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春秋公羊伝注疏

春秋公羊伝注疏二十八巻

内府蔵本

漢の公羊壽の伝、何休の解詁、唐の徐彦の疏。

本書について『漢書』芸文志は「公羊伝十一巻」といい、班固の自注は「公羊子、斉の人」といい(『漢書』芸文志の注記において、顔師古の名を冠さぬものは、すべて班固の自注である)、顔師古の注は「〔公羊子の〕名は高である」(これが『春秋説題詞』に拠ることは徐彦の疏に指摘がある)という。また徐彦の疏は、戴宏の序を引き、「子夏は公羊高に伝え、高はその子の平に伝え、平はその子の地に伝え、地はその子の敢に伝え、敢はその子の壽に伝えた。漢の景帝の時代、壽は斉人の胡母子都とともに竹帛に書き写した」という。これは何休の注も同じである(何休の学説は隠公二年の紀子伯莒子盟於密の条下に見える)

しかし『伝』の中には「子沈子曰く」、「子司馬子曰く」、「子女子曰く」、「子北宮子曰く」、「高子曰く」、「魯子曰く」等の表現があり、彼らはいずれも学統を継承した経師であろうから、『伝』のすべてが公羊子ひとりの手に成ったとは考えられない。また定公元年の『伝』に見える「棺を両楹の間に正す」以下の両句は『穀梁伝』にも引用を見るが、そこでは直に「沈子曰く」と書かれ、公羊の発言とはされていない。ならば姓名を記さぬ学説とともに、これもまた、『伝』のすべてが公羊子の手に成らぬ証拠の一つに数えられよう。とりわけ「子公羊子曰く」なる表現は、公羊高の手に成らぬことの明白な証拠といえるだろう。したがって、これらの点に鑑みるならば、『伝』が公羊壽の手に成り、胡母子都の補佐にかかるものであることは、疑いなきものといえる。旧本は冒頭に公羊高の名を署しているが、それはこの事情を熟知しておらぬことによるものである。

さて羅璧はその『識遺』において「公羊や穀梁はその高と赤の『伝』以外、前史および後世にその姓をもつものを見ない。万見春(*1)は『公羊と穀梁は、いずれも〔二字を一字に〕約めれば「姜」の字と同じ音になる(*2)。恐らくは姜姓の仮託であろう』と言っている」と指摘する(*3)。なるほど鄒を邾婁とし、披を勃鞮とし、木を彌牟とし、殖を舌職とする等々(*4)、経典の記載においても音の異同は認められる。しかし弟子が先師について記し、子孫がその祖父について述べるのに、本字が分からぬといって別に合声を用いることなど断じてあり得ない。羅璧の指摘は奇異を好む好事家の発言にすぎない。程端学の『春秋本義』に至っては、公羊高を漢代初期の人間だというが(*5)、これは講学家に見られる臆断にすぎず、ことさら弁解するにも及ばない。

三伝と経文とについて、『漢書』芸文志は各々巻帙を別にしている。そして『左氏伝』を経に付したのは杜預に始まる。しかし『公羊伝』を経に付したのが誰かは判然としない。何休の『解詁』を検するに、ただ『伝』を解釈するのみで経を解釈せず、杜預とは方式を異にしている。ならば漢代末期においては、いまだ経と『伝』は別行していたものと考えられる。また現存する蔡邕の石経残字についてみても『公羊伝』に経文はなく、先の〔何休の解釈方法〕とともに相互に〔漢代末期にはいまだ経と『伝』とを区別していたことの〕証拠と見なし得よう(*6)。

ところが現行本は『伝』を経に付している。これは徐彦が疏を作ったときに合わせたものであろうか。徐彦の疏について、『文献通考』が三十巻とするのに対し、現行本は二十八巻にすぎない。徐彦の作ったものは、経文を二巻にまとめ、『伝』の前に付していたものであったが、後世の人が〔経の二巻を〕『伝』の中に散入したのであろうか。そのため〔『文献通考』に比べて現行本は〕二巻だけ少ないのであろうか。詳細は不明である。

徐彦の疏は『唐書』芸文志にその書名なく、『崇文総目』に至ってようやく記載を見るが、そこでも「〔本書には〕著者名が記されていない。一説に徐彦の作という」と注記されている(*7)。一方、董逌の『広川蔵書志』は「世に徐彦の作と伝えられているが、いずれの時代の人間かは不明である。〔唐代後半の〕貞元・長慶以降の人ではあるまいか」と指摘する(*8)。疏を検するに、〔宣公十二年の〕邲の戦の一条によるならば、なおも孫炎『爾雅注』の完本を見得たようであり、したがって〔孫炎『爾雅注』の佚した〕宋代以前の人であることが分かる。また〔荘公三年の〕葬桓王の一条は楊士の『穀梁伝疏』を完全に襲っており、したがって〔『穀梁疏』の成った〕貞観以降の人であることも分かる。疏には自問自答が多いこと、文章は煩瑣で言葉も重複していること、邱光庭の『兼明書』と類似してことなどから判断して、唐代末期の文体とも考えられる。そうだとすれば上述の董逌の発言は理なしとしない。そこでこの度は唐逌の説に従い、徐彦を唐代の人としておきたい。

(*1)羅璧『識遺』巻三(左伝非丘明)に「郷先達万見春鎮嘗著論弁伝非丘明作」とあることから、姓は万、名は鎮、見春は字か号であろうことが分かる。また四庫提要によれば羅璧の本貫は新安(徽州)らしく、したがって万鎮も新安の人ということになる。なお饒魯の弟子にも同名の人物がいる。こちらの万鎮は字を子静といい、平江(蘇州)の人であるが、彼にも左伝十弁なる著があったという(宋元学案巻八十三、清一統志巻二百七十九)。
(*2)公または穀の子音と羊または梁の母音付近の音を合わせると姜と同音になるという意味。下の合声もこれと同義。
(*3) 『識遺』巻三(公羊穀梁)。
(*4) 鄒と邾婁は国名ないし地名、披と勃鞮は寺人勃鞮を、木と彌牟は公孫彌牟を指す。殖と舌職は羊舌職(羊殖)のこと。恵棟『左伝補註』成公十八年羊舌職条(清経解巻三百五十五)に「説苑作羊殖。殖為舌職合声」とある。説苑はその巻十一、善説、趙簡子問於成摶条(巻十一最終条)の一節を指す。ただし向宗魯の説苑考證は「左氏所称羊舌大夫為職之父、非職也。且此文云今臣不見五年矣、則是簡同時人、年代尤参錯不合」と疑問を残している。
(*5)『春秋本義』春秋伝名氏に指摘がある。
(*6)何休と蔡邕は後漢末期の学者で、杜預は魏晉時代の軍人、学者、政治家である。
(*7) 『崇文総目』は宋代初期の蔵書目録であるが、四庫提要執筆の清代中期には既に散佚していた。この引用は『文献通考』春秋公羊疏条所引崇文総目を引いている。
(*8)『文献通考』春秋公羊疏所引の陳振孫『書録解題』に引かれる言葉。


劉敞の権衡に取り組む精神的余裕がないので、とりあえず随分前に訳した四庫提要の校正をすることにしたが、三伝と繁露などを訳してなかったのを思い出した。ということで(?)、この公羊伝注疏を含めて六つしかないけど、ぼちぼちやっていこう。

と思ったけど、久しぶりの所為か最後の方は疲れた。最後の一段落はかなりいい加減なので、また明日にでも校正し直す。訳文の拙劣さはともかく、当時はよくこんなもの何十種類も訳す気になったものだ。我ながら頭がどうかしてるのじゃないかと思ってしまう。

ああ、念のため断っておくと、上の四庫提要の判断は出鱈目なので間違っても信用しないように。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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