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孔子の資料(3)

前回の続き(訂正:2009/04/30)

(4)孔子の弟子

孔門の徒三千という表現をよく見かける。孔子晩年に多くの人材が孔子の門人だったという伝説である。『論語』にも孔子と弟子との問答は多いので,弟子も『論語』の主人公の一人(?)といっても差し支えないだろう。だから自然と弟子にも興味が集まる。

孔子の弟子の研究は古くからなされているが,基本的なものは『史記』孔子弟子列伝(弟子はテイシと訓む)が不可欠である。これ以外にも『孔子家語』の七十二弟子解が有名だが,既に述べたように『孔子家語』はややこしい本なので,価値的には『史記』孔子弟子列伝の方が上にくる。

しかし『孔子集語』と同じように,『史記』孔子弟子列伝や『孔子家語』以外の古籍から,孔子の弟子の言行録をまとめる人々もいた。『聖門十六子書』(聖門は「孔子=聖人の門人」の意)などはその大部な書物の1つである。これらはもともと各種の古典から孔子の弟子に関係する部分を抜粋したものなので,『聖門十六子書』そのものの翻訳はない(ただし引用された古典は各々翻訳されているはずである)。

『聖門十六子書』まで大げさな本でなくても,孔子の弟子の中でも特に有名で,ある程度の資料が残っている人間については,単行本も存在する。『曾子』と『子思子』がそれである。両者とも岩波文庫から出版されており,古本でも比較的安価で手に入れられる。なお曾子は孔子最晩年の弟子であるが,子思子(子思のこと)は孔子の孫の孔伋のことで,孔子の弟子ではない(曾子の弟子)。

岩波文庫版『曾子』は,曾子にまつわる記事をほぼ網羅しており,なかなか便利な本である。ただし訳文はいわゆる「書き下し」で,現代語訳でない点が惜しまれる。『子思子』も原文+書き下しのスタイルであるが,中庸・表記他の子思作とされる『礼記』四篇と,輯佚文『子思子』二篇,最後に『孔叢子』から子思関係文章を収録したものである。碩学の手になるものだが,書き下しなので現代の読書人にはやや荷が重い。

(5)その他の資料集

たまに見かけるものに,藤原正氏の『孔子全書』(岩波書店)がある。これは原文と国訳(書き下しう)を合わせたもので,孔子に言及のある有名な文献をほぼ網羅しており,便利と言えば便利な本である。誰が買うのか知らないが,最近,岩波からまた復刻(?)されたようで,私も最近本屋で見かけた。ただし2万円近くするので,金銭的にかなり余裕がないと買えない。

最近のものでは,明徳出版社から吹野安・石本道明両氏の訳注として『孔子全書』が出版されている。2008年3月現在で11冊,内10冊は『論語』で11冊目から『史記』に入った模様である。これは前の藤原氏のとは異なり,原文の収録のみでなく,著名な『論語』の注釈も併せ収めているため,現代向きではある。とはいえ,まだ『論語』相当部分までしか刊行されていないので,それ以外のものを知ろうという向きには,まだ利用し兼ねるところもある。

中国にはこの種の資料集が豊富に出版されている。なかでも最も網羅的なのが,『孔子資料彙編』と『孔子弟子資料彙編』である。両者とも『孔子文化大全』(もしくは『儒学精華大系』)の1つとして,山東友誼書社(もしくは斉魯書社)から出版されている。これは南北朝以前の現存資料から孔子とその弟子に関係する文献を根こそぎ集めたものである。両書とも1万円くらいするが,資料集としては便利で,孔子とその弟子たちがどこで何を発言しているか一目瞭然である。やや変則的な使い方にはなるが,原文を読めない人は,本書を利用して引用原典を探り,その引用原典の翻訳に当たり直せば,孔子とその弟子たちの発言の翻訳を読むことができる。ただし両書とも出版年が古いので,紙質が悪く,レイアウトも善くない。だから閲読にはあまり向かないという欠点がある。

資料集だけを求めるなら,『孔子資料彙編』と『孔子弟子資料彙編』の2つがあれば,普通はこと足りるだろう。これ以上は専門家の領域なので,足を踏み入れないことをおすすめする。

(6)原典

これも多数存在するので,翻訳に名前の頻出しそうなものだけを挙げておく。

何晏『論語集解』
皇侃『論語義疏』
邢昺『論語注疏』
朱熹『論語集註』(同『精義』『或問』)
胡広等奉勅撰『論語大全』
劉宝楠『論語正義』

何晏(かあん)の『集解(しっかい)』は古注の最高権威である。その系列のものに皇侃(おうがん)の『義疏(ぎそ)』と邢昺(けいへい)の『注疏(ちゅうそ)』がある。いわゆる十三経注疏の1つに数えられるのは,邢昺の『注疏』である。『義疏』と『注疏』は,『集解』の解釈に沿って『論語』を再解釈したものである。

経文は古い文章なので,文字の意味や論旨が分かり難い。そこで何晏は先行する学説を用いて,やや老荘風味に『論語』を解釈した。ところが何晏から数百年経つと,何晏の解釈(『集解』)も古くなり,文字の意味や論旨が分かり難くなった。そこで学識ある人が,何晏の解釈を襲いつつ,当時の言葉で『論語』を再解釈し,さらに何晏の『集解』も解釈した。これが皇侃の『義疏』と邢昺の『注疏』である(この再解釈の学問を義疏学という)。

朱熹の『集註(しっちゅう)』は新注の最高権威である。同『精義』は朱熹が『集註』を作るとき参考にした解釈の集まりで,『或問』はその是非を論じたもの。胡広らの『大全』は,古注に於ける『注疏』に対応するものだが,その評判は極めて悪い。ただ朱熹以後の学説を広く網羅しているので,新注系統の注釈を読む場合には参考になる。

劉宝楠(りゅうほうなん)の『正義』は,清朝考証学の成果を集大成したもので,清代の論語解釈を網羅的に調べるには,とりあえずこの『正義』を見ることになっている。

翻訳にはこれ以外にも多くの学者の名前が登場するが,上記のどこかに引用された学説である場合が多い。ただしこれらはすべて原文(中国古文)で書かれたものだから,漢文が読めないことには理解できない。これらの厳密な翻訳は,朱熹の『集註』を除いて存在しない。またそのような試みは多分なされないだろう。研究者にとっては拷問に等しい作業なので。


追記。

ここまで書いて1つ書き忘れを思い出した。『論語』の成立事情を落としていた。日本では武内義雄氏の『論語之研究』以来,いろいろな立場が表明されているが,今後の出土文献の情況によっては学説も変化しそうなので,触れないことにする。20~50年くらいすれば,定論をみるのではないかと思う。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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