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春秋繁露

春秋繁露十七巻

永楽大典本

(漢)董仲舒の撰。

書名の「繁」は「蕃」に作ることもある。かつては通用したのであろう。書名の由来は判然としない。『中興館閣書目』は「繁露とは冕の垂れること、すなわち玉が連なり垂れる様子を喩えた言葉である。春秋は比事属辞〔──事と辞を連ねてその意味を探る学問〕である。それ故、書に名付けるに冕の垂れる様子を借りたのではあるまいか」というが(*1)、これも推測の域を出ない。本書は公羊学説を用いて春秋の旨を発揮したものである。しかし陰陽五行について論究することも多い。

さて董仲舒の本伝を検するに、その著として『蕃露』、『玉杯』、『竹林』の名があがっている。ところが現行本『繁露』は『玉杯』と『竹林』の二書をもその中に取り込んでいる。『崇文総目』はこれに強い疑念を示し、程大昌に至ってはさらに厳しい批判を向けるにようになった(*2)。しかし本書の内容を観たところ、その全てが董仲舒の作とは言えないにせよ、道理にもとづく根拠ある言葉が多く、とても後人の依託できないものである。

本書は宋代において既に四種の系統があり、その分量にも相違があった。その後、〔南宋の〕樓鑰の校訂本が出るに及び、それが定本となった。樓鑰本はもともと三篇を闕いていた。ところが明人がこれを再版したとき、さらに第五十五篇および第五十六篇の冒頭三百九十八字、第七十五篇の一百七十九字、第四十八篇の二十四字を闕き、第二十五篇に一頁の顛倒が生まれ、こうして読むに堪えない書物になってしまったのである。その他、明版には数えきれないほどの誤字脱字が存在する。海内の蔵書家がその完本を目にし得ぬこと、今に至るまで実に三四百年に及ぶありさまであった。

ところが、このたび〔『四庫全書』の編纂において〕『永樂大典』に収むるところの樓鑰本を編集し、詳びらかに校訂を施し、〔現行本に対して〕一千一百二十一字の増補、一百二十一字の削除、一千八百二十九字の改定をおこなった。かくして神明煥然(*3)、にわかに旧来の面目にもどったのである。世にその名を知られた書物だとは言いながら、その実、絶えて世に存在しなかったものである。幸いにも文学を崇ぶ聖朝の御代にあたらねば、そして既に亡びたる典籍をまた甦らせることがなかったならば、この十七巻の書物も朽ち果てることになっただろう。なんという奇遇であろうか。

〔四庫官案語〕

さて『春秋繁露』は主として春秋にもとづき立論した書物である。しかし経義に無関係のところも多く、実際は『尚書大伝』や『韓詩外伝』と同様のものと言える。従来、経解の一書目として扱ってきたが、適切な処置とは言えないだろう。この度は本書を〔経部春秋類正目の〕附録に配することにした。

右、春秋類一百十四部一千八百三十八巻、附録一部十七巻、いずれも文淵閣『四庫全書』に収録した。

(*1)『玉海』巻四十所引中興館閣書目。繁露は『逸周書』王会解に見える言葉で、孔晁の注に「繁露、冕之所垂也」とあるのによる。
(*2)『文献通考』所引演繁露、『経義考』巻一百七十一所引。
(*3) 四庫官が『永楽大典』から比較的著名な書物を復元したときに用いた言葉。他に『方言』や『水経注』、『麟台故事』がある。

箴膏肓など

箴膏肓一巻、起廃疾一巻、発墨守一巻

山西巡撫採進本

(漢)鄭玄の撰。

『後漢書』鄭玄伝には「任城の何休は公羊贔屓が高じて『公羊墨守』、『左氏膏肓』、『穀梁廃疾』(*1)を著すに至った。これに応じて鄭玄はその『墨守』を発(ひら)き、『膏肓』に鍼(はりう)ち、『廃疾』を起こしてみせた。何休は鄭玄の書を目にすると、「康成(鄭玄)は吾が室に入り、吾が矛を操り、我を伐つものか』と感嘆したという」とある。

本書について『隋書』経籍志に記載あるものは、『左氏膏肓』十巻、『穀梁廃疾』三巻、『公羊墨守』十四巻で、そのいずれにも「何休の撰」と注されている。そしてまた別に『穀梁廃疾』三巻を掲げ、「鄭玄の釈、張靖の箋」と注している。これによれば鄭玄の評釈と何休の原本とは、隋代以前においては、別行していたと推測される。ところが『旧唐書』経籍志の記載になると、『墨守』こそ二巻と記され、少しく異同があるものの、『膏肓』『廃疾』の二書は巻数までも一致しているにも関わらず、三書のいずれにも「鄭玄の箴」、「鄭玄の発」、「鄭玄の釈」と記されている。つまりこのときには既に鄭玄の書と何休の書は一書にあわされていたのである。

しかし宋代に入るとこれらも散佚が始まり、『崇文総目』には『左氏膏肓』九巻を載せるのみとなった。そして、それすらも陳振孫の見たものは宣公、定公、哀公の三公を闕く有様でだった。陳振孫の指摘によれば、所見本は錯誤のため読むに堪えず、恐らくは後人の収録したもので、『隋書』『旧唐書』に記載された原本ではなかろうとのことである(*2)。その後、漢学はますます衰微し、陳振孫の見た不完全な『左氏膏肓』もまたこの世から消えてしまったのである。

この本は『箴膏肓』二十余条、『起廃疾』四十余条、『発墨守』四条からなり、諸書の引用文を集め、それを再編集したものと推測される。編者の名は詳らかにし得ない。「宋の王応麟の輯」と題するものもあるが、これといった確証があるわけではなく、王応麟がかつて鄭玄の『周易注』『斉魯韓三家詩考』を輯集したというので、本書の編集もまたその手になるのではないかとの推測にすぎない。しかし『玉海』の末に本書は附されていない。王応麟の子孫ですら見ることのできなかった書物が、かえって後世に流伝することなど、およそ考えられぬことである(*3)。

このたび諸書をもちいて校勘したところ、『毛詩』大明篇疏所引の宋襄公戦泓の一条を佚する外は、一つの遺漏もなかった。本書は王応麟の手になるものではないが、これを要するに、古義に心を潜めるものが作ったものである。謹んで編集補綴し、これを『四庫全書』に収録するものである。原書の二割にも及ばぬ分量とはいえ、系統だてて輯集された本書から原書の梗概を伺うことはできようし、鄭玄の学を修めるものも、これによって得るものがあるだろう。

(*1)おのおの「公羊を墨守する」、「左氏の病は膏肓に入っている」、「穀梁は不治の病に冒されている」の意。これを受けて鄭玄は、公羊の墨守を啓き、左氏の病を治し、穀梁を不治の病から起き上がらせるという意味で下記の書を著したとされる。
(*2)陳振孫の発言は『文献通考』あるいは『書録解題』に引用を見るが、この提要の主旨とはズレがある。
(*3)王応麟の『玉海』は類書として極めて有名な書物。原本はいちど失われ、現行本は孫の王厚の整理を経て出版されたものである。王厚の出版時、王応麟の他の遺著十三種も附録としてあわせて刊行された。すなわち四庫官の発言は、王厚ですら発見できなかった王応麟の遺著が、別人の手によって後世に伝わるはずがないという意味になり、言うまでもなく、まったく根拠のない憶測である。

春秋穀梁伝注疏

春秋穀梁伝注疏二十巻

内府蔵本

(晉)范の集解、(唐)楊士の疏。

この『伝』については、楊士の疏に「穀梁子、名は俶、字は元始、一の名は赤。春秋経を子夏より受け、経のために『伝』を作った」とあるのによれば、穀梁子の自作ということになる。しかし徐彦の『公羊伝疏』には「公羊高より相伝すること五世、胡毋生の時代にようやく竹帛に書き写し、その親師の名をとって『公羊伝』と名付けた。穀梁もまた竹帛に書き写した者が、その親師の名をとって『穀梁伝』と名付けた」とある。これによる限るならば、本書はその学統を受け継ぐ人の手によって作られたものということになる。

これについて『公羊伝』の定公即位の一条を検するに、「子沈子曰く」を引くが、何休の『解詁』はこれを後師(何休の注は隠公十一年所引の子沈子条下に見える)の説としている。この『伝』も定公即位の一条につき、「沈子曰く」を引いている。しかしながら公羊と穀梁はともに子夏を師としたのであれば、後師に学を授かる必要はあるまい。またこの『伝』は〔隠公五年の〕初めて六羽を献ずの一条において「穀梁子曰く」と称しているが、もし穀梁の自作であるならば、己の学説をこのような形で引くはずがない。それのみか、本条はさらに「尸子曰く」を引いている。尸佼は商鞅の師であり、商鞅が誅殺された後、蜀に逃亡したと言われる人物である。その在世もまた穀梁の後にあり、〔未だ存在せぬ人物の学説を〕前もって『伝』に引用することはできまい。これらから判断して、恐らくは徐彦の指摘が事実を伝えたものであろう。ただ誰が竹に書き写したかについては明らかにし得ない。

『漢書』芸文志は公羊と穀梁の二家の春秋経十一巻を載せ、『伝』についても各々十一巻とする。ならば経と『伝』はもともと別物だったのである。范の『集解』は経を『伝』にあわせて注解を施している。あるいは范が経と『伝』を合わせたのではあるまいか。

さて、定公元年の春王三月の一条は、「春王」二字の下で『伝』を発し、「三月」を別に下文と接続させており、その区分の方法には大いに疑問を生じさせるものがある。しかし劉向の『説苑』には「文王は元年に似たり、武王は春王に似たり、周公は正月に似たり」の一文がある。劉向は『穀梁春秋』の学を受けた人物で、『穀梁』の経文が「春王」二字を割いて一節としていたことを知っていたのである。そのため劉向は如上の読みをして見せたのである。

また〔隠公五年の〕公観魚于棠の一条、〔荘公三年の〕葬桓王の一条、〔成公九年の〕杞伯来逆叔姫之喪以帰の一条、〔同十三年の〕曹伯廬卒于師の一条、〔襄公三十年の〕天王殺其弟佞夫の一条は、いずれも「伝に曰く」の字を冠している。その中、ただ葬桓王の一条のみは『左氏伝』の所説と一致するが、それ以外はいかなる伝から引用したものか明らかにし難い。あるいは范が伝を経に付したとき、鄭玄や王弼が『易』に対して「彖に曰く」、「象に曰く」を用い〔て経の本文に十翼を割裂し〕た例のごとく、一条ごとに「伝に曰く」の字を冠したのではあるまいか。ところが後の世に本書を書き写したものがこれを削り去ったとき、この五条のみを削り損なったのではあるまいか。

范の注本は十二巻、その門生故吏、子弟の学説をも含み、各人の名を列したものであるが故に、「集解」と名付けられた。『晉書』范伝には「范の書は世間からもてはやされた。ほどなく徐邈がまた『穀梁伝』の注を作り、これもまた世間の評価するところとなった」とある。しかし本書について検するに、〔本書完成の後に成立したはずの〕徐邈の注をも多く引用している。その詳細については明らかにし難い。また『集解』の自序には「名例を商略し」なる句があり、疏もまた范には別に『略例』十余条があったと指摘する。ところが本書にはこれが存在しない。しかし注中に「伝例曰く」なる文字が散見される。あるいは楊士が『略例』本文を割裂し、注疏の中にちりばめたのではあるまいか。

楊士の詳しい官歴は不明である。しかし孔穎達『左伝正義』の序に「故四門博士楊士と参定す」とあるからには、貞観年間の人だということは分かる。その穀梁疏は孔穎達の〔撰した『正義』の〕博識に及ばぬとはいえ、左氏を扱うもの多く、公羊と穀梁に携わるもの少き中にあって、また依拠し得べき資料の乏しき中にあって、さらには『左伝正義』が多くの学者の手になるのに対し、本書は楊士ひとりの力に成り、助けとするもの少なき中にあったことに鑑みれば、内容の詳略に差違の生ずるのは、やむを得ないことであったろう。

なお〔現行本は文公十一年の〕長狄眉見於軾の一条に対する疏が上句の身横九畝につながっており、注と疏が乖離してしまっている。恐らく邢昺が〔『穀梁伝注疏』を〕校訂したとき、原書の配列を誤ったところが多くあり、楊士の原本とは完全には一致せぬのであろう。


※こちらは公羊伝注疏よりマシな感じはするが、全体的に推測の文章が多く、論断しているところも推測による部分が目立つ。よってあまり参考にならない。春秋三伝の研究は春秋学の花形だから、四庫提要が書かれた後もそうとう研究されたので致し方のないことではある。ただし決定的な資料を欠くが故に研究が盛んになるのであるから、もとより後世のいかなる研究も十分な信頼は置けない。したがって、春秋三伝については、何事につけ、よく分からないというのが真相といえる。

春秋公羊伝注疏

春秋公羊伝注疏二十八巻

内府蔵本

漢の公羊壽の伝、何休の解詁、唐の徐彦の疏。

本書について『漢書』芸文志は「公羊伝十一巻」といい、班固の自注は「公羊子、斉の人」といい(『漢書』芸文志の注記において、顔師古の名を冠さぬものは、すべて班固の自注である)、顔師古の注は「〔公羊子の〕名は高である」(これが『春秋説題詞』に拠ることは徐彦の疏に指摘がある)という。また徐彦の疏は、戴宏の序を引き、「子夏は公羊高に伝え、高はその子の平に伝え、平はその子の地に伝え、地はその子の敢に伝え、敢はその子の壽に伝えた。漢の景帝の時代、壽は斉人の胡母子都とともに竹帛に書き写した」という。これは何休の注も同じである(何休の学説は隠公二年の紀子伯莒子盟於密の条下に見える)

しかし『伝』の中には「子沈子曰く」、「子司馬子曰く」、「子女子曰く」、「子北宮子曰く」、「高子曰く」、「魯子曰く」等の表現があり、彼らはいずれも学統を継承した経師であろうから、『伝』のすべてが公羊子ひとりの手に成ったとは考えられない。また定公元年の『伝』に見える「棺を両楹の間に正す」以下の両句は『穀梁伝』にも引用を見るが、そこでは直に「沈子曰く」と書かれ、公羊の発言とはされていない。ならば姓名を記さぬ学説とともに、これもまた、『伝』のすべてが公羊子の手に成らぬ証拠の一つに数えられよう。とりわけ「子公羊子曰く」なる表現は、公羊高の手に成らぬことの明白な証拠といえるだろう。したがって、これらの点に鑑みるならば、『伝』が公羊壽の手に成り、胡母子都の補佐にかかるものであることは、疑いなきものといえる。旧本は冒頭に公羊高の名を署しているが、それはこの事情を熟知しておらぬことによるものである。

さて羅璧はその『識遺』において「公羊や穀梁はその高と赤の『伝』以外、前史および後世にその姓をもつものを見ない。万見春(*1)は『公羊と穀梁は、いずれも〔二字を一字に〕約めれば「姜」の字と同じ音になる(*2)。恐らくは姜姓の仮託であろう』と言っている」と指摘する(*3)。なるほど鄒を邾婁とし、披を勃鞮とし、木を彌牟とし、殖を舌職とする等々(*4)、経典の記載においても音の異同は認められる。しかし弟子が先師について記し、子孫がその祖父について述べるのに、本字が分からぬといって別に合声を用いることなど断じてあり得ない。羅璧の指摘は奇異を好む好事家の発言にすぎない。程端学の『春秋本義』に至っては、公羊高を漢代初期の人間だというが(*5)、これは講学家に見られる臆断にすぎず、ことさら弁解するにも及ばない。

三伝と経文とについて、『漢書』芸文志は各々巻帙を別にしている。そして『左氏伝』を経に付したのは杜預に始まる。しかし『公羊伝』を経に付したのが誰かは判然としない。何休の『解詁』を検するに、ただ『伝』を解釈するのみで経を解釈せず、杜預とは方式を異にしている。ならば漢代末期においては、いまだ経と『伝』は別行していたものと考えられる。また現存する蔡邕の石経残字についてみても『公羊伝』に経文はなく、先の〔何休の解釈方法〕とともに相互に〔漢代末期にはいまだ経と『伝』とを区別していたことの〕証拠と見なし得よう(*6)。

ところが現行本は『伝』を経に付している。これは徐彦が疏を作ったときに合わせたものであろうか。徐彦の疏について、『文献通考』が三十巻とするのに対し、現行本は二十八巻にすぎない。徐彦の作ったものは、経文を二巻にまとめ、『伝』の前に付していたものであったが、後世の人が〔経の二巻を〕『伝』の中に散入したのであろうか。そのため〔『文献通考』に比べて現行本は〕二巻だけ少ないのであろうか。詳細は不明である。

徐彦の疏は『唐書』芸文志にその書名なく、『崇文総目』に至ってようやく記載を見るが、そこでも「〔本書には〕著者名が記されていない。一説に徐彦の作という」と注記されている(*7)。一方、董逌の『広川蔵書志』は「世に徐彦の作と伝えられているが、いずれの時代の人間かは不明である。〔唐代後半の〕貞元・長慶以降の人ではあるまいか」と指摘する(*8)。疏を検するに、〔宣公十二年の〕邲の戦の一条によるならば、なおも孫炎『爾雅注』の完本を見得たようであり、したがって〔孫炎『爾雅注』の佚した〕宋代以前の人であることが分かる。また〔荘公三年の〕葬桓王の一条は楊士の『穀梁伝疏』を完全に襲っており、したがって〔『穀梁疏』の成った〕貞観以降の人であることも分かる。疏には自問自答が多いこと、文章は煩瑣で言葉も重複していること、邱光庭の『兼明書』と類似してことなどから判断して、唐代末期の文体とも考えられる。そうだとすれば上述の董逌の発言は理なしとしない。そこでこの度は唐逌の説に従い、徐彦を唐代の人としておきたい。

(*1)羅璧『識遺』巻三(左伝非丘明)に「郷先達万見春鎮嘗著論弁伝非丘明作」とあることから、姓は万、名は鎮、見春は字か号であろうことが分かる。また四庫提要によれば羅璧の本貫は新安(徽州)らしく、したがって万鎮も新安の人ということになる。なお饒魯の弟子にも同名の人物がいる。こちらの万鎮は字を子静といい、平江(蘇州)の人であるが、彼にも左伝十弁なる著があったという(宋元学案巻八十三、清一統志巻二百七十九)。
(*2)公または穀の子音と羊または梁の母音付近の音を合わせると姜と同音になるという意味。下の合声もこれと同義。
(*3) 『識遺』巻三(公羊穀梁)。
(*4) 鄒と邾婁は国名ないし地名、披と勃鞮は寺人勃鞮を、木と彌牟は公孫彌牟を指す。殖と舌職は羊舌職(羊殖)のこと。恵棟『左伝補註』成公十八年羊舌職条(清経解巻三百五十五)に「説苑作羊殖。殖為舌職合声」とある。説苑はその巻十一、善説、趙簡子問於成摶条(巻十一最終条)の一節を指す。ただし向宗魯の説苑考證は「左氏所称羊舌大夫為職之父、非職也。且此文云今臣不見五年矣、則是簡同時人、年代尤参錯不合」と疑問を残している。
(*5)『春秋本義』春秋伝名氏に指摘がある。
(*6)何休と蔡邕は後漢末期の学者で、杜預は魏晉時代の軍人、学者、政治家である。
(*7) 『崇文総目』は宋代初期の蔵書目録であるが、四庫提要執筆の清代中期には既に散佚していた。この引用は『文献通考』春秋公羊疏条所引崇文総目を引いている。
(*8)『文献通考』春秋公羊疏所引の陳振孫『書録解題』に引かれる言葉。


劉敞の権衡に取り組む精神的余裕がないので、とりあえず随分前に訳した四庫提要の校正をすることにしたが、三伝と繁露などを訳してなかったのを思い出した。ということで(?)、この公羊伝注疏を含めて六つしかないけど、ぼちぼちやっていこう。

と思ったけど、久しぶりの所為か最後の方は疲れた。最後の一段落はかなりいい加減なので、また明日にでも校正し直す。訳文の拙劣さはともかく、当時はよくこんなもの何十種類も訳す気になったものだ。我ながら頭がどうかしてるのじゃないかと思ってしまう。

ああ、念のため断っておくと、上の四庫提要の判断は出鱈目なので間違っても信用しないように。

四庫未収書(春秋類)10

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

劉絢の春秋著作

四庫未収書(春秋類)シリーズは今回で終わりの予定。

さて劉絢の春秋著作だが,これには少しやっかいな問題がある。以下,基本事項からさきに説明しておこう。
『読書志』

『劉質夫春秋』五巻
皇朝の劉絢質夫の撰。絢は二程の門に学んだ。伯淳はかつてこう言った。――「門人の中には機敏なものはいるが,それを持続できるものはなかなかいない。この人だけは全く心配するところがない。」正叔もこう言った。――「わが門に学ぶものは多いが,信じること篤く、得ること多く、行うこと果断で、守ること堅固なもので、質夫君のようなものはほとんどいない。」李参の序文が附されている。

『春秋伝』十二巻
劉絢質夫の撰。二程の門人。その師(二程)はしばしば褒め称えた。本書の解釈は簡明適切である。


ここに一つ不明の刊本が存在する。それは浙江にあるとされる『劉質夫先生春秋通義』12巻(存巻3至巻12)である。未見につきこの本の詳細は不明だが,目録にこの書物は確かに存在する。なお『四庫全書』所収の『春秋通義』1巻はこれと異なるとされている(四庫提要を参照)。

とまあ,普通はこれで終わりだが,劉絢の春秋学について調べたことがあるので,以下にそれを書いておこう。


まず『春秋通義』を実見できないことから,手元にある史料から劉絢の著書と学説を可能な限り再現する必要がある。そのためまず(1)劉絢の春秋著作の種類,(2)著作の動機・内容・性格,(3)佚文の蒐集の3つを抑える必要があるが,以下に述べる通り,劉絢の場合はこの3つをほぼ推測し得るため,『春秋通義』を実見するまでもなく,私の手元の史料でほぼ劉絢の春秋学説を想像し得ることになる。

ちなみにこの作業は『春秋通義』の真贋を見定める試金石にもなり得る。仮に首尾よく『春秋通義』を実見できたとしても,そのまま『通義』を劉絢の著作と認めてよいか否かは別である。突如出現した書物には常に偽作の可能性がつきまとう。随ってまずは可能な限り劉絢の春秋著作の特徴と佚文を蒐集を行い,それを以て現存文献と比較する必要が生じるからである。

(1)劉絢春秋著作の種類

管見の限り,劉絢の春秋著作を探索するに有益な史料は下の7種である。

Ⅰ)『読書志』の『劉質夫春秋』五巻
Ⅱ)『書録解題』の『春秋伝』十二巻
Ⅲ)『程氏外書』引用書目の『程氏学』十巻(中五巻)
Ⅳ)劉絢墓誌銘の「平時有遺藁未就」(未完成)
Ⅴ)『外書』第12の「伊川没後方見之今世『伝』解至閔公者」(閔公まで)
Ⅵ)李明復『集義』諸家姓氏事略の「惟〔謝〕有全書,〔劉〕絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。(謝は程頤の弟子。『程氏雑説』『程氏学』)
Ⅶ)同上の『十三家春秋集解』

この中,Ⅳの墓誌銘(『伊洛淵源録』所収)は李籲(端伯)の手になる。李籲は劉絢と同じく程頤の門人で,また劉絢とも交友が深いばかりでなく,外兄弟であり,劉絢の没後半年あまりで歿した人物である。そして李籲の弟が『読書志』に見えた李参である。随って,李籲の手になる墓誌銘の記述は極めて信憑性が高い。

墓誌銘にはこうある:

君自幼治春秋、其学祖于程氏、専以孔孟之言断経。将没之時、尚以類例質于大夫君。平時有遺藁未就。


ここから判断して,劉絢の春秋著作は未完成であるが,遺稿は残っていたと断じて間違いない。
この記述はⅤの指摘とも合致する。

昔劉質夫作春秋伝、未成。毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作之。自不須某費工夫也。」劉伝既成、来呈伊川、門人請観。伊川曰:「却須著某親作。」竟不以劉伝示人。伊川没後、方見之今世『伝』解至閔公者。(『外書』第十二。『全書』39-18a。祁寛所記尹和靖語)


尹和靖は尹焞のことで,程頤晩年の弟子である。ちなみに劉絢は程頤初期の弟子であり,その死亡時には尹焞は程頤の門に入ったか否かの時期であり,その意味から言って上の尹焞の発言を盲信することはできない。特に劉絢の解釈を否定的に捉えたところは,同じく程頤の同門であり,また程門四先生の号を得た謝良佐の「其門人惟劉絢得先生旨意爲多」にも矛盾する。概して尹焞は程頤を美化し過ぎる傾向にあるため,劉絢の春秋学説の得失については少しく割り引いて考えておく必要があるだろう。

しかし劉絢の遺著についてはまた別である。著書はモノであって評価とはことなる。随って尹焞が劉絢の遺著を見たというのは嘘ではあるまい。その指摘によると,劉絢の春秋学説は「閔公」に止まっていたということになる。だいたい春秋の三分の一前後の分量である。

以上が劉絢没後の状況なのだが,ⅠとⅡの間を埋める史料はないだろうか。ここに最も参考になるのがⅢの『程氏学』である。そもそも『読書志』の「劉質夫『春秋』」という書名はまた奇っ怪である。あるいは『読書志』のミスであろうか。恐らくそうではなく,本書は『春秋』で正しいのだと推測される。その理由はこうである。

程頤の語録に『程氏外書』というものがある。これは朱熹が必ずしも出典明確でないも程子の言葉を蒐集したものだが,朱熹は自分の蒐集した史料の性格を目録に書き付けている。その蒐集書目の一つに『程氏学拾遺』なるものがあり,こう指摘する:

程氏學拾遺
李參録。參、端伯之弟、學於伊川先生。此書十巻、其巻五乃劉質夫『春秋解』、其五巻雜有端伯・質夫・入關諸篇。


朱熹の指摘によると,『程氏学』は李参の編集になり,全十巻。しかし半分の五巻は劉絢の春秋解が占め,残りの五巻が程氏の言葉(端伯・質夫・入関などの篇と類似のもの。端伯などは『程氏遺書』の篇名)だったという。『読書志』の『春秋』は全五巻,そして李参の序文付きであった。ならばそれは『程氏学』の五巻分を独立させたものか,半分が分離したものと見なし得る。随って『読書志』の『春秋』とは,『程氏学』の「春秋」という意味だと推測される。逆に言えばⅠとⅢは同一系統の板本ということにもなる。

既に触れたように,李参は李籲の弟であり,劉絢と極めて近い関係にある。広い意味での遺族であり,また同門の兄弟子でもある。その李参が序文を付して刊行したものが『程氏学』就中『劉質夫春秋(解)』であったならば,この五巻本は劉絢春秋学説の最初期のものの1つに数えられるだろう。

しかし気になるのは『読書志』に『劉質夫春秋』の未完成について言及のないところである。書物の完備すると否とは一見して明らかなので,ここに何等発言が見られないのは疑問を遺す。そこで次にⅥとⅦの史料が頼りとなる。

Ⅵには程頤の説明して次のようにいう。

〔程〕頤,之弟。終西京國子監教授。諡正。頤傳春秋,雖無全書,然論春秋大法,則一序盡之矣。其他見於門人記録,有果為頤之言者,有得其意而非其言者。其徒謝、劉絢,最得其意,亦各為傳。惟有全書,絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。頤於春秋,發明大有功。至胡安國,遂廣其説,而春秋之義明矣。(『集義』巻首,諸家姓氏事略)


Ⅶは劉絢について:

〔劉〕絢,字質夫,河南人。以通春秋召,為太學博士。有人問程頤春秋學,曰:「已令劉絢作傳。」絢傳成來呈頤曰:「却看頤親作據。」尹焞謂:「程傳竟不成書,劉傳亦不出。」然今世傳『程氏雜説』首卷所載皆絢傳,而李參所編『程氏學』自言:「併程子語録之。」今『十三家春秋集解』,皆目為程解誤矣。臣今亦不能別其孰為程,孰為劉。各按其書為標題,亦疑以傳疑焉。若其師友淵源之學,則昭若日星,無可疑也。若夫朱熹所定『程氏經説』,自有『春秋傳』二卷。胡安國毎援以為據,與今劉傳不同,是則為程傳。又何疑焉。(同上)


これによれば『程氏雑説』冒頭に劉絢の春秋伝が掲載され,さらに『程氏学』(劉質夫春秋)には程子の発言を併存させていたことが知られる。また『十三家春秋集解』所収劉絢学説は『程氏学』系統であろう。『十三家春秋集解』は何を指すのか不明であるが,呂祖謙『春秋集解』である可能性もある。(*1)

(*)呂祖謙『春秋集解』所引姓氏を,三伝,陸淳,孫復,劉敞,孫覺,蘇轍,程頤,劉絢,許翰,胡安國,呂本中と数えるならば十三家になるが,陸淳を啖助・趙匡・陸淳,三伝を三伝注疏に解体するなら,十五家~二十一家となる。ただし以下に論ずる通り,呂祖謙の『集解』である可能性もあるが,推測の域を超えない。

試みに李明復の『集義』から『程氏雑説』と『程氏学』を蒐集すると,『程氏学』は濃淡あるものの比較的全書に散見するが,『程氏雑説』は閔公で引用が止まっている。閔公というのは,既に見たⅤ尹焞の指摘に合致する。ならば『程氏雑説』所引の劉絢春秋学説は尹焞の見た「閔公まで」の本と同系統のものと推測される。以上から次のことが明らかになる。

まず劉絢春秋著作:

程氏学系統‐『読書志』の『劉質夫春秋』五巻(Ⅰ),『程氏学』五巻(全十巻)(Ⅲ・Ⅶ),未完成遺稿(Ⅳ),『十三家春秋集解』所収劉絢学説(Ⅶ)の系統。
閔公系統‐閔公以前の未完成著作(Ⅴ),『集義』所引『程氏雑説』(Ⅶ)
十二巻本‐『書録解題』の『春秋伝』十二巻(Ⅱ)
現行本‐『春秋通義』十二巻(存十巻)


この中,程氏学系統と閔公系統の関係は定かでないが,いずれも程門関係者から出たものである。ただ十二巻本は不明と言わざるを得ない。春秋学に於いて十二巻というのは意味があり,通常は十二公一巻の全巻完備の書物を指す。随って普通の意味からすれば,十二巻本は全巻完備の劉絢の学説とも推測できるのだが,果たしてその内実はどうであろうか。後述のごとく『程氏学』の佚文も一応は十二公満遍なく存在する。佚文にして然りとすれば,あるいはそこに程頤の学説を付加して分量を増やし,十二公一巻に編集しなおせば,『程氏学』系統のものも十二巻本にならないではない。しかしいずれにせよ推測の域を超えない。

(2)著作の動機・内容・性格

劉絢がなにゆえに春秋を研究したのかは不明だが,その重要な要因の1つに師の程頤が関わることは否定できない。

そもそも程頤は五経の注釈を志していたとされ,『周易』は自分が,他の経書は門人に各々注釈を任せていたとされる(尹焞『師説』)。劉絢はその中の一人として『春秋』を担当したらしい。

劉質夫作春秋伝、未就、毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作。自不須頤費工夫也。」劉伝既成、門人斯観、伊川曰:「却須著頤親作。」竟不以人。伊川没後、方見之。(『伊洛淵源録』。但し『外書』所収文書には異同がある。何れも祁寛所記尹和靖語。)


とあるのがそれである。これがどの程度信頼できるか不明だが,既にみたように劉絢の遺著も決して完成したものではなかった。あるいは後々研鑽を積み続けた程頤から見れば,劉絢の学説にはまだまだ満足できなかったのかもしれない。しかしだからといって劉絢の学説が全く取るに足りないものであったとは考えられないことは,謝良佐の言葉について見た通りだが,それは2人の解釈文の類似からも推測できる。一例に劉絢の学説として知られる極めて特殊な解釈を引いておく。

紀侯大去其国

程頤語録。曰:「紀侯大去其國」、大名、責在紀也。非齊之罪也。齊侯陳侯鄭伯遇於垂、方謀伐之、紀侯遂去其國。齊師未加而已去。故非齊之罪也。(『遺書』巻17、179。張洽『集注』にも程氏曰として引かれる)

紀侯大去其國、自去也。大者、紀侯名也。生名之、著失也。按:元年齊師遷紀郱鄑郚、逼遷其邑、志固在於滅矣。然兵未始加乎其國、而紀遂不能守。故三年秋紀季以酅入於齊、至是而紀侯大去其國也。夫守天子之土、承先祖之祀、義莫重焉。雖天下無王、諸侯不道、借使齊以兵臨我、猶當率臣民、申固備禦、而爲之守、不幸而力不足者、則亦死之可也。惡有使弟以邑入齊、而已委國去之哉。先儒或擬以太王之事過矣。苟有太王之徳、民從之如歸市、則爲之可也。彼尚未能效死而勿去、何太王之足議哉。故曰紀侯大去其國、自去也。梁亡、自亡也。鄭棄其師、自棄也。齊人殱於遂、自殱也。四者皆自爲之也。(『程氏学』。呂祖謙『集解』も冒頭部分のみ引用する)


通常これは「紀侯,其の国を大去す」と訓む経文である。然るに程頤はこれを敢えて「紀侯大,其の国を去る」と訓んだ。「紀侯大去其国」の「大」を紀侯の名と解釈したのである。これは程頤にしてみれば合理的な解釈なのだが,春秋学上,極めて特殊な解釈に属する。もちろん劉絢もこの学説を踏襲し,「大」を「紀侯の名」としている。

劉絢に対して「胡氏伝文、大概本諸程氏。程氏門人李参所集程説、頗相出入、而胡氏多取之。」(『宋元学案』武夷学案)と評されるのも故ないことではない。仮に程頤が劉絢の学説に満足できなかったにせよ,尹焞の発言の如く,さも劉絢の解釈が程頤と相当乖離していたように捉えるのは間違いである。むしろ逆に,程頤が『春秋』の伝を任せるほどに,劉絢の春秋学説は師程頤と相当接近していたと見なすべきであり,極めて細かい部分,随って自己の注釈の一字一句に至るまで責任を持てるほどに摺り合わせていなかったものと理解される。もとより完全な納得を求めるならば,程頤本人が注釈を執筆するより外なかったであろうし,事実劉絢が死んだ後は程頤みずから執筆に乗り出すのである。

最後に劉絢の春秋学説の特徴について一言しておく。これは程頤の春秋学説が孫復と類似しているのと同様である(孫復ほどに鋭利とは思えないが)。左伝によって事柄を確認し,経文によってそれを検証し,経文と三伝とが矛盾する場合は経文を優先させた。そしてその根本には尊王の思想が横溢している。

元年、隠公之始年。春、天時。正月、王正。書「春王正月」、示人君當上奉天時、下承王正。明此義、則知王與天同大、人道立矣。周正月、非春也。假天時以立義爾。平王之時、王道絶矣、春秋假周以正王法。隠不書即位、明大法於始也。諸侯之立、必由王命、隠公自立、故不書即位、不與其爲君也。……(程頤『春秋伝』)

元年者、始年也。春者、天時也。月者、王之所建也。書春王正月者、若曰上奉天時、下正王朔云爾。董仲舒所謂「道之大原出于天、求端于天」是也。堯之大政、所先者欽若昊天、茲可見已。王者所行、必本於天、以正天下、而下之奉王政、乃所以事天也。春秋、天子之事。故先書曰春王正月、然後是非褒貶。二百四十二年之事、皆天理也。(『集義』所引程氏学)


ちなみに孫復の学説を引いておくと:

孔子之作春秋也,以天下無王而作也,非為隱公而作也。然則春秋之始於隱公者,非他,以平王之所終也。……平王庸暗,歴孝逾惠,莫能中興,播蕩陵遲,逮隱而死。夫生猶有可待也,死則何所為哉。……『春秋』自隱公而始者,天下無復有王也。夫欲治其末者,必先端其本;嚴其終者,必先正其始。元年書王,所以端本也。正月,所以正始也。其本既端,其始既正,然後以大中之法,從而誅賞之,故曰「元年春王正月」也。隱公曷為不書即位。正也。五等之制,雖曰繼世,而皆請於天子。隱公承惠,天子命也。故不書即位,以見正焉。(『尊王発微』巻1)


また紀侯大去其国でも見たように,北宋の春秋学説によく見られる新説の発表(当時の言葉では「経旨の発明」と言った)にも余念がなかった。

先ほどは紹介に止めたが,紀侯大去其国の大がなぜ人名と見なし得るかというと,滅国の君主は生きながら名を書されるというのが春秋の書法だからである。通常,春秋経文は国君の名を書くことがない。あくまでも某侯,某伯,某子と爵を書き,死亡時のみ国公某と名を書くのである。君主は死んだときにのみ名を書かれるのである。しかるに生きながら名を書かれる場合がある。それが滅国の君主である。国が滅ぼされたとき,君主はまだ死んでいないのに名が書かれるのである。(衞侯燬のような貶文とみなす場合もあるが,これは後段の衞侯燬卒が上に誤写されたと解釈される場合があって春秋学上の難解の1つになっている)

ならば紀侯は斉に国を滅ぼされたのだから,名を書かれるべきである。従来の学説では紀侯は賢君だったが,齊侯の暴虐の前にやむを得ず国を去った(紀は滅びた)ため,聖人はそれを惜しんで名を伏せ(経文に書かなかった/削った),「大去」の二字を加えたとされる。しかし程頤は一貫した書法を追求してか,「大去」を「大いに去る」ではなく,「大,去る」と訓んだのである。

書法の一貫性を求めすぎると自滅するというのが春秋学の不文律だが,北宋には書法(時に義例)の極端な一貫性を求める学者が登場する。程頤もその仲間の1人だったと言えるだろうし,逆にそう言えるのであれば,程頤の春秋学説,随って劉絢の春秋学説は極めて北宋的な学説であったとも言えるであろう。

(3)佚文の蒐集

最後に劉絢春秋学説の佚文を蒐集しておく必要がある。劉絢の佚文は南宋から元朝にかけて広く散見するが,その中心となるのは既にみた李明復『春秋集義』(程氏學および程氏雑説)と呂祖謙『春秋集解』であり,他に胡安国『春秋伝』,張洽『集注』,家鉉翁『詳説』,戴溪『講義』,程端學『本義』,陳深『読春秋編』,兪皐『釋義大成』,呉澄『纂言』,李廉『會通』,鄭玉『闕疑』,汪克寛『纂疏』(および『春秋大全』)がある。

以上から佚文を蒐集し,経文ごとにひとまとめにすると,劉絢の学説は佚文間で増減はあるものの,基本的に一致する。しかしごく稀に程頤の『春秋伝』と合致する場合がある。これはもともと程頤と劉絢の学説は類似しており,さらに両者の学説が混ざって世に出ていたことを考えると,単純な引用ミスと考えられる。

それ以外の特徴は,まず引用間の重複が多い。これは後行の書物が先行の書物から孫引きした可能性も充分考えらるが,同時に劉絢の学説として引用に足る部分は概ね諸学者の間で一致していたということでもある。ちなみに『程氏雑説』は重複引用文が少なく,本書が『程氏学』系統のものに対して特殊な史料であった可能性もある。

他に『程氏学』や『程氏雑説』『呂氏集解』未収に関わらず,張洽『集注』や程端學『本義』にのみ見える学説もある。これは劉絢の著作が何らかの形で南宋後半から元代まで現存していた可能性もあるが,逆に程頤の学説の誤認,引用姓氏の誤植なども充分考えられ,軽々しく判断できない。

(☆本来はここに佚文一覧を掲げるべきなのだが,分量が多いし,使う人もいないだろうから省略する)

以上が劉絢の春秋著作に対する調査結果(というほどでもないが)である。本来はここに現行本との比較を行い,現行本の得失なり,輯佚作業の得失を書いておくべきなのだが,残念ながら現行本未見につきそれは適わない。


いや~,むかし劉絢で論文でも書こうかと思って史料を蒐集したものの,現行本の存在に気がついて諦めたのを思い出した。懐かしい思い出だな~と言いたいところだが,苦々しい思い出だ。ちなみに個人的な所感を言わせていただくと,劉絢の春秋学に価値はない。確かに程門の春秋学の流れを調べる場合には,劉絢ははずせない人間である。程頤と楊時と胡安國の間に,劉絢と謝がおり,しかも謝の解釈は李明復『集義』にほぼ全文残っているのだから,劉絢や謝の学説を輯佚し,それらと楊時・胡安國らと比較したり,または程頤の佚文を蒐集して程頤の『春秋伝』の流伝過程を調べたりと,その他にも調べなければならないものは多い。

しかしそれはあくまでも程門の春秋学を調べるためであって,春秋学というものに正面からぶつかるつもりなら,劉絢の春秋学説など知っていようがいまいがほとんど価値はない。珍しいものは呂祖謙の『集解』に収録されているのでそれでこと足りる。

とまあ,その程度のものなわけだが,なくなった書物を復元したり推測するのは,研究価値とは別個におもしろさがあることも否定できない。


そうそう劉絢の史料が欲しい人はご連絡ください。完璧なものではないけど,まとめただけのものならExcelデータで持っているので。ただしこれを使って失敗しても知らないよ。

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ジャンル : 本・雑誌

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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