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春秋権衡・左氏学派への批判(01-03)

また杜預は「『春秋』は何を以て魯の隠公に始まるや。曰く、周の平王は東周の始王なればなり」というが、これも間違いである。魯の恵公の即位もまた周の平王のはじめに当たる。それならばなぜ恵公から始めなかったのか。また杜預は「魯の隠公は譲国の賢君なればなり」ともいうが、これも間違いである。(*6)

左氏の所説に従えば、隠公は身分が低く、桓公は高かった。そして桓公は身分の高きゆえに、国君となるべきであった。ところが隠公は桓公を国君に奉じてその国政を執ることができず、みずからその地位を奪ってしまった。これではたとえ「国君の地位を譲るつもりだ」と言い訳してみたところで、その心を知り得るものは誰もおるまい。これこそ桓公が疑惑に駆られて隠公を殺害した理由であり、そう考えるならば、桓公は国君を弑したとは言えないだろう(*7)。

また閔公は即位したときわずか二歳、哀公も即位したときわずか四歳だった(*8)。しかしその当時、公室の何者かがこの二人に代わって国を治めたとは伝えられていない。代わって国を治めるものがいなくとも、二人は君主であった。もし公室の何者かが二人に代わって国を治め〔、その後に国君の位を譲っ〕たならば、『春秋』は彼等をも譲国の賢君として許したのだろうか。

そもそも隠公の言い分は、「私が桓公に代わって国を治めねば、魯の存続は難しい」というものであった。しかし襄公に代わって国を治めたものはなかったのに、なにゆえに魯は亡びなかったのだろう。もし魯の存続が隠公と関わりないのであれば、隠公の摂政は、私には簒奪にしか見えず、とても譲国には見えない。ましてや「譲る」という言葉は、隠公に与えられるべきものではない。「譲る」という言葉は、自分の所有物を人に与えることを意味する。人の所有物を奪っておいて、それを人に与えることを意味しない。私のこの発言を理解できてこそ、ともに『春秋』を語ることができるというものだ。

あるいは「周公もまた摂だった」と弁解するものがいる。それに対しては、私はこう答えておこう。──「周公の摂政は、成王がそうさせたのである。もし隠公が周公ほどの人だというのなら、なるほど摂政であろう」と。




(*6)杜預の序にはこうある。──「曰く、然らば則ち『春秋』は何ぞ魯の隠公に始まるや。答えて曰く、周の平王は東周の始王なればなり。隠公は譲国の賢君なればなり。其の時を考うれば則ち相接し、其の位を言えば則ち列国、其の始まりを本(たず)ぬれば則ち周公の祚胤なり。若し平王をして能く天に永命を祈り、中興を紹開せしめ、隠公をして能く祖業を弘宣し、王室を光啓せしむれば、則ち西周の美も尋(あたた)むべく、文武の迹も隊(お)ちず。是の故に其の歴数に因り、其の行事を附し、周の旧を采り、以て王義を会成し、法を将来に垂る。」劉敞が問題とする「周の平王巴東周の始王」は、杜預によれば「其の時を考うれば則ち相接」するからである。しかしその「相接」とは、『正義』によれば、「隠公の初めは平王の末に当たれり。是れ相接するなり」とあり、平王の末年が隠公の即位の歳にあたるので、すなわち平王と隠公は間断なく続くゆえに、孔子は『春秋』を隠公から始めたと説く。ところが劉敞は杜預の言葉を「平王と隠公の時代は近いので、孔子は『春秋』を隠公から始めた」と解釈した如くである。したがって杜預の「相接」の解釈が『正義』の云う通りであれば、劉敞の批判は的外れとなる。なお劉敞が批判の遡上にあげた「譲国の賢君」については、『権衡』本条以下に詳述されるので、ここでは省略する。

(*7)桓公は兄であり君である隠公を弑した極悪人ではなく、国君の地位を簒奪した隠公を殺した正統な国君だった、という意味であろう。

(*8)以下、劉敞は閔公、哀公の即位の歳を記すが、必ずしも左伝および杜注に依拠しておらず、左伝学に対する批判としては不用意な態度と言わなければならない。参考のため十二公の生年を調べると、まず生年が経文に明記されるのは荘公のみで、桓公六年経の「九月丁卯、子同生」とあるのがそれである。桓公の治世は十七年まで続き、その翌年が荘公元年であるから、荘公は誕生から十二年後に即位したことになる。次に杜注に即位の歳を明記されるのは、閔公と襄公で、閔公は荘公三十二年伝立閔公の杜注に「閔公莊公庶子、於是年八歲」、閔公二年伝公不禁の杜注に「公即位年八歲」とある。また襄公は襄公元年経春王正月公即位の杜注に「於是公年四歲」とある。したがって左伝学派の立場としては、荘公の即位は十二歳、閔公は九歳乃至八歳、襄公は四歳になる。しかるに劉敞は閔公の即位を二歳とし、哀公を四歳とする。哀公の即位を四歳と判断した根拠は不明ながら、少なくとも閔公に関しては、左伝学派を批判するのであれば、九歳乃至八歳とするのが妥当であろう。ただし劉敞の当時に現在失われた左氏伝の注釈書(服虔など)が残っており、それを根拠とした可能性もないではないので、安易に劉敞の過誤とは言えない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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