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箴膏肓など

箴膏肓一巻、起廃疾一巻、発墨守一巻

山西巡撫採進本

(漢)鄭玄の撰。

『後漢書』鄭玄伝には「任城の何休は公羊贔屓が高じて『公羊墨守』、『左氏膏肓』、『穀梁廃疾』(*1)を著すに至った。これに応じて鄭玄はその『墨守』を発(ひら)き、『膏肓』に鍼(はりう)ち、『廃疾』を起こしてみせた。何休は鄭玄の書を目にすると、「康成(鄭玄)は吾が室に入り、吾が矛を操り、我を伐つものか』と感嘆したという」とある。

本書について『隋書』経籍志に記載あるものは、『左氏膏肓』十巻、『穀梁廃疾』三巻、『公羊墨守』十四巻で、そのいずれにも「何休の撰」と注されている。そしてまた別に『穀梁廃疾』三巻を掲げ、「鄭玄の釈、張靖の箋」と注している。これによれば鄭玄の評釈と何休の原本とは、隋代以前においては、別行していたと推測される。ところが『旧唐書』経籍志の記載になると、『墨守』こそ二巻と記され、少しく異同があるものの、『膏肓』『廃疾』の二書は巻数までも一致しているにも関わらず、三書のいずれにも「鄭玄の箴」、「鄭玄の発」、「鄭玄の釈」と記されている。つまりこのときには既に鄭玄の書と何休の書は一書にあわされていたのである。

しかし宋代に入るとこれらも散佚が始まり、『崇文総目』には『左氏膏肓』九巻を載せるのみとなった。そして、それすらも陳振孫の見たものは宣公、定公、哀公の三公を闕く有様でだった。陳振孫の指摘によれば、所見本は錯誤のため読むに堪えず、恐らくは後人の収録したもので、『隋書』『旧唐書』に記載された原本ではなかろうとのことである(*2)。その後、漢学はますます衰微し、陳振孫の見た不完全な『左氏膏肓』もまたこの世から消えてしまったのである。

この本は『箴膏肓』二十余条、『起廃疾』四十余条、『発墨守』四条からなり、諸書の引用文を集め、それを再編集したものと推測される。編者の名は詳らかにし得ない。「宋の王応麟の輯」と題するものもあるが、これといった確証があるわけではなく、王応麟がかつて鄭玄の『周易注』『斉魯韓三家詩考』を輯集したというので、本書の編集もまたその手になるのではないかとの推測にすぎない。しかし『玉海』の末に本書は附されていない。王応麟の子孫ですら見ることのできなかった書物が、かえって後世に流伝することなど、およそ考えられぬことである(*3)。

このたび諸書をもちいて校勘したところ、『毛詩』大明篇疏所引の宋襄公戦泓の一条を佚する外は、一つの遺漏もなかった。本書は王応麟の手になるものではないが、これを要するに、古義に心を潜めるものが作ったものである。謹んで編集補綴し、これを『四庫全書』に収録するものである。原書の二割にも及ばぬ分量とはいえ、系統だてて輯集された本書から原書の梗概を伺うことはできようし、鄭玄の学を修めるものも、これによって得るものがあるだろう。

(*1)おのおの「公羊を墨守する」、「左氏の病は膏肓に入っている」、「穀梁は不治の病に冒されている」の意。これを受けて鄭玄は、公羊の墨守を啓き、左氏の病を治し、穀梁を不治の病から起き上がらせるという意味で下記の書を著したとされる。
(*2)陳振孫の発言は『文献通考』あるいは『書録解題』に引用を見るが、この提要の主旨とはズレがある。
(*3)王応麟の『玉海』は類書として極めて有名な書物。原本はいちど失われ、現行本は孫の王厚の整理を経て出版されたものである。王厚の出版時、王応麟の他の遺著十三種も附録としてあわせて刊行された。すなわち四庫官の発言は、王厚ですら発見できなかった王応麟の遺著が、別人の手によって後世に伝わるはずがないという意味になり、言うまでもなく、まったく根拠のない憶測である。

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