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春秋五伝

1.ファイル
2.春秋五伝
3.春秋経11巻
4.春秋夾氏伝
5.宋代の学者
6.ファイル2
7.食ふだけの仕事は必ず授かる
8.その他
9.SimSun-ExtB

※以下本文

1.ファイル

つかぬことを伺いますが、ファイルを置くというのは例のファイルのことでしょうか?こちらと関係ないことかと思ってなんとなく読み流してましたが、さきほどふと気がつきました。

2.春秋五伝

むかし『漢書』巻72の王吉伝に「初め、(王)吉は五経に兼ね通じ、能く騶氏春秋を為め、詩・論語を以て教授し、梁丘賀の説易を好み、子の駿をして焉を受けしむ」とあるのにより、同伝中に見える吉の言葉である「春秋の一統を大ぶ所以の者は、六合同風、九州共貫なればなり」を鄒氏伝(鄒氏は騶氏に同じ)と見なし、因て以て鄒氏伝は公羊伝と類似の学説を保持していたとかいうことを書いた。というか、そういう学説を立てた人がいたことを紹介した。

が、王吉が鄒氏伝に通じていたにせよ、すでに五経に兼ね通じていたその姿勢から判断して、伝中に引かれるところの「大一統」の思想が鄒氏伝のものであるか否か不明とせざるを得ない。方便として、あるいは実用的なものとして、公羊伝を敷衍して論じたに過ぎない可能性も十分あり得るからだ。

が、王吉伝中の発言の如何に関わらず、それでも鄒氏伝は公羊・穀梁に類似の学説を保持していたであろうことは想像に難くない。『漢書』芸文志は春秋経および春秋五伝を次のよう記している:

春秋
古経十二篇
経十一巻(公羊・穀梁二家)
左氏伝三十巻(左丘明、魯の太史)
公羊伝十一巻(公羊子、斉の人)
穀梁伝十一巻(穀梁子、魯の人)
鄒氏伝十一巻
夾氏伝十一巻(録あるも書なし)

もともと『漢書』の芸文志は劉歆の編纂物を班固がおそったもので、しかも劉歆は古文家なものだから、左氏伝が公羊や穀梁の上に置かれていると考えられる。だから古経十二篇というのは左氏傳の経のことで、当然ながら信憑性は大いに疑われなければならならず、公羊・穀梁の十一巻の経文の方が明らかに信憑性が高い。

左氏傳のはどうせ劉歆あたりが公羊伝と穀梁伝から偽作したに過ぎないとるに足らない贋作に違いない。だいたいさもなければ春秋三伝の経文がああも都合よく一致しているはずがない。しかも難読の箇所(夏五、郭公など)に限って、その多くが一致しているのだ。左氏傳が由来ある経文を伝えていたのなら、ああいう難読の箇所こそ正当な経文を明示できなければならないはずだ。

まぁそれはともかく、漢のような古い時代の書物で、同じ種類の書物で、しかも巻数が同じというのは、これはもう同じ傾向の書物だと考えないといけない。だから春秋五伝は、左氏伝をのぞいて、いずれも同じようなことを記した書物であったと推測される。ここから判断しても左氏傳が孔子の正統を受け継がないパチモンであったことがよくわかる。

そもそも左氏傳は亡びるべきだったのだ。左氏傳がなければ春秋学はもっともまともな学問になっていた。なぜならば左氏傳がなければ史実に徴することができなくなるため、経文から史実を読まざるを得なくなるからだ。もちろんそれでも宋代になれば二伝は否定されただろうし、新たな解釈が登場しただろう。しかしそのときも左氏傳を使った紛らわしい学問ではなく詩集伝や書集伝のようなものになっただろう。春秋学はそうあるべきだった。そう思うと左氏傳が亡びなかったのは残念でならない。史実などは分からなくて構わない。分かっても役に立たないのだから。

3.春秋経11巻

『漢書』芸文志いうところの「古経十二篇」というのは、おそらく春秋十二公の各々に一巻を当てたものと想像される。漢代の古いことだからよく分からないが、歴代学者の因襲に従う限り、春秋を十二巻に分類するときは、そうすることになっている。これは左傳学者が三十巻に分けたがるのと同じで、文献による証拠はないけれども、おそらく正しいだろう。

では今文家の経十一巻は春秋十二公をどう区分したのか。何休の言い分に従えば、閔公篇を荘公篇にくっつけたらしい。その理由は「閔公篇を荘公の下に繋げる者は、子は未だ三年ならざれば、父の道を改むる無ければなり。伝に曰く、則ち曷為れぞ其の封内に於いて三年は子と称すや。孝子の心に縁れば、則ち三年は当たるに忍びざればなり」とある。理由は後付けの可能性も否定しきれないものの、荘公と閔公はセットだったらしい。

4.春秋夾氏伝

春秋五伝の中でももっとも不明度の高い夾氏伝について、班固(劉歆かもしれないけど)は芸文志の最後に次のような文句を加えている。

末世に及び、口説 流行するが故に、公羊・穀梁・鄒・夾の伝あり。公羊・穀梁は学官に立つも、鄒氏に師なく、夾氏未有書


あまりこだわってもしかたないのだが、「夾氏未有書」の「未」はどういう意味なんだろうか。鈴木由次郎氏の『漢書芸文志』だと「夾氏は未だ書有らず」と訓んで、「夾氏伝は最も早く書物が亡んでしまった」とある。まあ目録に「夾氏伝十一巻(有録無書)」とあるのだから、そう解釈するのは妥当だろう。たしかちくまの漢書も同じ訳をしていたと思う。

しかし「未だ~ず」には「もうなくなってしまった」という意味があるのだろうか。ちょっと辞書で調べてみたけど、「もうなくなった」というようなニュアンスは含まないような感じなんだけど、どうなんだろう。ふつうは「未だ~ず」だと「まだない」という意味になって、詳しく訳せば「夾氏伝にはもともと書物はなかった」という感じなんだがな。もちろん「なかった」というだけの意味で「未」を使うなら、「夾氏は書有らず」で、「未」は「不」乃至「無」と同じ用法になり、「いまだ」とは訓じないと思う。

ちなみに『隋書』経籍志には「漢の初め、公羊・穀梁・鄒氏・夾氏あり、四家並び行わる。王莽の乱、鄒氏に師なく、夾氏亡ぶ」と、いかにもいい加減な記事が載っている。だいたい「四家並び行わ」れたことなどない。ただ四家の伝承が春秋の学説として残っていただけだ。しかも「漢の初め」ってなんだ。『史記』には穀梁伝ですら数文字の記述しか見られないのだ。強いて言うなら、「前漢の中頃、四家並び行わる」だろう。経籍志がどれほど信頼するに足りないものか、これだけからも分かる

そういえば後漢のはじめに范升と陳元が論争したとき、范升が左氏伝の立官を認めれば、他の学派の立官も認めざるを得なくなると主張した下りで、「春秋の家、また騶・夾あり。もし左氏・費氏(易の古文家)をして博士を置くを得しむれば、高氏(易の古文家)・騶・夾、五経の奇異なるも、並びにまた立つを求め、各々執るところあれば、乖戻分争せん」とある。ということは、『隋書』経籍志は「王莽の乱、鄒氏に師なく、夾氏亡ぶ」とするけれども、范升の認識では、後漢の初めはまだ鄒氏や夾氏にも復興の可能性があったということになる。

まぁ范升の議論は相手に勝つための議論だから、可能性があろうとなかろうと、もっともらしい言葉を口にしただけの可能性は十分ある。反面、仮に范升の言葉に現実性がなかったとしても、儒学者のことだから、おいしいものにありつけると分かれば、鄒氏伝や夾氏伝の伝承が全く途絶えていても、それこそゼロから学説をねつ造して立官運動にいそしんだだろう。

私としては後漢の初期に左氏伝を亡ぼして、鄒氏伝と夾氏伝だけを学官に立ててほしかったけど、それは余りにもあり得ない選択だな。どっかの墓から夾氏伝とか出てこないかな。たぶん穀梁伝の劣化版だと思うけど。

芸文志の配列から考えて:

捏造された学説=公羊伝
公羊伝の劣化版=穀梁伝
穀梁伝の劣化版=鄒氏伝
鄒氏伝の劣化版=夾氏伝

パチモン=左氏

だと思う。

ああ、出土資料とかで春秋伝の初期バージョンが見つかって、ちゃっと左氏が「伝」だったら、この関係はこうなる:

人類の敬仰すべき真実なる書物=春秋経
かつて存在した真実なる解釈書=春秋伝
春秋伝の超劣化版=左氏伝
春秋伝の超劣化版=公羊伝
公羊伝の劣化版=穀梁伝
穀梁伝の劣化版=鄒氏伝
鄒氏伝の劣化版=夾氏伝

この可能性は十分ある。

5.宋代の学者

しかし宋代の学者は「経書の意味は書物を読んだら分かる」とかいうけど、漢代の学説を見る限り、師説がないととても理解できない。それは学説の伝承として当然あり得ることで、書物には暗号を解く鍵だけを残しておいて、暗号の本体は口承に依るということは十分あり得る。こういう着想を無視して、書物があるんだから、書物に真実が全部書かれてあるはずだと嬉しがって発言するところが、宋代の学者の浅薄なところだ。

もっとも「宋代の学者」と一括したけど、なかには違う人もいただろう。いや、たぶんたくさんいただろう。ところがそういう良識ある人々の記録は歴史から抹殺され、流行した学説だけが残るので、こういうことになったのだと推測される。いつの時代にも異端はいるものだ。そして異端というと凄みがあるけど、その実、もっとも常識的でつんまらないことを発言していただけだったりする。


6.ファイル2

やはりそうでしたか。ありがとうございます。相手のお目こぼしに頼るのも危険なのでぼちぼち処遇を考えます。ただ、いざ人のところに置いてもらうとなるとしょぼさが目についてしまふ。

7.食ふだけの仕事は必ず授かる

 私の半生の経歴は、人のすでに知るとおりであって、多くは自分の不明から、いたずらに無用の波瀾を重ねて来たわけであるが、しかも、その間、ただわずかに誇り得るものがあるとすれば、それは、いかなる場合に処しても、絶対に自己本位には行動しなかったという一事である。

 子供の時から今まで、一貫して、どんなつまらない仕事をあてがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった。だから、世間に対し、人に対し、あるいは仕事に対しても、いまだかつて一度も不平を抱いたことがない。

 また、これと同様に、あるいは他人から見ては羨ましがられるような境遇にいる時でも、自分に重きを置くことをしなかったため、特別によろこぶ気も起らない。

 われわれが世に処して行くには、何かの職務につかなくてはならん。職務について、世に立つ以上は、その職務を本位とし、それに満足し、それに対して恥じざるようにつとめることが、人間処世の本領である。

 私も、今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、
『食うに困るから、どうか救けて下さい』
と人に頼みに行ったことは一度もない。

 いかなる場合でも、何か食うだけの仕事は必ず授かるものである。その授かった仕事は何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるから、衣食は足りるのだ。

 ところが、多くの人は、現在困っていながら
『こんな仕事では駄目だ』とか、
『あんな仕事が欲しい』
とか云っているから、いよいよ困るような破目に、落ちて行くのである。つまり自分を本位としているからの間違いである。

 何か仕事が無ければ、到底独立してゆくことの出来ないものは、仕事を本位とするより外に仕方がないではないか。

 そして、仕事を本位とする以上は、その仕事の性質がどんなであろうとも、ただ一心になって、それを大切に努むるばかりである。こうすれば、どこにも、不平の起るべき原因がない。

 よい地位にあがったからといって欣喜雀躍するはずもなければ、またその地位が下ったからといって、失望落胆することもない。己れを本位とすればこそ不平も起り失望も起るのだ。



高橋是清の言葉。立派だとは思うが、世の中の人はそう思わないから不平を言うのであって、それを前提として物事を考えるのであれば、この言葉は役に立たない。また人間なにも高橋さんの思うような目的で生きているわけでもない。

8.その他

なぜ日系企業でストが起きるのか

日本から派遣される偉いさんは、皇帝から派遣された地方長官みたいだな。王朝時代の中国もこれを回避するためにいろいろ知恵を絞った結果、最後に行き着いたのが、優れた人間を地方長官にしないと駄目だ、という当たり前のことだった。言葉を換えれば、どれほどマニュアルやシステムを改正してもほとんど役に立たず、結局は瞬間瞬間の判断を間違わない、いわゆる「優れた人」を使うしかないということだったのだ。

でもこれは中国のみならずどこにもあることだから、人類通有の問題なんだろう。私も達観した人々の見識に習って、「世の中そんなものだ」と言っておきたい。

9.SimSun-ExtB

これってOpenTypeだったんだ。長い間word使ってなかったから気づかなかった。ふ~ん。今し方、wordで「𧌒」と「𧑄」を表示したら思いのほか綺麗に表示されたのでびっくりした。昔は蚊を潰したみたいなミジンコのような形に見えたのに。でも一太郎で表示してやるとTrueTypeになってた。そんなに自由に切り替えできるのかね。若い頃もうすこしまじめに勉強しておけばよかった。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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