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劉敞『春秋意林』巻上(01-07)

春秋意林上

貴本。
元年,春,王正月。
隱不正而賢。
盟于蔑。
克段于鄢。
或不與使而不稱使,或與之使而不稱使。
會戎。

※以下本文

『春秋意林』上

〔隠公篇〕

(01)本を貴ぶこと。
(02)元年、春、王の正月。
(03)隠公は正しくはなかったが賢者であった。
(04)蔑に盟す。
(05)段に鄢に克つ。
(06)「使」(*1)を許さぬゆえに「使」を称さぬときもあれば、「使」を許すがゆえに「使」を称さぬこともある。
(07)戎に会す。


(*1)「使」とは、例えば隠公元年の「秋,七月,天王使宰咺來歸惠公仲子之賵」の「使」という文字(意味)を指す。条文の場所から考えて、天王使宰咺条を指すとも考えられるが、『春秋伝』に関係する発言は見あたらず、劉敞が具体的にどの経文を念頭に置いていたかは不明。『説例』には使來例があり、君主が再命大夫を派遣する場合は「使」を記すことが指摘されている。なお「使を許す」とは、「孔子が君主の「使」(=君主が臣下を派遣すること)を許した(=礼に合致した行為とみなした)」という意味である。


※〔 〕は私の補足。
※(0*)も私の補足。
※異体字は正字に改めた。
※底本は中華再造善本(遼寧省図書館蔵宋刻本)

劉敞の『春秋意林』はその『春秋権衡』と並んで宋代の春秋学界に巨大な足跡を残した名著である。学説史的に説明するなら、唐代中期の啖助や陸淳が興した学問を、宋代になって正統に継承し、かつ徹底的に研究したのが、この劉敞の春秋学研究であったといえる。既に劉敞の前には孫復がおり、『春秋尊王発微』を著して新説を提起し、世人の注目を集めていたが、孫復が得てして過激にわたり穏当を欠くのに対して、劉敞の春秋学は深い思考と広い知識に支えられたより専門的な学問であった。

しかし劉敞の『春秋意林』はとにかく読みにくいことで有名で、四庫官も「分かるようで分からない言葉を使っている」と評しているほどである。特に冒頭の数丁は乱雑を極め、「元年春王正月」のように経文だけを掲げたものや「隱不正而賢」のように断案しか載せないものが散見する。このため本書は長いあいだ未完の草稿と見なされてきたほどである。

劉敞が『春秋意林』をどう見ていたのかはよく分かっていない。晁公武はその『読書志』で「解経の旨」を論じたものとし、陳振孫は『書録解題』で「『春秋伝』の残余物」と評し、一般には陳振孫の意見を採用するものが多い。しかしどの説を採るにせよ、必ずしも本書の雑な性格を適切に説明したものとはいえない。劉敞じしんによる説明が残っていない以上、千年近く後の人間があれこれ穿鑿しても無意味ではあるが、いちおう私も一説を立てて見ることにしたい。

『春秋意林』は冒頭に欠落が多く、後半に行くほど論旨が完備している。しかしいかに劉敞ほどの大学者とはいえ、冒頭はずさんで中程から後半にかけて議論が緻密だというのは少し奇妙なことである。もちろん人間には、最も重要な部分こそ後に回すという人もおれば、後半の方に興味があったという可能性もあるが、劉敞が大学者であればあるほど、春秋学でもっとも重要な冒頭にこそ力が注がれるべきであり、『意林』も冒頭こそ欠落が少ないものと考えられる。しかし現実は逆で『意林』は冒頭ほど雑である。

この理由として一つ考えられるのは、『意林』と『春秋伝』の関係である。

まず『意林』は全体を通して三伝批判を念頭に置いておらず、むしろ経文の大義をつかもうと努力している。したがって『意林』は三伝批判を展開した『権衡』と対になるべき書物ではなく、『春秋伝』とセットで考えるべきものである。つぎに『意林』は『春秋伝』ほどに経解として完備した書き方をしておらず、どちらかというと『七経小伝』に見られる雑記的な書物である。むしろ『春秋伝』を書くための準備作業として経文の論旨や自己の見解をまとめたような書き方をしている。

劉敞がどのような順番で研究に着手したかは分からない。しかし完成原稿を作るに当たっては、まず『権衡』によって三伝の誤謬をえぐり出し、ついで経文の論旨や自己の見解を『意林』にまとめ、さらに『文権』や『説例』といった書物に経文解釈の原則を立て、それらを総合して『春秋伝』を作ったと考えられる。そしてひとたび原稿としてまとめたれた『春秋伝』を前に、当然ながら劉敞はさらなる研究にいそしみ、ときに『春秋伝』の改訂にも及んだであろう。

この場合、三伝の誤謬を専門にあつかった『権衡』はそれ自身完結した書物と見なし得るため、劉敞の研究が一段と進んでも、『権衡』内部の調整に終わるだろう。また、既に一文も残らぬ『文権』はともかく、『説例』は『春秋伝』の凡例を集めたものであるから、『春秋伝』が改訂されたならば、それに従って『説例』のみを改訂すれば済んだであろう。

しかし『意林』は『春秋伝』の改訂とともに大きい影響を受けたと考えられる。そもそも『意林』は経解の雑記的書物であり、『春秋伝』との関係が著しく強い書物であることは、晁公武、陳振孫のいずれの立場をとっても認められる。ならば改めて『意林』の一説を『春秋伝』に取り入れるようなことがあれば、該当する『意林』の条文は削除してもかまわぬものになるだろう。

もしこのように考えるのであれば、『意林』の冒頭に粗雑な部分が多いのも理解しやすい。劉敞はいちど『春秋伝』を書き上げた後、『意林』から再び価値ある部分を見つけては『春秋伝』に詰め込んでいったと考えられるからである。『意林』の粗雑な部分は隠公篇に多く、荘公篇以降はほどんどないことを考えると、あるいは劉敞の『春秋伝』改訂の作業は桓公篇前後で止まったものとも推測されるのである。

したがって『意林』とは、劉敞の『春秋伝』の雑記的書物であり、且つ解経の旨を論じたものであり、さらに結果的には『春秋伝』に入りきらなかった部分が残ったものとも見なし得る。──と、分かりもしないことを推測するのは意味もないので、妄言はこの程度にしておこう。

要するに、『春秋意林』は劉敞の雑記的書物で、それだけに議論は複雑で矛盾も多く、また表現も難解であるが、思い切った表現や気の利いた警句が多いことから、宋代の学者によく読まれ、新たな春秋学を切り開く上で大いに力があった。もちろん本書で述べられた見解は既に古色蒼然のものではあるが、さすがに時代の歯車に耐えた名著だけのことはあり、我々が『春秋』から何を読み取るか、どのように理解していくかを考える上において、いまなお新鮮な感動を与えてくれる。

『春秋意林』のどのあたりが感動的かは......まぁ自分で読んで考えてください。なんでも聞くところによると日本には漢文を読める人が多いらしいので、原文で読まれたらいいと思います。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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