,1949年4月)

1950(昭和25)年
「方法としてのマルクス辯證法(上)」(『早稲田政治経済学雑誌』105号,1950年8月)

1951(昭和26)年
「方法としてのマルクス辯證法(中)」(『早稲田政治経済学雑誌』108号,1951年2月)
「方法としてのマルクス辯證法(下)」(『早稲田政治経済学雑誌』112号,1951年10月)

1952(昭和27)年
「THE BANKRUPTCY OF THE STATE THEORY OF MARX AND LENIN」(『早稲田政治経済学雑誌』116号)
「近世社会主義国家論とスターリン」(『早稲田政治経済学雑誌』117・118合併号)

1954(昭和29)年
「日本国家主義の時代的思想的変遷」(『早稲田政治経済学雑誌』125号,1954年2月)

1955(昭和30)年

「マルクス唯物史観考」(『早稲田政治経済学雑誌』131号,1955年2月)
「マルクス資本主義破綻論」(『早稲田政治経済学雑誌』133号)
「マルクス・プロレタリア革命論(上)」(『早稲田政治経済学雑誌』136号)

1956(昭和31)年
「マルクス・プロレタリア革命論(中)」(『早稲田政治経済学雑誌』139号)
「マルクス・プロレタリア革命論(下)」(『早稲田政治経済学雑誌』142号,1956年12月)

1957(昭和32)年
「ソ連来襲前夜の満洲追懐―洪国事件に思う歴史の方向不可侵性」(『流れ』第5巻第2号,1957年3月)
「ソ連来襲当時の満洲追懐―洪国事件に思う歴史の方向不可侵性」(『流れ』第5巻第3号,1957年4月)
「ソ連来襲後十二年―洪国事件に思う歴史の方向不可侵性―」(『流れ』第5巻第7号,1957年8月)
「社会主義と共産主義の三種の区別に就いて」(『早稲田政治経済学雑誌』146・147合併号,1957年10月)
「修正マルクス主義論考―ベルンシタインのマルクス主義修正論―」(『早稲田政治経済学雑誌』148号,1957年12月)

1958(昭和33)年
「岐路に立った社会主義」(『早稲田政治経済学雑誌』150号)
「マルクス主義とソ連共産主義」(『早稲田政治経済学雑誌』151・152合併号,1958年8月)

1959(昭和34)年
「社会主義と階級政党問題」(『早稲田政治経済学雑誌』156号,1959年4月)
「社会主義の概念をめぐる最近の二大問題」(『早稲田政治経済学雑誌』160号,1959年12月)

1960(昭和35)年
「マルクス主義と『中間階級』」(『早稲田政治経済学雑誌』164号,1960年8月)

1961(昭和36)年
「G・D・H・コールのファシズム論」(『早稲田政治経済学雑誌』169号,1961年6月)

1965(昭和40)年
「歴史の方向侵すべからず―米・ソこそは東亜民族共同の敵―」(『新勢力』第10巻第4号,1965年4月)

1966(昭和41)年
「ナショナリズムの概念と生態―単一民族国家と複合民族国家の相違―」(『新勢力』第11巻第4号,1966年4月


(B)翻訳
1941(昭和16)年
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究(三)」(『国際評論』第6巻第1号,1941年1月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第2号,1941年2月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第3号,1941年3月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第4号,1941年4月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第5号,1941年5月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第6号,1941年6月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第7号,1941年7月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第8号,1941年8月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第9号,1941年9月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第10号,1941年10月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第11号,1941年11月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第6巻第12号,1941年12月)

1942(昭和17)年
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第7巻第1号,1942年1月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第7巻第2号,1942年2月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第7巻第3号,1942年3月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第7巻第5号,1942年5月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究」(『国際評論』第7巻第6号,1942年6月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究(十九)」(『国際評論』第7巻第7号,1942年7月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究(二十)」(『国際評論』第7巻第8号,1942年8月)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究(廿一)」(『国際評論』第7巻第9号,1942年9号)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究(廿二)」(『国際評論』第7巻第10号,1942年10号)
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究 後篇(一)―後篇建設篇緒言並にナチス党綱領―」(『国際評論』第7巻第11号,1942年11月)

1943(昭和18)年
「ヒトラー著『マイン・カンプ』研究 後篇(二)―ブルジヨア党の綱領作成とその対マルクス主義無能性―」(『国際評論』第8巻第2号,1943年2月)
「ヒトラー『マイン・カンプ』研究 後篇(三)―世界観は如何にして世界観たり得るか―」(『国際評論』第8巻第3号,1943年3月)
「ヒトラー『マイン・カンプ』研究 後篇(四)―世界観は如何にして世界観たり得るか―」(『国際評論』第8巻第5号,1943年5月)
「ヒトラー『マイン・カンプ』研究 後篇(五)―世界観は如何にして世界観たり得るか―」(『国際評論』第8巻第6号,1943年6月)


※不明部分多し。情報求む。
※『早稲田政治経済学雑誌』の掲載年不明部分は丸括弧内に年月を記さなかった。
※『国際評論』『国社』は部分のみ参照。
※その他、国会図書館の雑誌記事検索を用いた部分もある。
ソ連来襲前夜の満洲追懐、ソ連来襲当時の満洲追懐、ソ連来襲後十二年の三論文はぜひとも読んでいただきたい。満州で敗戦を迎えた思想家の思い出としてたいへん興味深い。『流れ』という雑誌は国会図書館に所蔵されている。ちなみに『流れ』は右翼雑誌です。

まだ大学に在籍していたころ身分を利用して各地の大学の資料を見てまわったり複写してもらったりして作ったもの。『早稲田政治経済学雑誌』所載の論文はあまりおもしろくない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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