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探索はつづくどこまでも?

あいも変わらず「徽宗末年、陰約閹寺之姦、稍誅數人以殺其勢」におわれる。


恐らく...という資料にあたった。

しかもむかし読んだことあった。本に書き込みしてた。というか有名な記事だった。記憶力ないなあ~。まあ念のためと思ってページを捲ってよかった。やはりこの時期だとこれだよね。

本朝宦者之盛、盛莫盛於宣和間。……宣和之初曁中間、宦人有至太師・少保・節度使・正使・承宣・觀察者比比焉。朝廷貴臣、亦皆由其門、遂不復有廟堂。士大夫始盡向之、朝班禁近、咸更相指目、「此立里客也」、「此木脚客也」、反以為榮、而爭趨羨之、能自飭勵者無幾矣。魯公則居家悔歎、毎至啜泣。而上亦覺其難制、始殺馮浩、又殺王堯臣、若楊十承宣、小李使皆死不明、連剗數人。然勢已成、未睹其益。而羣閹既懼、思脱禍無術、則愈事燕游、用蠱上心、冀免夫朝夕。識者深憂、且疑有蕭墻之變、漢唐之事、了在目前。俄禍自外來、大敵適破、都人憤洩、至殺之啗之、骨血無餘矣。(蔡絛『鐵圍山叢談』卷六)


さすが蔡京の息子、身贔屓も甚だしい。ま、評価はまったくの出鱈目だろうけど、理由の如何に関わらず、宦官が殺されたという事件はあったのだろう。もちろんこの記事そのものが捏造という可能性もないではないが、歴史の調査ではこういうとき疑わなくてもいいことになっているので通例に従っておく。

上の中、馮浩の記事は見つかった。王堯臣はよく分からん。というか、王堯臣っていったら仁宗朝の参知政事が有名だと思うんだけどな(劉敞の親戚です)。楊十承宣とか小李使とかはありふれすぎていて分からん。承宣使は低い身分ではないけど当時たくさんいたらしいし、李に至っては宦官にどれだけ李さんがいたことか。

馮浩のこと。

蔡京の息子はぼろくそ書いてるし、他にも林霊素の件で悪いことしたみたいだけど、一方的な記事は宜しくないので別のを挙げてみる。

『中興姓氏姦邪録』曰:蔡京自政和二年後、召拜太師、令三省事、陰為壊國之計、天下大權一歸于己、日請上游宴、以酒色困之。宣和初、内侍馮浩力言:「京必亂天下、宜速誅之。」京怒譖于上、編管浩循州、至蔡州、使人殺之。自後言路絶矣。有識之士、比之王莽。(『三朝北盟會編』卷四十九)


おう!蔡京、ワルモノだぜ。

ちなみに『鐵圍山叢談』の存在を知ってから文中の文句をつかって『長編拾補』を検索してみたら宣和二年に引用されていた。ガックリ。

宦官粛清の時期はハッキリしないけど、蔡京息子の書き方からすると、宣和の最末期とみていいだろう。とすると、あんがい下に書いた『宋史』本紀の宣和七年六月戊申条「詔臣僚輒與内侍來往者論罪」と附合しているのかもしれない。もしこれが正しければ六月のことだからねぇ、半年後には事実上の北宋政権壊滅というステキなめぐり合わせになる。


※以下、数時間前の記事。


方臘起以誅勔為名、諸郡響應。童貫出師、承上旨、盡罷去華石進奉綱、徽宗亦黜勔父子弟姪之在職者、民大悦。

寇平、勔仍得志。怙權恃勢、父子各立門戸、聲焰熏灼、賄賂紛紜成市、邪人穢夫、爭候門下、肆狎昵、因以求劇職要官、躐進至侍從者袂相屬也。有不附已、即旋踵罷去。時謂東南為小朝廷。

徽宗末年、陰約閹寺之姦、稍誅數人、以殺其勢。勔因得入其訾、力排梁師成、寖為徽宗所親倚、出入禁闥、進見不避嬪御。

伐燕之役、謂勔有功、自慶遠軍承宣使、進寧遠軍節度使・醴泉觀使。

前後槃結固寵二十年、鬻恩毀法、昔所未有。……天下為之扼腕。

欽宗即位、削其官、放歸田里、既而羈管循州、籍其家、尋賜死。子孫徙湖南。



という流れからすると、方臘の乱があり、いったん失脚したのち何故か復活し、権力を恣にし、徽宗の末年に粛清があって梁師成を追い落とし、禁中に出入りし、北伐で功績をかすめ取り、二十年ほど寵愛を一身にあつめ、天下の羨望の的となり、欽宗が即位していきなり処刑されたことになる。

王黼の伝記もあまりいい編集とは思えなかったが、朱勔伝はもっともいいかげんで、記事が雑然と並べられている。士大夫ではないから、まとまった伝記資料がなく、各人の雑記から寄せ集めてなんとなく時系列にそって事件を並べたのだろう。

徽宗の末年とは何時か。『東都事略』の記載によれば、方臘の乱と北伐のあいだのことらしいけど、方臘の乱が宣和二年の十月、その平定が翌年の四月、北伐の開始が翌年の三月、金から燕州をもらうのが宣和五年の五月。ということは宣和二年から五年になるが、これを末年といっていいかどうか。

それに徽宗在位二十五年のなか寵愛二十年というのもいかにも大げさで、長編紀事本末引く蔡絛『史補』には:

始命伯氏,俾朱勔密取江浙花石。其初得小黄楊木三株,以黄帕覆之而進,上大喜異然。其後歳不過一二貢,貢不過五七物。大觀末,朱勔始歸隸童貫,而所進已盈舟而載,伯氏亦自命使臣,采以獻焉,倶未甚也。政和初,魯公被召,上戲伯氏須土宜進,遂得橄欖一小株,雜諸草木進之,當時以為珍。


とあり、朱勔が童貫のもとに身を寄せたのが大観の末とする。仮に大観の次の政和から突如として徽宗の寵愛を得たとしても、政和七年+重和1年+宣和七年=通計15年で、二十年に満たない。もちろん蔡京が権力を握ったころを基準に考えれば二十年くらいになるけど、それを「槃結固寵」というのは、ちと大げさではあるまいか。

伝記の排列はとりあえず無視して、徽宗の末年と梁師成のことを目印に見当をつけてみる。徽宗の末年というえば、大きく宣和年間か、あるいはより厳密には宣和五年~七年くらいではないかと想像される。

一方、梁師成がいつごろから権力を持ち出したかは分かりにくいが、それなりの地位に就きだしたのが宣和二年の大尉就任で、次に応奉司の副官になったのが宣和三年、以下、徐々に地位を上げている。もっとも童貫の致仕が宣和五年の七月だから、朱勔が梁師成だけを批判の的にしたというのであれば、だいたい宣和五年の後半からではないかと推測される。

もっとも『宋史』の梁師成の伝記を見る限り、朱勔の批判など一言も触れられていないので、ここの朱勔伝の紀事などもともといい加減なものだと分かる。

つぎに肝心の粛清の内容。

分からん。漠然としていて探しにくい。伝家の宝刀『長編』様が欠けているので、しかたなく『宋史』本紀を調べると、下(追記)のとおり。

かろうじて関係ありそうなのは宣和七年六月戊申の「詔臣僚輒與内侍來往者論罪」だけど、これがどういう内容のもので、なぜ詔が下ったのか詳しく書かれていない。同じ記事が資治通鑑後編にも出てくるけど、新しい情報はない。


※以下王黼とか朱勔とかに関係ありそうな『宋史』本紀の紀事:

宣和元年
正月
戊申朔
丁巳:金人使李善慶來,遣趙有開報聘,至登州而還。
戊午:王黼為特進、少宰兼中書侍郎。
二月
庚辰:改元。
九月
甲辰朔
丁卯:以淮康軍節度使蔡攸為開府儀同三司。

宣和二年
五月
丁巳:布衣朱夢説上書論宦寺權太重,編管池州。
六月
戊寅:蔡京致仕,仍朝朔望。
七月
己未:罷醫、算學。
九月
癸亥:宴童貫第。
十月
戊辰朔:以河東節度使梁師成為太尉。建軍青溪妖賊方臘反,命譚稹討之。
十一月
庚戌:以王黼為少保、太宰兼門下侍郎
己未:兩浙都監蔡遵、顔坦撃方臘,死之。
十二月
丁亥:改譚稹為兩浙制置使,以童貫為江、淮、荊、浙宣撫使,討方臘
庚寅:詔訪兩浙民疾苦。

宣和三年
正月
辛酉:罷蘇、杭州造作局及御前綱運
乙丑:罷木石彩色等場務。
二月
乙酉:罷天下三舍及宗學、辟雍、諸路提舉學事官。
四月
庚寅:忠州防禦使辛興宗擒方臘于青溪
五月
丙午:金人再遣曷魯等來。
癸亥:陳過庭、張汝霖以乞罷御前使喚及歲進花果,為王黼所劾,並竄貶。
閏月
甲戌:復應奉司,命王黼及内侍梁師成領之
七月
戊子:童貫等俘方臘以獻。
八月
乙巳:以童貫為太師,譚稹加節度。
丙辰:方臘伏誅。
九月
丙寅:以王黼為少傅。
十月
甲寅:童貫復領陝西、兩河宣撫。

宣和四年
正月
丁卯:以蔡攸為少保,梁師成為開府儀同三司。
癸酉:金人破遼中京,遼主北走。
三月
丙子:遼人立燕王淳為帝。金人來約夾攻,命童貫為河北、河東路宣撫使,屯兵于邊以應之,且招諭幽燕。
五月
壬戌:以高俅為開府儀同三司。
乙亥:以蔡攸為河北、河東宣撫副使。
庚辰:童貫至雄州,令都統制种師道等分道進兵
丙戌:楊可世與遼將蕭幹戰于白溝,敗績。
六月
己丑:种師道退保雄州,遼人追撃至城下。帝聞兵敗懼甚,遂詔班師
壬寅:以王黼為少師。
是月:遼燕王淳死,蕭幹等立其妻蕭氏。
七月
壬午:王黼以耶律淳死,復命童貫、蔡攸治兵,以河陽三城節度使劉延慶為都統制
九月
己未:金人遣徒孤且烏歇等來議師期。
己卯:遼將郭藥師等以涿、易二州來降。
十月
庚寅:改燕京為燕山府,涿、易八州並賜名。
己亥:耶律淳妻蕭氏上表稱臣納款。
己酉:郭藥師與高世宣、楊可世等襲燕,蕭幹以兵入援,戰于城中,藥師等屢敗,皆棄馬縋城而出,死傷過半。
癸丑:以蔡攸為少傅、判燕山府。
十一月
丙辰朔
戊寅:金人遣李靖等來許山前六州。
十二月
辛卯:金人入燕,蕭氏出奔。
壬辰:使來獻捷。

宣和五年
正月
戊午:金人遣李靖來議所許六州代租錢。
二月
乙酉朔
丙戌:金人以議未合,斷橋梁,焚次舍。
三月
乙卯:金人再遣寧朮割等來。
己未:遣盧益報聘,皆如其約。
四月
癸巳:金人遣楊璞以誓書及燕京、涿易檀順景薊州來歸。
庚子:童貫、蔡攸入燕
乙巳:童貫表奏撫定燕城。
庚戌:班師。
五月
己未:以收復燕雲,賜王黼玉帶。
庚申:以王黼為太傅。
辛酉:王黼總治三省事
癸亥:童貫落節鉞,進封徐、豫國公。蔡攸為少師。
六月
辛亥:以蔡攸領樞密院。
七月
戊午:以梁師成為少保。
己未:童貫致仕。
十一月
丙寅:幸王黼第觀芝。
壬申:王黼子弟親屬推恩有差。

宣和六年
八月
乙卯:童貫落致仕,領樞密院代之。
壬戌:以復燕雲赦天下。
九月
乙亥:蔡攸落節鉞。
十一月
丙子:王黼致仕
乙酉:罷應奉司
十二月
甲辰朔:蔡京領講議司。
癸亥:蔡京落致仕,領三省事。

宣和七年
正月
癸酉朔
四月
庚申:蔡京復致仕。
六月
辛丑朔
丙午:封童貫為廣陽郡王。
戊申:詔臣僚輒與内侍來往者論罪
己未:以蔡攸為太保。
九月
壬辰:金人以擒遼主遣李孝和等來告慶。
是月:河東言粘罕至雲中,詔童貫復宣撫。
十二月
乙巳:童貫自太原遁歸京師。
己酉:中山奏金人斡離不、粘罕分兩道入攻。郭藥師以燕山叛,北邊諸郡皆陷。又陷忻、代等州,圍太原府。
丙辰:罷浙江諸路花石綱、延福宮、西城租課及内外製造局。金兵犯中山府,度禦之。
戊午:皇太子桓為開封牧。
己未:下詔罪己。罷道官,罷大晟府、行幸局。
庚申:詔内禪,皇太子即皇帝位。

欽宗
辛酉:即皇帝位。
甲子:斡離不陷信府,粘罕圍太原。太學生陳東等上書,數蔡京、童貫、王黼、梁師成、李彦、朱勔罪,謂之六賊,請誅
丙寅:上道君皇帝尊號曰教主道君太上皇帝。詔改元。

靖康元年
正月
丁卯朔:
貶太傅致仕王黼為崇信軍節度副使,安置永州
賜翊衛大夫、安軍承宣使李彦死,並籍其家
放寧遠軍節度使朱勔歸田里
庚午:道君皇帝如亳州。
壬申:金人渡河。
癸酉:金人犯京師。
乙亥:金人攻通津、景陽等門。……李梲與蕭三寶奴、耶律忠、王汭來索金帛數千萬,且求割太原、中山、河間三鎮,并宰相親王為質,乃退師。
丙子:括借金銀,籍倡優家財。
庚辰:命張邦昌副康王構使金軍,詔稱金國加「大」字。
辛巳:道君皇帝幸鎮江
丁亥:靜難軍節度使、河北河東路制置使种師道督原、秦鳳兵入援,以師道同知樞密院事,為京畿、河北、河東宣撫使,統四方勤王兵及前後軍。
庚寅:盜殺王黼于雍丘
乙未:貶少保、淮南節度使梁師成為彰化軍節度副使,行及八角鎮,賜死
二月
丁酉朔:命都統制姚平仲將兵夜襲金人軍,不克而奔。
戊戌:罷李綱以謝金人,廢親征行營司。金人復來議和。
辛丑:太學諸生陳東等及都民數萬人伏闕上書,請復用李綱及种師道。……乃復綱右丞,充京城防禦使。
乙巳:宇文虛中、王球復使金軍。金人遣韓光裔來告辭,遂退師,京師解嚴。
甲寅:貶太師致仕蔡京為祕書監、分司南京,太師、廣陽郡王童貫為左衛上將軍,太保、領樞密院事蔡攸為太中大夫、提舉亳州明道宮。
三月
丁卯朔:遣徽猷閣待制宋煥奉表道君皇帝行宮。
癸酉:命趙野為道君皇帝行宮奉迎使。
癸未:遣李綱迎道君皇帝于南京。
乙酉:迎道君皇帝于宜春苑,太后入居寧宮。
甲午:籍朱勔家
丙申:貶蔡京為崇信軍節度副使。
四月
己亥:迎太上皇帝入都門。
乙巳:置春秋博士。
癸丑
貶童貫為昭化軍節度副使,安置郴州。令吏部稽考庶官,凡由楊戩、李彥之公田,王黼、朱勔之應奉,童貫西北之師,孟昌齡河防之役,夔蜀、湖南之開疆,關陝、河東之改幣,及近習所引,獻頌可采,特赴殿試之流,所得爵賞,悉奪之。
乙丑:貶蔡攸節度副使,安置朱勔于循州
五月
丙寅朔
己卯:開府儀同三司高俅卒。
辛巳:追削高俅官
六月
丙申朔:以道君皇帝還朝,御紫宸殿,受群臣朝賀。
戊戌:時太原圍急,群臣欲割三鎮地,李綱沮之,乃以李綱代种師道為宣撫使援太原。
七月
乙丑朔
乙亥:安置蔡京于儋州;攸,雷州;童貫,吉陽軍。
乙酉:詔:蔡京子孫二十三人已分竄遠地,遇赦不許量移。是日,京死于潭州。
辛卯:遣監察御史張澂誅童貫,廣西轉運副使李昇之誅趙良嗣,並竄其子孫于海南。
八月
甲午朔
丙申:復命种師道以宣撫使巡邊,召李綱還。
己酉:金人乘勝攻太原。
九月
丙寅:金人陷太原。
辛未:移蔡攸于萬安軍,尋與弟翛及朱勔皆賜死
戊寅:李綱罷知揚州。
壬午:梟童貫首于都市。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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