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雑談

書くべきか迷ったが、直接こっちに文句を言われたわけでもないので、そうまじめに応ずる必要もないだろう。

少しだけ書いておくと、編集委員ていどの人間が学者をやるのならまだいいのではないか。そして動機は同じでも技術の質が優れているのなら他と区別される意味はあるが、動機も変わらず技術も同じでは、もう存在する価値もないだろう。

それに専門家と一般人の区別を公的機関がする必要はない。昔の学者よろしく私塾でも開けばいい。腕があって必要とされているなら、月謝で生きていけるだろう。腕がなくて人気がなくてもやりたいなら、他のことで稼いで学問すればいい。誰も相手にしないだけで、それじたいは罪ではない。むろんこれは歴史とか思想の分野のことだけども。

もう少しまじめに書いておくと、価値があるからといってすべてのものを保護できるわけではない。なにかをあきらめざるを得ない場合、まず価値の低いものから切っていかなければならない。あるいは組織の一部が腐り出したならば、その部分は切り落とさなければならない。さもなくば組織そのものが壊れるからだ。大学がその存在を維持するためだけの存在に成り下がっているなら、思い切って優先度の低いものは切り捨て、規模を縮小して質を上げる方がいい。では価値の優先度は何ではかるか。まあ簡単に言って、人間活きていくのに必要かどうかだろう。命が確保されたら正義だろうし、正義が確保されたら文化じゃないか。命も危ないときに高尚な文化などいらん。

もっとも私に権力を握れる能力や器があるでなし、ここでどう騒ごうと私自身が失笑を買うだけのことで、世のなか全体から見れば全くどうでもいいことだろう。それに憎悪というのは何も正面の理屈から生まれるものではない。むしろ別の人間的な感情が理屈をこねているというのが実情だろう。誰でも知っているように。だから李振が朱全忠に進言したとき、私もその側近として働いておれば、諸手を挙げて賛同しただろう。それだけの話なのだ。

以上。

ちなみに私は人の批判ばかりしているが、別段賞賛するのが嫌いなわけではない。私が人を賞賛する基準は簡単だ。ある基準に達しているか否かだ。

例えば、私が学者として尊敬する劉敞に匹敵する学力の持ち主であれば、好悪の如何に関わらず、当然ながら賞賛するだろう。あるいは朱熹や鄭玄と対等の人間であっても賞賛するだろう。秦山先生のような篤実な人格者であれば賞賛するだろう。まぁ現実問題としてはそこまでのことは期待しないが、要するに私の求めるレベルを超えた人間であれば賞賛するに何のためらう必要もない。その逆に、私よりも優れているとか、今の人々の中では優れているというようなものは、全く賞賛する気にはならない。


ここからは全く関係ない話。

つまらないことを思い出した。どこかのだれかが発展途上国には歴史学が発展しておらず遺憾だというようなことを書いていたが(書籍のなかで)、そんなものは当たり前だ。歴史学があっても空腹は満たされない。人間が生きていくことすら難しいところに、生きていけるのが当たり前のところで+αとして存在するものを求めてどうするのだ。こういう薄っぺらい至上主義は見ていて非常にいらだたしい。存在価値があるというのと、他のものを排斥してまでも存在しなければならないこととは違う。もっと分を弁えるべきだ。

漢語大詞典3.0版(CD-ROM)が書虫で入手困難になっていた。あれって半永久的に手に入るものじゃなかったんだね。それとも4.0でも登場するのだろうか。USBになったら嫌だな。

USBはともかく、中国はたまに書籍を出さずにデータで校点本を発売するが、これはいいやり方だ。紙の書籍はたしかに便利だ。しかしスペースを取るし、供給量も限られてくる。在庫も邪魔になる。それに比べてデータだとかさばることもないだろうから、やはりその方がいいだろう。あとは使う方が慣れたらそれでいいだけで、これも時間が解決してくれるだろう。研究を始めたとき既にデータが主流であれば、それをうまく使いこなす術など勝手に身につくだろうし、そうすれば紙の本を使う方がおっくうになるだろう。

データの場合、特殊な漢字をどうするかという問題がないではない。しかし入力できない漢字は検索場所に文字を記入できないので、結果的に検索できないわけだから、画像でもなんでも識字可能な形で表示されていればいい。

迷惑だろうからあえて場所は示さないけど、古典の翻訳を大量に載せているサイトがある。その人の信条は私とは相容れないものなので、おそらく生活では対立が多いだろうが、その熱意には脱帽するものがあった。が、あまり人のことをどうこう言える立場ではないが、なにが嬉しくてそういうことをしているのか、やはり分からなかった。人には各々思うところがあるのだろう。

私も高畠さんの著作を少しばかりデータ化しているが、これについてごくまれに意見をいただくことがある。なぜそんなことをするのか、というのだ。恐らくその人は私の心性と相異なる人なのだろう。私がああいうことをする理由は、サイトの説明に書いているように、おもしろいからだ。ただそれだけだ。

私は高畠素之の主張に賛同しているわけでもないし、いまさら国家社会主義などどうでもいい。だがその言い回し、もっと端的に言えば人の罵倒の仕方がおもしろいから、そこが好きになっていろいろ調べただけだ。もう少し高尚に言ったとしても、せいぜい高畠さんのもののとらえ方がおもしろいから、そこに興味を持ったというに過ぎない。

ところが世の中にはそういう心性を理解できない人がいるらしく、なにか別の隠された理由があって、世のため人のため、あるいは主義主張の実践や普及のためにしていると思う場合もあるらしい。が、悪いけれども、思想家の著作だからといってその人の思想の断案に共感しているとは限らない。かつて高畠さんはマルクスを賞賛してこんなことをいった。

彼れの偉大さは試問(フラーゲシュテルング)の急所にあるのだ。必ずしも、問題の解決案そのものにあるのではない。彼の提出した学説的命題は、時間の歯にかかって摩滅することもあるだらう。けれども、彼れの捉へた問題の急所は、永遠に摩滅することがないと信ずるのだ。


私が高畠さんに感じているのも、おおげさにいえばそんなところで、したがって高畠素之が結果として提起した思想や主義に共感していると思うのは筋違いも甚だしい。

高畠さんは不思議な人だ。おそらく他の国の人ならちょっと喧嘩っぱやい程度の人ですんだだろう。ところが日本人だったので曲がったんだろうな。彼は単に自分の所属国家を激賞してその国益を拡大しようとしただけなのだが、変な思想にかぶれた進歩的文化人から非難されて、思想が曲がったと見える。まあ曲がったから魅力があるのかもしれないが。

いずれにせよ、人がどこに熱意をもつかは測りがたいものがある。それぞれの努力に委せるしかあるまい。

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こんばんは。

記事と関係なくて申し訳ないですが、一応報告を。

今月号のラブリーに載ってましたが、辻灯子先生の「虹色占い師」が11月に単行本化するらしいですよ 最近たまに載ってたのは単行本化への帳尻合わせだったんですかね

Re: タイトルなし

英田さん

わざわざ教えてくださってありがとうございます。
そうですか単行本のための蔵出しだったんですね。

Amazonでも予約を受けつけていました。
断片的にしか読んでいないので単行本が楽しみです。

今まで何度かアンケート葉書に「単行本出してくれ」と書きましたけど、これでもう書く必要はなくなりましたね。
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