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春秋穀梁伝注疏

春秋穀梁伝注疏二十巻

内府蔵本

(晉)范の集解、(唐)楊士の疏。

この『伝』については、楊士の疏に「穀梁子、名は俶、字は元始、一の名は赤。春秋経を子夏より受け、経のために『伝』を作った」とあるのによれば、穀梁子の自作ということになる。しかし徐彦の『公羊伝疏』には「公羊高より相伝すること五世、胡毋生の時代にようやく竹帛に書き写し、その親師の名をとって『公羊伝』と名付けた。穀梁もまた竹帛に書き写した者が、その親師の名をとって『穀梁伝』と名付けた」とある。これによる限るならば、本書はその学統を受け継ぐ人の手によって作られたものということになる。

これについて『公羊伝』の定公即位の一条を検するに、「子沈子曰く」を引くが、何休の『解詁』はこれを後師(何休の注は隠公十一年所引の子沈子条下に見える)の説としている。この『伝』も定公即位の一条につき、「沈子曰く」を引いている。しかしながら公羊と穀梁はともに子夏を師としたのであれば、後師に学を授かる必要はあるまい。またこの『伝』は〔隠公五年の〕初めて六羽を献ずの一条において「穀梁子曰く」と称しているが、もし穀梁の自作であるならば、己の学説をこのような形で引くはずがない。それのみか、本条はさらに「尸子曰く」を引いている。尸佼は商鞅の師であり、商鞅が誅殺された後、蜀に逃亡したと言われる人物である。その在世もまた穀梁の後にあり、〔未だ存在せぬ人物の学説を〕前もって『伝』に引用することはできまい。これらから判断して、恐らくは徐彦の指摘が事実を伝えたものであろう。ただ誰が竹に書き写したかについては明らかにし得ない。

『漢書』芸文志は公羊と穀梁の二家の春秋経十一巻を載せ、『伝』についても各々十一巻とする。ならば経と『伝』はもともと別物だったのである。范の『集解』は経を『伝』にあわせて注解を施している。あるいは范が経と『伝』を合わせたのではあるまいか。

さて、定公元年の春王三月の一条は、「春王」二字の下で『伝』を発し、「三月」を別に下文と接続させており、その区分の方法には大いに疑問を生じさせるものがある。しかし劉向の『説苑』には「文王は元年に似たり、武王は春王に似たり、周公は正月に似たり」の一文がある。劉向は『穀梁春秋』の学を受けた人物で、『穀梁』の経文が「春王」二字を割いて一節としていたことを知っていたのである。そのため劉向は如上の読みをして見せたのである。

また〔隠公五年の〕公観魚于棠の一条、〔荘公三年の〕葬桓王の一条、〔成公九年の〕杞伯来逆叔姫之喪以帰の一条、〔同十三年の〕曹伯廬卒于師の一条、〔襄公三十年の〕天王殺其弟佞夫の一条は、いずれも「伝に曰く」の字を冠している。その中、ただ葬桓王の一条のみは『左氏伝』の所説と一致するが、それ以外はいかなる伝から引用したものか明らかにし難い。あるいは范が伝を経に付したとき、鄭玄や王弼が『易』に対して「彖に曰く」、「象に曰く」を用い〔て経の本文に十翼を割裂し〕た例のごとく、一条ごとに「伝に曰く」の字を冠したのではあるまいか。ところが後の世に本書を書き写したものがこれを削り去ったとき、この五条のみを削り損なったのではあるまいか。

范の注本は十二巻、その門生故吏、子弟の学説をも含み、各人の名を列したものであるが故に、「集解」と名付けられた。『晉書』范伝には「范の書は世間からもてはやされた。ほどなく徐邈がまた『穀梁伝』の注を作り、これもまた世間の評価するところとなった」とある。しかし本書について検するに、〔本書完成の後に成立したはずの〕徐邈の注をも多く引用している。その詳細については明らかにし難い。また『集解』の自序には「名例を商略し」なる句があり、疏もまた范には別に『略例』十余条があったと指摘する。ところが本書にはこれが存在しない。しかし注中に「伝例曰く」なる文字が散見される。あるいは楊士が『略例』本文を割裂し、注疏の中にちりばめたのではあるまいか。

楊士の詳しい官歴は不明である。しかし孔穎達『左伝正義』の序に「故四門博士楊士と参定す」とあるからには、貞観年間の人だということは分かる。その穀梁疏は孔穎達の〔撰した『正義』の〕博識に及ばぬとはいえ、左氏を扱うもの多く、公羊と穀梁に携わるもの少き中にあって、また依拠し得べき資料の乏しき中にあって、さらには『左伝正義』が多くの学者の手になるのに対し、本書は楊士ひとりの力に成り、助けとするもの少なき中にあったことに鑑みれば、内容の詳略に差違の生ずるのは、やむを得ないことであったろう。

なお〔現行本は文公十一年の〕長狄眉見於軾の一条に対する疏が上句の身横九畝につながっており、注と疏が乖離してしまっている。恐らく邢昺が〔『穀梁伝注疏』を〕校訂したとき、原書の配列を誤ったところが多くあり、楊士の原本とは完全には一致せぬのであろう。


※こちらは公羊伝注疏よりマシな感じはするが、全体的に推測の文章が多く、論断しているところも推測による部分が目立つ。よってあまり参考にならない。春秋三伝の研究は春秋学の花形だから、四庫提要が書かれた後もそうとう研究されたので致し方のないことではある。ただし決定的な資料を欠くが故に研究が盛んになるのであるから、もとより後世のいかなる研究も十分な信頼は置けない。したがって、春秋三伝については、何事につけ、よく分からないというのが真相といえる。

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