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欧陽修「春秋論」上

伝統ある二つの学説があり、遺憾なことに、それらが対立している場合、我々はどちらの学説に従えばよいのだろうか。もちろん信用できる方に従わなければならない。では、どうすればそれを見分けられるだろうか。人を見るに越したことはない。衆多の一般人があのように発言し、君子がこのように発言したのなら、衆多の一般人の意見を捨て、君子の意見に従わなければならない。なんといっても君子は世の中のことをよく知っている人々だからだ。しかし君子とはいえ、知らないこともあれば、間違えることもあるだろう。だから君子があのように発言し、聖人がこのように発言した場合は、君子の意見を捨て、聖人の意見に従わなければならない。これは世の中のだれもが知っていることだ。ところが春秋学者だけは違うのだ。

孔子は聖人だ。あらゆる時代を通じて、最も信頼できる人間だ。一方、公羊高、穀梁赤、左氏の三人は、世の中のことをよく知った君子たちではあるが、彼らの著した三伝には、残念ながら間違いがないではない。ところが聖人の経と三氏の伝とが異なる学説を唱えたとき、春秋学者は、こともあろうに経を棄てて伝に従うのだ。孔子を信じるのではなく、三人の君子たちを信じるというのだ。なんと無茶苦茶なことではないか。

例えば、魯の隠公が君主であったか否かについて、孔子は「公、邾の儀父と蔑に盟す」と言うばかりか、隠公の死に対して「公、薨ず」と記している。孔子はずっと隠公を「公」、すなわち魯の正式な君主とみとめていた証拠だ。ところが三君子は「隠公は魯の正式な君主ではない。摂政だった」と主張する。すると世の春秋学者は、孔子の意見に従わず、なんと三君の意見に靡いてしまうのだ。隠公は魯の正式な君主ではない、摂政だったと信じてしまうのだ。

同じ例は他にもある。晉の霊公について、孔子は「趙盾、その君夷皐を弑す」と記している。ところが三君子は「趙盾が弑したのではない。趙穿が弑したのだ」と主張する。すると世の春秋学者は、孔子の意見を信じることなく、三君子の意見を信じてしまうのだ。趙盾が弑したのではない、趙穿が弑したのだと信じてしまうのだ。

まだ他にもある。許の悼公について、孔子は「許の世子止、その君買を弑す」と記している。ところが三君子は「世子止が弑したのではない。買は病気で死んだのだ。ただ世子止は薬の検分に失敗し、その結果、買を死に至らしめてしまっただけだ」と主張する。すると世の春秋学者は、孔子を信じることなく、三君子に靡いてしまうのだ。そして世子止は買を弑したのではない、薬の検分に失敗しただけだと信じてしまうのだ。

世の春秋学者が孔子を棄てて三伝に従うのはなぜだろう。経は簡潔直裁だが、伝は奇抜で新味があるからではないか。なぜなら簡潔直裁な文章は人に楽しみを与えないが、奇抜で新味のある文章は人の耳に心地よいからだ。そして心地よい言葉に、人は心を惑わされてしまうのだ。なにも私は絶対にそのような言葉に惑わされないと言うのではない。しかし私は篤く孔子を信ずる人間だ。だから経に記されたことは信用する。しかし経に記されていないことは、あえてその是非を判断しようと思わない。

私の意見に批判的な人々は指摘する。──君は含むところがあって、そのようなことを言うのだ。そもそも三君子はみな聖人から学んだ人々だ。そして彼らの著した三伝は、経の言わんとすることを伝えたものだ。経の文章は隠微で奥深い。三君子はその奥義を我々に解き明かしてくれたのだ。だから経に記されないことまでも、三伝には記されているのだ。経と三伝は対立するものではない。

ならば私は彼らに聞きたい。聖人の判断が示されてもいないのに、三君子はどうやってその是非を知り得たのか。

彼らの答えはこうだ。──経文の前後の記述から判断したのだろう。それに伝え聞くところがあったのだ。例えば、一国の君主になるためには必ず即位の儀式が必要だ。ところが隠公には即位の記事がない。だから三君子は知ったのだ、隠公は摂政だったと。趙盾の弑君もこれと同じだ。君主を弑したものは、二度と経に名を記されない。ところが趙盾は君主を弑した後も経に名が記されている。だから三君子は知ったのだ、趙盾は君主を弑していないと。世子止もそうだ。君主が弑され、しかも弑した賊が討伐されない間は、その君主の葬は経に記されない。ところが許の悼公は世子止に弑され、しかも世子止が討伐されてもいないのに、経にその葬が記されている。だから三君子は知ったのだ、世子止は本当に弑したのではないと。経の文章は隠微だが、三伝は詳細に真相を語ってくれる。だから世の春秋学者は考えるのだ、三伝こそは聖人の深意を説いたものだと。だから人々は三伝の意見に耳を傾けるのだ。しかし勘違いしてはいけない。これは何も孔子を棄てて三伝に従うものではない。

私は言いたい。みだりに聖人の心を語り、世の学者を惑わした罪は、三君子にある。とはいえ、もし春秋学者が三君子を信じるというのなら、もはや私にはどうすることもできない。しかし、もし世の正しきを追求するというのなら、私は真実のためにあえて戦わなければならない。



欧陽修の春秋論。全三篇。これはそのうちの上篇、すなわち問題提起にあたる。これは宋代の春秋学を語るには欠かすことの出来ない論文で、いかにも素人を思わせる単純さを備えながら、その核心をとらえて離さないのは、さすがに欧陽修といったところだろうか。論文後半、三つの例題が示され、ああだこうだ論じているが、あまり気にする必要はない。要するに、欧陽修の所論は、聖人は正しい、だから聖人の作った経書は無条件に正しい、以上につきる。聖人原理主義みないなもので、気持ち悪いことこの上ないが、こういう気色の悪い考えかたが発展して、儒学は新しい一歩を踏み出すに至るのだった。

ちなみにこの論文が世に出たとき、春秋学の最先端の世界では、この種の発想は常識と化していた。問題はそれをどうやって技術的に証明するかにかかっていた。だから時代遅れといえば言えないではない。しかし世の一般読書子に語りかけるにはちょうどよかったのだろう。もっとも、これから数百年後も結局はあまり変わっていないのだけれど。

今回はいつもより思い切って訳してみた。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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