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春秋権衡・左氏学派への批判(02)・隠公篇

隠公

『伝』には「恵公の元妃は孟子なり。孟子卒し、室に継ぐに声子を以てし、隠公を生む。〔……〕而して仲子を夫人と為し、桓公を生む」(*1)とある。もし『伝』の言うとおりであれば、隠公は年長者でかつ身分が低く、桓公は幼少でかつ身分が高いことは明白である。また「隠公は立ちて之を奉ず」と言うところから判断すれば、隠公が桓公のために「立った」ことも明白である。すなわち隠公元年の『伝』に言うところの「〔即位を書せざるは〕摂なればなり」(*2)というのがそれである。また同じく十一年の「羽父、桓公を殺さんことを請う。〔将に〕以て太宰を求めんとす。公、曰く、『其の少(わか)きが為〔の故〕なり。吾れ将に之を授けんとす」から判断すれば、隠公はもともと「立つ」べき人ではなかったので、「位を摂って」、桓公が国君としてふさわしい歳になるのを待っていたことは明白である。さらに元年の『伝』に「恵公の薨じたるとき〔……〕太子少(わか)し」と記される「太子」とは、桓公のことである。

さて、これに対して杜預は「〔隠公は〕継室の子、当に世を嗣ぐべし。禎祥の故を以て、父の志を追成し、桓を立てて太子と為す」(*3)と注している。これは間違いである。もし隠公がもともと君主となるべき人であったなら、『伝』は「即位を書せざるは、譲なればなり」と言わねばならず、「摂なればなり」とは言えなかったはずである。そもそも君主の位にありながら摂政を名のることはあり得ず、摂政でありながら国を譲ることもあり得ない(*4)。摂政と譲国という言葉の意味を知れば、隠公が君主となり得たのか否かは明らかである。もし隠公がもともと君主となるべき人であったなら、羽父は理由もなく桓公の殺害を要請したことになる。ならば羽父が桓公の暗殺を要請したことから類推して、隠公はもともと君主となるべき人ではなかったことが分かるというものだ。恐らく羽父は疑っていたのだろう。──隠公は長らく摂政に居座っている、隠公は君主の位を私したいのではないか、と。もし隠公がもともと君主となるべき人であったのなら、桓公に君主となる可能性がないことは羽父にも分かっていたはずだ。それを何故に殺害を要請することがあろう。そもそも桓公の母は夫人であり、隠公の母は妾である。妾と夫人とは地位が異なる。その身分の高下も明白である。

しかし『伝』は「桓公は身分が高く、隠公は身分が低い」と言うが、これはまったく信用できない。そして杜預はこれに拠りながら、さらに両者の身分を取り違えてしまったのだ。

では何をもって「信用できない」と言うのか。曰く、国を譲ったならば摂政ではあり得ず、摂政ならば国を譲ることはできない。ところが『伝』によれば、隠公は摂政だという。これでは君主の位にないものが、その位を践んだことになり、王法において許されないことである。王法において許されないことならば、隠公を弑した桓公の悪事は少しく加減されるべく、『春秋』も深くは罰さぬはずである。ところが『春秋』は桓公の弑を深く罰している。ならば隠公は国を譲ったと見るべく、摂政でなかったことは明らかである。ここに鑑みれば、「隠公は摂政である」との主張は、『春秋』の真意を理解しきれなかったものと言えるだろう。では何をもって「両者の身分を取り違えている」と言うのか。これについては既に述べたとおりである。

私見によれば、杜預の注と『伝』とが互いに異なっているばかりか、『伝』と『春秋』すら互いに異なっている。このことは『春秋』の真意を深く知るものでなければ、とうてい理解できないことである。




(*1) 劉敞は左氏伝を抄録しているので、念のため以下に左氏伝本文を引用しておく。「恵公の元妃は孟子なり。孟子卒し、室に継ぐに声子を以てし、隠公を生む。宋の武公、仲子を生む。仲子生まれて文の其の手に在る有り、『魯の夫人と為る』と曰く。故に仲子、我に帰ぐ。桓公を生みて、恵公薨ず。是を以て隠公立ちて之を奉ず」

(*2)「摂」は摂政のことで、杜預の注によれば、「仮に君の政を執る」こと。

(*3) 「禎祥」は吉兆の象徴。「禎祥の故」とは、『正義』によれば、「繼室は夫人に非ずと雖も、諸妾より貴し。惠公 大子を立てざれば、母貴ければ則ち宜しく君と為るべし。隱公當に父の世を嗣ぐべくも、正に禎祥の故、仲子の手に夫人の文有り、其の父之を娶とり、仲子を以て夫人と為すの意有るを以ての故に、父の志を追成し、位を以て桓に讓る。但だ桓の年少く未だ多難に堪えざるが為に、是を以て桓を立てて太子と為し、國人を帥ゐて之を奉じ、己は則ち且(しば)らく君の位を攝り、其の年長を待つ。故に歲首に於いて君の位に即かず」という。

(*4) 蛇足だと思うが念のため説明しておく。摂政は、君主に代わって一時的に君主の政務を執るの意。ならば「君主の位にありながら摂政を名のる」とは、「君主でありながら、君主に代わって政務を執ること」になり、論理矛盾が起こる。また「摂政でありながら国を譲る」もおかしい。摂政は君主の代行であって君主ではない。譲るべき国などはじめから持っていない。国ははじめから君主のものである。だから「摂政でありながら国を譲る」と表現すると、「摂政が自分の非所有物である国を、その国の所有者に譲った」という奇妙な意味になってしまう。したがって摂政と譲国の二つの言葉をつなぐことは出来ないという意味。

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