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野中繼善に與ふ(丁卯)

昨日書いた「野中繼善に與ふ」。むかし書き下しにしたのを載せてみる。一つ二つ疑問の箇所があるので、読みにくいところは私の読み間違いだと思う。ちなみに原文は漢文、秦山二十五歳のときの文章。附録で原文を載せる予定だったが、目が痛くなったので止める。語釈は最低限度とし、漢字を見て意味を想像できそうなものは省略した。

※以下本文

朱子の書、宇宙のに在る、其れ國家の元氣、生民の命脈か。生民は無かるべくも、朱子の書は無かるべからざるなり。今且らく一事を舉げて之を言はん。楊雄が賢をして師法とすべからしめば、天地は其れ立たんや。曹操・荀が舉をして信然すべからしめば、天地は其れ立たんや。天下の事を論ずる者をして、咸な司馬光・蘇軾ならしむれば、日月は地に墜ち、世界の劫火は固より已に久しからん。趙宋の末、朱明の始(*1)、忠憤義氣の盛んなる、開闢以來有らざる所。之を朱書(*2)の功に非ずと謂ひて可ならんや。
(*1)宋末明初の謂。宋は趙氏の王朝の故に趙宋といひ、明は朱氏の王朝の故に朱明といふ。
(*2)朱子の書の謂。

朱書の我が邦に行はるるは、已に元弘・建武の際に在るも、時の人は得て知らず、師錬・玄慧等が時に其の説を採り談柄に充つるのみ。爾來三百年、沈淪埋沒し、藤太閤の老成該博を以て尚お深く造る能はず。其の他、知るべきなり。幸いに貴家の先國老(*3)、弓馬の中に崛起し、我が山崎先生の髠髟のに勃興し、相與に推輓引重するを頼り、然る後に小學なる、四書の全本なる、近思録なる、文集なる、語類なる、實に始めて人に出で、雷霆日月の揜ふべからざるが若くにして、三年の喪、齊疏の服、ゝ亦た焉に觀るべき者有り。不幸にして其の志を就すを得ずと雖も、天下、陰かに其の福を被る。然れば則ち後の朱書を讀む者、自ら下風に託すに及ばずと雖も、猶お其の胤子に見えて餘論を聞かんと欲する、其れ豈に過たりと言ふべけんや。
(*3)野中兼山のこと。

僕、九歳にして小學の書を讀む。時に先國老の沒すること既に數年にして、胤子の宿毛に在るを聞き、已に私に之を識る。後、稍ゝ士大夫に交接するも、貴家の故臣の出仕する者、往往にして時と浮湛し、之を問ふも肯ては對へず。十五歳の時、宿毛の童子、來りて府に學ぶ。僕、之が遊敵と為り、邂逅往來す。童、伯子仲子を知るに及ばず、獨り高明叔季の事(*4)を道ふこと頗る詳らかなり。五年前、秦山に徙居したるとき、隣民に又嘗て先國老に野中に厮養せえらるる有り、亦た伯仲季を識らず、惟だ細かに高明の幼時、岐巍の状を稱す。
(*4)「貴方と末弟のこと」の意。

往年、蹉駝(*5)より宿毛に轉遊せるとき、私心、是に於いて其の初望を遂ぐるの日有るを喜べり。既に焉に至り、其の居を問へば則ち圜牆なり。其の僕を訪へば則ち獄吏なり。乃ち悵然として大息し、泫然として涕を出して曰く、「吾れ其の人と為を得ること、蓋し十有七年にして、一たび其の面を見ゆる能はず。豈に命に非ざるか」と。尋で數詩を得て之を讀み、既に家聲を墜さざるを歎じ、又、窮困の久しきを悲しみ、感慨歔欷す。言はんと欲すること麻の如きも、縁無くして黙すること復た茲に二年たり。
(*5)地名。高知西南の足摺を指す。

僕、今年二十五歳。然れども目は昏く耳は轟き、殆ど衰老の人の如し。素より儋石の禄を受けずして、頻りに罪案に觸る。或は一旦溘死し、宿心を償ふ能はざるを恐るるなり。故を以て已むを得ず、此に其の愚を效し、展轉附託し、仰ぎて高名を瀆す。意未だ必ずしも理に當らず。只だ區區景戀の萬一を呈似せんと要するのみ。覽畢れば之を火せよ。

蓋し之を聞く。朱子の道、大にして且つ博し。然れども其の實は父子の親、君臣の義の二者に過ぎざるのみ。此の二者は、天の以て我に與ふる所にして我の得て以て性と為る所、人心の已むべからずに根ざして天地のに逃るる所無きものなり。是を以て子の親に事ふる、臣の君に事ふる、一に其の心を盡し、死有るも貳無し。其れ或は事變不齊あり、放逐の悲しみ、竄殛の慘きに遭ふ有りと雖も、我の已むべからざる者、自ずから息むこと能はざれば、則ち慝を引き身を致し、敢えては一毫怨懟の私有る莫し。或は不幸にして君父亡沒するや、此の心を施す所無きが若しと雖も、然れども此の身は即ち親の遺體、君の遺黎なれば、則ち我の已むべからざる者も、亦た依然として易ふべからざるなり。故に葆嗇して節を守り、敢えては一毫解弛の念有る莫し。此れ君父に徳とすること有るに非ず。蓋し必ず此の如くにして、然る後に本心に慊て、天地のに愧ること無きなるのみ。

瞽叟は慘父なり。毎に舜を殺さんと欲す。而るに舜の知は其の慘を知らずして曰く、「惟だ父母に順ひて以て憂を解くべし」と。紂は忍君なり。文王を羑里に拘ふ。而るに文王の聖は其の忍を知らずして曰く、「臣が罪は誅に當る。天王は聖明」と。父沒す。曾子は一息尚存するのに薄きを履み深きに臨む(*6)。君亡す。伯夷は仁を求めて天下の周を宗とする秋に仁を得たり。是れ舜の性者なる所以、文王の至徳なる所以、曾子・伯夷の魯を以て之を得、且つ聖の清と為る所以にして、之を要するに、本分の外に於いて、毫末も加ふる有るに非ざるなり。夫の湯武の慚じて未だ盡さざる所以の若き、其も亦た此を謂ふか。朱子の六經四子を羽翼し、小學・近思を蒐輯する、其の用心精力、蓋し此に在り。而して通鑑綱目は其の實事を舉げ、楚辭集註は其の實情を述ぶる者なり。世の放臣屏子、往往にして此に聞く有る能はず、其の抑鬱無聊の感に迫られ、勝へずして天年を夭せる者有り、詩に遁れ、酒に遁れ、老釋に遁れ、琴棊書畫の玩に遁るる者有り。此の如くなる者は皆惑ひなり。亦た罪有り。嗚呼、天の與ふる所、夫れ奚くにか避けんや。
(*6)「深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し」(論語泰伯)の謂。

昔し程朱の窮に處する所以は、固より尚ふべからずと為す。後學の宜しく熟考矜式すべき所にして、范忠宣(*8)の嶺南に安置せらるるや、疾に因て明を失するも、命を聞けば怡然として道に就く。或ひと名に近づくと謂ふ。忠宣曰く、「七十の年、兩目倶に喪ひ、萬里の行、豈に其れ欲せんや。但だ區區の愛君、懷ひに盡さざる有り。若し名を好むの嫌を避くれば、則ち善を為すの路無し。愧ずる心有りて生きるは、愧ずる心無くして死するに若かず」と。毎に子弟に小しも不平有るべからずと戒む。諸子の章惇を怨むを聞けば、必ず怒りて之を止む。道に在るに及び、舟の江に覆し、衣盡く濕る。諸子を顧みて曰く、「此れ豈に章惇之を為さんや」と。
(*8)范純仁のこと。

劉忠定(*9)の梅州に竄せらるるや、章惇・蔡卞・蔡京の之を怨むこと尤も深く、累連貶竄し、極遠惡地、之を歴ざる無し。而して將に必ず之を死にかんとし、屢しば使者を遣はし之を脇して自裁せしめんとす。忠定は畏れず、「君、死を命ぜば即ち死せん。自死すること奚ぞ為さん」と曰ひ(朱子曰く、此れ學び得るを須ちて他れ始めて得)、遺祝の類を寫し訖りて「今、死するは難きこと無し」と曰ひ、卒に恙無し。
(*9)劉安世のこと。以下、主語を補うと、「劉忠定(*9)の梅州に竄せらるるや、章惇・蔡卞・蔡京の之を怨むこと尤も深く、累連貶竄し、〔忠定は〕極遠惡地、之を歴ざる無し。而して〔章惇等は〕將に必ず之を死にかんとし、屢しば使者を遣はし之を脇して自裁せしめんとす」となる。

陳忠肅(*10)の台州に羈管せらるるや、何執中、石悈をして台州に知たらしめ、くに必死を以てせんと欲す。悈至り、之を執らへて庭に至らしめ、大いに獄具を陳し、將に脇すに死を以てせんとし、之を窘辱する所以の者、百端たり。忠肅曰く、「今日の事、豈に制旨を被らんや。時相、學術短淺、人の愚にする所と為る。君の得る所は幾何ぞ。乃ち亦た公義を畏れず、名分を干犯するか」と。悈、慚じて之を揖して退かしめ、終に害する能はず。
(*10)陳瓘のこと。

朱子の門人に至りては、呂子約の吉州に安置せらるるや、藥を賣りて自給し、書を讀み理を窮む。嘗に曰く、「世變に因て摧折する所有り、其の素履を失ふ者は、固より言ふに足らず。世變に因り、而して意氣に加はるところ有る者も、亦た私心なり」と。

蔡季通の道州に竄せらるるや、貶を聞き、家に辭せず、即ち道に就く。朱子は從遊の者と蕭寺の中に餞別す。坐客に歎を興し、泣下る者有り。朱子微かに之を視るに、平時に異ならず。因て喟然として曰く、「朋友相愛の情、季通不挫の志、兩つながら得たりと謂ふべし」と。衆、宜しく緩く行くべしと謂ふ。季通曰く、「罪を天に獲。天、逃るべけんや」と。杖屨もて其の子の沈と同に行くこと三千里、脚、為に流血するも、幾微も言面に見るる無し。舂陵に至る。來りて學ぶ者日に衆し。季通を愛する者の謂ふならく、「宜しく生徒を謝すべし」と。對へて曰く、「禍患の來る、閉門塞竇するも能く避くる所に非ざるなり」と。書を貽りて諸子を訓じて曰く、「獨行するも影を愧じず、獨寝するも衾を愧じず。吾の罪を得るを以ての故に、遂に其の志を懈くこと勿かれ」と。道に在ること逾年、忽として一日、沈に謂ひて曰く、「客を謝すべし。吾れ安靜以て造化の舊物に還らんと欲す」と。三日を閲して卒す。

夫の數子の者、處るところ各々同じからずと雖も、要するに、皆な天命民彝の已むべからざる者に於いて、竭し盡して遺すこと無らんと欲す。故に其の禍害患難に於けるや、從容整暇として特に避けて死するを為さざるのみならず、實に生きて之を受くるを甘樂す。孔子曰く、「君子固より窮す」と。又曰く、「不仁の者は以て久しく約に處るべからず」と。旨なるかな、旨なるかな。

高明、一謫二十四年なるや、境界危惡、層見錯出す。然れども其の詩を讀みて其の志を逆るに、温雅冲澹、類むね齪齪する者の能く及ぶ所に非ざるなり。想ふに亦た此に見る有るか。西江の波浪、蓋し未だ平き易からず。更に願はくは朱子敬格の方に於いて、益々力を勵まし、向に謂ふ所の本心の已むべからざる者に於いて、果たして灼然として見る有らば、則ち潤鑊伏鑕するも易牙の味の如く、雪窖の土室も適くとして出で王きて游衍するに非ざる莫き者、僕、高明の庶幾すべきを知れり。今、靖獻遺言一部を奉納す。書は新なるも義は舊たり。忠臣孝子の蹟具る。高明をして狴犴に終るも、抱き以て沒するを得れば、則ち死すとも恨み無し。幸いにして天日を見る有れば、其も亦た自處すること莫けんや。躬の逮ばずんば、徒言を恥ずと雖も、此れ則ち區區宿昔の望なり。先國老の志なり。抑も亦た朱子の遺旨なり。

『秦山集』巻十一

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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