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孔子の資料(1)

ブログの存在を完全に忘れていた……
人間,忙しいとダメですね。いろいろ大事なものを忘れていきます。大事じゃないものも。それはともかく,ちと思い出したので。

(訂正:2009/04/30)

儒学関係の有名な人といえば,どうしても孔子があがる。そこで孔子の著作はというと,『論語』が登場する。どこのランキングだったか忘れたが,金谷治氏の飜訳になる『論語』がかなりの上位にランクされていたから,今でも需要はあるのだろう。

しかし正確には『論語』を孔子の著作ということはできない。『論語』は孔子とその弟子の言葉を集めたもので,「著作」ではないからである。

伝承によると,孔子の著作は『春秋』と『周易』の十翼のみで,編纂物として『書』と『詩』が存在し,手を加えたものに礼と楽があった。ただし礼と楽は動作や楽譜なので,普通予想されるような「本」ではない。要するに,高校の授業に出て来る(私の時代は出てきた)五経もしくは六経が,孔子の著作もしくはそれに準ずるものである。

日本では江戸時代以降に四書が流行し,かえって五経(六経)が隅に追いやられたが,本場中国では五経(六経)が最高権威にあり続けた。もちろん四書も読まれはしたし,就中『論語』は大昔からよく読まれたが,やはり経書というと五経(六経)があがり,あらゆるものの頂点に立っている。

ではなぜ日本で四書が流行したのだろうか。このような漠然とした理由は証明が難しいが,一説には五経(六経)は古い文章が多く読み難く,また読んでも現代人と感覚が違いすぎて面白くない,というのがある。裏側から説明すると,五経(六経)の面白さを理解するにはかなり時間がかかり,自分が面白いと思える時期が来ると,既に他人と距離が生まれており,他人から理解されない,ということにもなるだろう。そこで短い文章で孔子や弟子達の言葉がつまった『論語』などが好まれる。もう一つの原因に,四書に朱熹が注釈を加えたおかげで,江戸時代の日本人の目には,古めかしい四書が「モダン」に見えたというのもあるが,これはややこしいので省略する。

(1)『論語』の翻訳本

『論語』にはむかしから多くの翻訳本がある。そのどれも相応の評価がなされているし,なにぶん種類が多いので,ここでその全てを挙げることはできない。以下,比較的利用している人の多いものを挙げておく。なお『論語』はよく再版されるので年月日は記さない。
  • 金谷治『論語』(岩波文庫)
  • 吉川幸次郎『論語』(朝日)
  • 加地信行『論語』(講談社学術文庫)
  • 武内義雄『論語』(岩波文庫。旧版)
  • 宇野哲人『論語』(講談社学術文庫)
  • 木村英一『論語』(講談社)
  • 貝塚茂樹『論語』(中央公論。出版社が潰れたので今は知らない)
  • 宮崎市定『論語』(岩波現代文庫)

一番よく見かけるのは,金谷氏の『論語』だけども,通向き(?)には吉川幸次郎氏の『論語』もよく読まれるようである。最近では加地信行氏の『論語』もファンが多いらしい。珍しいところでは,宮崎市定氏の『論語』もある。それ以外にも各々愛好家はいるが,だいたいこの三つくらいが著名ではないかと思う。

なお『論語』を含む四書を読む際は,各翻訳者の解釈基準を知っておく必要がある。『論語』の解釈は大きく3つに分かれる。第1は古注系統のもの,第2は新注系統のもの,第3は独自解釈のものである。

第1の古注系統とは,『論語』の総合的注釈では最古のものである孔安国の注釈を基調としたものである。第2の新注系統とは,南宋の学者・朱熹の注釈を基調としたものである。第3は現代の研究成果を利用して,孔子の時代の文化・制度を視野に収め,そこに翻訳者の見識を加えたものである。一見すると第3のものが一番立派なように見えるが,なにぶん孔子の時代のことは不明な点が多く,結局は翻訳者の思い込みに陥らないとも限らない。その点,第1は孔子以来の伝統を汲んで『論語』を解釈したものであり,伝統という意味では信頼がおける。第2は江戸時代以降の日本人に最も読まれた『論語』なので,日本人には安定感があるかも知れない。どの系統の『論語』を読んでも害はないが,『論語』の翻訳にはこの3つの系列があり,系列間で解釈に相違が生まれることは予め知っておいた方が便利である。

ちなみに上の翻訳書は,第1と第2の折衷,もしくは第3の系列が多い。ただ傾向的に,金谷氏のものは第1の系列で,宇野氏のは第2の系列である。その他,宮崎氏は東洋史の学者のためか,従来とは異なる解釈が多い。武内氏のは解釈の独自性よりも,文献批判の斬新さに定評がある(妥当か否かは別として)。木村氏のは弟子の解説に力が注がれている。貝塚氏のは氏の解説が面白い。

まあ各々の翻訳には各々の特徴があり,読者の好みによってその特徴が好きにもなれば嫌いにもなる。しかしどれも研究を積んだ学者が翻訳したものだから,単純に善いか悪いかという意味では,どの翻訳も立派だと思う。どれを読んでいいか分からない場合は,とりあえず本の太さと値段を考えて選べばいい。

(2)『論語』以外の孔子格言集

『論語』はもう読んだ,もしくは『論語』はメジャーだから敢えて別のものを読みたい,という人が次に目を向けやすいのが,『論語』以外の孔子の格言集ではないかと思う。その場合,市場の問題から,次に目を向けるのは『孔子家語』だろう。以後,『孔叢子』や『孔子集語』と続く(かもしれない)。

まず『孔子家語(こうしけご/くしけご)』だが,実は本書には少し面倒な問題がある。たしかに『孔子家語』は孔子の格言集である。その点は『論語』と同じである。また『漢書』芸文志という古い漢代の宮廷図書目録にもこの書物の名があるので,『孔子家語』がそれ相当の来歴ある本であることは疑いない。恐らく孔子とその弟子の言葉を集めたものだったはずである。しかし現存する『孔子家語』は,この来歴ある本ではない。

『孔子家語』は『論語』と異なり,後漢末には世間に流通していなかったようである。この後漢末から三国時代,鄭玄という学者が名声を擅ままにしていた。鄭玄は博学な人間で,知らない本はなかったらしい。しかしその鄭玄をもってして,なお『孔子家語』は読んだことがなかったと言われている。

ところが,魏晉のころ(三国志の時代),この鄭玄の学問(鄭学)にライバル心を燃やす男がいた。王肅という人で,この人もたいそう博学だったらしいのだが,どうも鄭玄への対抗意識が強すぎたらしい。王肅は一計を案じて,鄭学の徒をやりこめようとした。――「もし鄭玄すら知り得なかった孔子の資料があり,それを自分が利用したどうだろう。きっと鄭玄の学説をたたきつぶせるはずだ」と。相手の知らない知識を利用するというのは,常に論戦に勝ちを収める方法だからである。そしてこの論戦のために王肅が持ち出した資料が,『孔子家語』である。

王肅の言い分では,孔子の子孫から来歴ある『孔子家語』を借りて読んだところ,鄭玄の誤りを発見した。だから『孔子家語』でもって鄭玄の学説を訂正したい,と。鄭玄はかくかく言っているが,『孔子家語』にはこう書いてある。『孔子家語』は孔子の御言葉である。随って正しいはずである。随って鄭玄は間違っている。云々。という具合に王肅は『孔子家語』を用いたのである。

しかしこの仕方はたちまち鄭学の徒から批判を受けた。長い間存在すら確認されなかった本を,なぜ王肅だけが知っていたのだ。しかもあの鄭玄すら見ていなかったものではないか。きっと『孔子家語』は王肅が改竄したものだ,と批判されたのである。こうして鄭玄を信じる学者と,王肅を信じる学者とに別れて,長い間対立した。

対立の歴史は省略するが,結果的に,これ以後に伝わった『孔子家語』は,王肅の発見した『孔子家語』である。そして論争はあったが,孔子の言葉が多く収録されているというので,代々それなりに読まれはした。特に宋代(趙宋)までは『論語』とならんでよく読まれた。明朝に至り,あらゆる学問が衰退するまでは。

清朝には考証学(文献学の一種)と呼ばれるものが流行した。この方法を用いて,清代の学者が『孔子家語』を分析したところ,次のような結論が得られた。

王肅の発見した『孔子家語』は,孔家伝来の本ではない。当時(後漢~魏晉)に存在した古典籍から,孔子の言葉を抜粋してきただけのものに過ぎない。しかも王肅が鄭玄を批判するために利用した部分(つまり鄭玄の学説に反する『孔子家語』の言葉)は,王肅が偽造した部分だ。つまり『孔子家語』は,古書に残された孔子の言葉を集めただけの資料集である。しかも王肅の偽造した部分(鄭玄の学説に反する部分)を含むため,利用には相当慎重になる必要がある。

鄭玄と王肅の論争はさておき,結局のところ『孔子家語』は来歴ある本なのか,それとも王肅が改竄したものなのか。これは現在でもよく分かっていない。一般的には上のような説明がされるが,資料のほとんど残っていない古い時代の話しである。結局は分からないのである。

ただ『孔子家語』が長い間珍重された本であり,また古書(現存しないものを含む)に残された孔子の言葉を集めたものであることにはかわりない。その意味で孔子の言葉を知りたいと思う人は,一読しても損はないだろう。

『孔子家語』の翻訳は多くない。現代語訳+全訳のものは,(1)宇野精一氏の『孔子家語』(明治書院)しかない。ただしこれは漢文の参考書用のため,レイアウト的に読み難い。また訳文もそれほどこなれていない。(2)藤原正氏の『孔子家語』が岩波文庫から出版されている。これはいわゆる「書き下し文」のみで,注もほとんどない。しかし『孔子家語』の全文を収録しており,しかも小冊子なので,持ち運びには便利である。値段も高くない。ただ本文には古い文句の多いから,現代の人間には利用しにくい点も多々ある。(3)冨山房の『漢文大系』の1つに『孔子家語』があり,これは明の何孟春本をテキストに,他書で増訂したものである。既に宋代の完本が発見された以上,出版の歴史を調べる以外で利用する意味は見いだせない。またこの本は訓点付き漢文なので,普通の日本人には恐らく利用できないだろう。

翻訳の数すら少ないというのが,『孔子家語』と『論語』の決定的な差を示していると言えるだろう。その他,明徳出版社の中国古典新書シリーズと明治書院の類似のシリーズから抄訳が出ているが,あえて推薦する気にはなれない。

次に『孔叢子(くぞうし/こうそうし)』。『孔叢子』はタイトルから推すと,孔氏家の家伝のように見えないでもないが,早くから軽蔑された贋作である。現在の『孔叢子』は,中に『小爾雅』と呼ばれる,全く関係ない部分が存在する。『小爾雅』は古い字典のようなものなので,これ単独の研究もされているが,『孔叢子』そのものは相変わらず無視されている。

『孔叢子』には和刻本(訓点の付いた本)はあるが,翻訳はなかったと記憶する(専門雑誌に翻訳があったかも知れないが,自信はない)。ただし『小爾雅』に対しては,中国の本だが,『小爾雅集釈』や『小爾雅匯校集釈』などが出版されており,研究は盛んである。

最後に『孔子集語』について。これはずっと後の人が現存する古典籍から孔子の言葉を集めたものである。だから資料集としては便利である。しかし現存する古典から集めたということは,本書に引用された孔子の言葉は,現存する古典のどこかにあるわけである。ならば厳密に孔子の言葉を読もうと思うなら,本書の引用文を読むよりも,原典に当たって読む方がよいだろう。ならば本書には資料集としての価値しかないことになる。もちろん本書の翻訳はない。


孔子の格言集は『論語』『孔子家語』『『孔叢子』の3つが主流で,特に前2者が有名で有益である。また普通の日本の読者が読めるものと言えば,その2つを挙げるのが適切だと思われる。しかし格言はあくまでも格言である。自分の心にしっくりくるところを手軽に開いて読むことができる反面,その言葉の背後の事件や孔子の生涯などは分からない。孔子に深く引きつけられる読者が次に目を向けるのは,おそらく孔子とその弟子たちの生涯,はては孔子の時代だと思われる。

以下,次回。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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