スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

礼関係のメモ

(1)史記
言禮自魯高堂生(*1)。
諸學者多言禮,而魯高堂生最本。禮固自孔子時而其經不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今獨有士禮,高堂生能言之。而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為禮官大夫。傳子至孫延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通禮經;延頗能,未善也。襄以容為漢禮官大夫,至廣陵内史。延及徐氏弟子公戸滿意、桓生、單次,皆嘗為漢禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守。是後能言禮為容者,由徐氏焉。
(*1)【索隱】謝承云「秦氏季代有魯人高堂伯」,則「伯」是其字。云「生」者,自漢已來儒者皆號「生」,亦「先生」省字呼之耳。

司馬遷の認識では:
・漢代の礼は魯の高堂生をご本尊とする
・礼経は孔子の時代から残闕
・現行(漢代)の礼経は士礼のみ→高堂生は経をよく読めた
・魯に徐生がおり礼の儀式に詳しかった
・徐生の子孫と門人が礼の儀式を伝えるが、礼経には通じなかった
・瑕丘蕭奮の前の「而」の意味が分かりにくい。流れからすると、彼も徐氏の弟子だろうか。

高堂生が礼経をよく読めてご本尊だというのはいいが、それと徐生の関係が書かれていない。同郷らしいから関係者なんだろうか。
儀式方面は学統らしきものはあったが、経の方はなかったと、司馬遷は思っていたのかもしれない。


(2)漢書
漢興,魯高堂生傳士禮十七篇,而魯徐生善為頌。孝文時,徐生以頌為禮官大夫,傳子至孫延、襄。襄,其資性善為頌,不能通經;延頗能,未善也。襄亦以頌為大夫,至廣陵内史。延及徐氏弟子公戸滿意、(栢)〔桓〕生、單次皆為禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮至淮陽太守。諸言禮為頌者由徐氏。

・相当程度史記と同じ
・ただ魯の高堂生が士禮十七篇を伝えたとあり、篇数が記されている
・高堂生と徐生の関係は相変わらず不明

孟卿,東海人也。事蕭奮,以授后倉、魯閭丘卿。倉説禮數萬言,號曰后氏曲臺記,授沛聞人通漢子方、梁戴延君、戴聖次君、沛慶普孝公。孝公為東平太傅。號大戴,為信都太傅;聖號小戴,以博士論石渠,至九江太守。由是禮有大戴、小戴、慶氏之學。通漢以太子舍人論石渠,至中山中尉。普授魯夏侯敬,又傳族子咸,為豫章太守。大戴授琅邪徐良斿卿,為博士、州牧、郡守,家世傳業。小戴授梁人橋仁季卿、楊榮子孫。仁為大鴻臚,家世傳業,榮琅邪太守。由是大戴有徐氏,小戴有橋、楊氏之學。

・ところが蕭奮の弟子に孟卿が現れ、后倉に学を伝えている
・后倉は大物だ!
・后倉は曲台記数万言を著した
・そして沛の聞人通漢子方、梁の戴延君、戴聖次君、沛の慶普孝公に伝授
・紆余曲折を経つつ、戴徳、戴聖、慶普をおおもととする三系統が現れた模様


(3)漢書芸文志
禮古經五十六卷,經(七十)〔十七〕篇。經(七十)〔十七〕篇。(后氏、戴氏。)
記百三十一篇。(七十子後學者所記也。)
明堂陰陽三十三篇。(古明堂之遺事。)
王史氏二十一篇。(七十子後學者。)
曲臺后倉九篇。
中庸説二篇。
明堂陰陽説五篇。
周官經六篇。(王莽時劉歆置博士。)
周官傳四篇。
軍禮司馬法百五十五篇。
古封禪羣祀二十二篇。
封禪議對十九篇。(武帝時也。)
漢封禪羣祀三十六篇。
議奏三十八篇。(石渠。)
凡禮十三家,五百五十五篇。(入司馬法一家,百五十五篇。)

易曰:「有夫婦父子君臣上下,禮義有所錯。」而帝王質文世有損益,至周曲為之防,事為之制,故曰:「禮經三百,威儀三千。」及周之衰,諸侯將踰法度,惡其害己,皆滅去其籍,自孔子時而不具,至秦大壞。漢興,魯高堂生傳士禮十七篇。訖孝宣世,后倉最明。戴、戴聖、慶普皆其弟子,三家立於學官。禮古經者,出於魯淹中及孔氏,(學七十)〔與十七〕篇文相似,多三十九篇。及明堂陰陽、王史氏記所見,多天子諸侯卿大夫之制,雖不能備,猶瘉倉等推士禮而致於天子之説。

・礼経十七篇か七十篇か異論あり
・礼は孔子の時代から欠けていた
・漢代の礼は魯の高堂生から始まる
・宣帝の時代に后倉が現れる。やはり后倉は輝いてる。その割に書物は消えたけど
・弟子の戴、戴聖、慶普が継承したらしい
・礼経には戴、戴聖、慶普一派のものと礼古経がある
・礼古経は魯淹中および孔氏から出る
・礼古経は十七篇と類似しているが、三十九篇多かったらしい
・明堂陰陽、王史氏記(礼古経系統?)には天子諸侯卿大夫之制が多い
・礼古経関係は后倉らの学説より優れている

最後に猶瘉倉等推士禮而致於天子之説とあるが、これによると現在の礼記や大戴禮は士礼から天子に致したものと考えられる。だとすれば曲礼とか王制もその類のものなんだろうか?
礼古経は唐代まで残っていたとか残ってないとか。整理屋の劉向はともかく、なんで鄭玄は逸礼に注をつけなかったんだろう。全部とは言わずとも、一つ二つつけといてくれれば、どんなものか分かったのに。


(4)儀礼の篇
戴本:
冠禮第一、昏禮第二、相見第三、士喪第四、既夕第五、士虞第六、特牲第七、少牢第八、有司徹第九、郷飲酒第十、郷射第十一、燕禮第十二、大射第十三、聘禮第十四、公食第十五、覲禮第十六、喪服第十七

戴聖本:
冠禮第一、昏禮第二、相見第三、郷飲第四、郷射第五、燕禮第六、大射第七、士虞第八、喪服第九、特牲第十、少牢第十一、有司徹第十二、士喪第十三、既夕第十四、聘禮第十五、公食第十六、覲禮第十七

劉向別録本(鄭氏所注):
士冠禮第一、士昏禮第二、士相見禮第三、郷飲酒禮第四、郷射禮第五、燕禮第六、大射第七、聘禮第八、公食大夫禮第九、覲禮第十、喪服第十一、士喪禮第十二、既夕禮第十三、士虞禮第十四、特牲饋食禮第十五、少牢饋食禮第十六、有司徹第十七

武威漢簡本(慶氏?):
士相見禮第三、(喪服第八)、特牲饋食禮第十、少牢饋食禮第十一、有司徹第十二、燕禮第十三、泰射第十四

しっかしアレだな、よく分からない武威漢簡はともかく、后倉から分かれたはずの戴徳と戴聖の篇順が違うというのは傑作だな。それと劉向別録本と違うというのもおもしろい。要するに、漢代には儀礼の配列はばらばらで、学者によってまちまちだったということなんだな。劉向は出土文献を目にしているので、それを案じて現行本の配列にしたのかも知れないが、いずれにせよ現行本の配列はそういう意味のものでしかないということなのだろう。まあ経学は事実上漢代にはじまるからそれでいいといえばそれでいいのだけど。

あと經典釋文と隋書経籍志があるけど、資料的価値はぐっと下がるので、今回はここまで。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

自営サイト
最近の記事
カテゴリー
リンク集
全記事表示

全ての記事を表示する

FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。