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大観の時代

大観元年
正月に早速蔡京が復帰。
二月に章楶の息子がらちられる。
三月に趙挺之が失脚。
五月、張懐素の獄。元祐学術関係の禁止が出ている。蔡京が復帰したからだろうか。
九月、章楶の子どもの獄が備わる。政府高官の息子の疑獄事件だからか結構長いな。この少し後で崇寧五年の詔に応じて政治を批判した人々が処罰されている。さすがは中国だな。諫言しろと命じておきながら、本当に諫言したら処罰される。実にたのもしい。崇寧五年の詔は彗星があらわれたときに出た詔。正月のこと。蔡京が失脚して、しばらくして趙挺之が復権した。
十月、張商英がめっちゃ処罰されてる。

大観二年
正月、と思いきや、元祐党人の軽度な連中は許されてる。ええ加減だな。もっと徹底しろよ。
三月、孫固らの元祐党人が籍から抜けている。うーん、理由があるんだろうか。
六月、韓維らの元祐党人が籍から抜けている。そういう時期なのかな。あ、元祐党の罪がうんたらかんたら述べてる。続いて韓忠彦・蘇轍・安燾が許されはじめている。文彦博も。孫固とか韓維は正直大物ではあっても大したことをしてないから、わからんではないが、蘇轍は許してはいかんだろう。
九月、皇后王氏が崩ず。
十二月、張商英が自便。

大観三年
六月、蔡京が失脚。有名な石公弼の弾劾か。かわって何執中が宰相に。何執中がぼろくそにいわれたのもこの時代なんだな。張商英もちと許されてる。已出籍人の例に依るとあるので、張商英は元祐党人ではないんだろうなあ、公式には。
七月、章楶の息子が許されてる。うーむ、わざわざこの記事を残したところに恣意性を感じざるを得ないな。趙挺之の奪官ももとにもどされてる。
十一月、蔡京が太師致仕。毛注がぼろくそに批判したらしいが聞き入れられなかったらしい。うーむ、毛注というのもおもしろいやつだな。蔡京も権力を握っているわりに、自分の批判者のすべてを追放できたわけでないところが笑える。

大観四年
二月、おお、「自今官司の移文の元祐奸党及び党人と称す者、並びに係籍・出籍人と称せ」。ふむ。
三月、でも陳瓘は息子の偽証で左遷されてる。かわいそうに。上書邪等も無過人例に依るらしい。ふむ。なにか融和ムードですね。
四月、蔡京が哲宗実録を献上している。
五月、章惇も許される感じ。蔡京も追い詰められている。
六月、張商英が宰相に。忘れていたが、張商英が復権する時代だったのか。だから党禁が甘くなったのだろうか。
七月、曾布も許される感じ。
閏八月、朋党の厳禁。今更感がある。
十月、鄭氏が皇后へ。
十一月、陳瓘も自便が許される。

今日はここまで。次は政和から。政和に蔡京が復活するはずなので、ちと楽しみではある。

崇寧四年と五年

崇寧四年正月、童貫大活躍。
閏二月、上書邪等の禁が少し緩くなってる。
三月、趙挺之が右僕射兼中書侍郎。九鼎ができた。西北の戦いと礼制と左遷劇が入り交じってややこしいな。このあたりはリンクしてるのかどうかよくわからない。文化事業(礼制)のようなしょーもないことは読んでいても楽しくないから、ついつい飛ばしてしまう。
五月、党人の禁がさらに緩んでる。
六月、趙挺之が中太一宮使。

崇寧五年
正月、彗星が現れて元祐姦党碑が破壊されている。この月は復権が盛んに行われる。
二月、蔡京が罷免されて趙挺之が復権。
十二月、劉逵が失脚。

眠たいから今日はここまで。


だらだら

紹聖の時代は粛清のあらしでおもしろいが、さすがに飽きてきた。で、私の中で整理できずにいる徽宗の時代にでも足を伸ばしてみよう。あの時代は名臣とかいないから、仁宗の時代とかとちがって鼻につくような話もすくないだろう。

焦って調べる必要もなし、また発見をしなければならない必要もなし、他人の研究成果を調べる必要もなし、だらだら調べればよかろう。

ということで、まずは十朝綱要あたりからはじめよう。で、正しいのか正しくないのかよくわからないことを、ここにだらだら書いていくことにする。

そうそうみじん切り機(手動)を購入したところ、あまりにもよく斬れる刃だったので、おもわず指を傷つけてしまった。すごい切れ味だった......。餃子は普通のできだった。

...
......
.........
............とりあえず江公望があほだというのはわかった。いや、わかっていたような気もするが。
というか、建中靖国の時代、韓忠彦はほんとなにもしてないな。この人は何がしたかったのだろうか。それともするだけの力がなかったのだろうか。左僕射になって、左僕射を辞めたこと以外、なにも特筆すべき事がない。これだけ無能な宰相もめずらし......くはないが、ほめられたものではないな。

よくいわれるように、韓忠彦は無能、言官(陳瓘先生とか江公望のあほとか)は活躍するが今ひとつ世論をリードできず、曾布は活躍するも大きい影響力をもちえず、鄧洵武と蔡京の犬のような温益が活躍して、崇寧を迎えるという典型的でコテコテの展開が記されてあった。しかし曾布はなぜこうも影響力がないのだろうか。あるいは章惇もそんなものだったのだろうか。蔡京とどうちがうのだろうか。

蔡王の獄。
趙諗(ちょうしん)の謀反。なんじゃらほい。
愛莫助之図。

崇寧
元年
正月にさっそく元祐党が処罰。
五月に韓忠彦が失脚。即処罰。
閏六月に曾布が失脚。
九月~十月の記事にいろいろな左遷がまとまってる。が、これって上書邪等ではなかったかな。元祐党とは少しちがうような気もするが。
元祐皇后のこともあったな。忘れてた。
いや、上書邪等は十一月だったのか。九月のとは別だったのか。ややこしいな。
十二月には対西夏作戦の責任を問われて安燾らが処罰されている。

二年
五月にまた曾布がささいな請託がばれて処罰される。
六月に上書邪等がまた出て来てる。元年のとはちがうのだろうか。
八月にふたたび対西夏作戦の責任を問われて安燾らが処罰される。
あいかわらず粛清がはなはだしい。結構なことだ。

三年
正月、どうでもいいが蔡攸が出て来た。
二月に蔡王の不祥事(壁に穴を開けて遊びに出かけていたこと)がでてる。こんな愉快なはなしもあったんだな。それはそうと章惇と王珪は元祐党とは別に一党として不忠の扱いをうけている。元祐党の中に一括されることもあるが、分けることにはなっていたのだろうか。当たり前なんだが。
編類元祐臣僚章疏。張康国がまとめたというのが皮肉だろうな。
童貫と王厚が活躍しまくっている。
六月に元符末の姦党が元祐党に合流している。上書邪等とはちがうんだったかな。わすれた。また安燾が降格されてる。かわいそうに。
十月、張商英がめでたく元祐党へ。

今日はここまで。

返信

サイトの方によく分からないメールが来ていた。内容から判断して中国人が書いたようであり、また迷惑メールとも言いがたいが、さりとて断定もできないので、返信めいたものを下に書いておく。

ちなみにメールにはReとあるが、それ以前に送られた形跡がないので、何の質問だったのか、あるいは文句だったのか、今ひとつ判断しかねる。

宋史紀事本末の訳に:
十一月、美人の張氏が死んだ。皇后を贈った。

と書いたのは、原文が:

十一月美人張氏卒追冊為皇后

となっていたからに過ぎない。「追册」の「追」をどう処理すべきか迷ったあげく、訳出しない方針で進めたのだろう。今となってはもう覚えていない。本当なら、「美人の張氏が卒した。皇后を追册した」と訳しておけばいいと思う。

宋史紀事本末はざっと読む分には楽しいが、厳密に考証されたものではないから、まじめにいちいち事の典拠を注にあげていない。もちろんこれを訳すとき調べてはいるが、調べたことを訳文に載せたわけではないし、かつて調べた資料も既に手元にない。

以上。


以下、関係ない話。

春秋権衡が進んでいない。それはともかく、春秋権衡に拘束されているような気がする。鬱陶しいので春秋権衡はしばらく止めにしよう。

宋史全文を読んでいたら

きのう寝る前に宋史全文をぱらぱらめくってみた。まあ5,6ページで寝てしまったんだけど。

恥ずかしながら始めて気がついた。劉安世は宣和七年の六月に死んでいたのか。この年の十二月には金軍が開封府を圍むので、北宋滅亡の半年~一年ほど前に死んだことになる。劉安世は元祐党人のなかで最も長生きだと言われてるが、さもあらん、こんな時期まで生きている人もめずらしい。後輩の陳瓘の方が先に死んだくらいだものな。もっとも陳瓘が死んだのも前年の二月だけど。

もう一つ発見があった。コウモリやろうで有名な楊畏は、章惇にとりいるために「元祐の時代にも朝廷で働いてましたけど、心は煕寧元豊にありました」とかしょーもないことを発言したらしいのだが、事の経緯がよく分からなかった。本伝の書き方も不明朗なところがある。これについて宋史全文に次のような記事が載っていた。

己未、楊畏為吏部侍郎。初、呂大防既超遷畏、畏知章惇必復用。有張擴者、惇妻之姪也。畏見擴致意云:「畏度事勢輕重、因呂大防・蘇轍以逐劉摯・梁輩、又欲并逐大防及轍、而二人覺之、遽罷畏言職。畏迹在元祐、心在煕寧・元豐。首為公闢路者。」及惇赴召、百官郊迎、畏獨請間、語多斥大防。有直省官聞之、歎曰:「楊侍郎前日謟事呂相公、亦如今日見章相公也。」惇信其言、故又遷畏吏部。(紹聖元年五月)

そうだったんだね。

もう一つ、宋史全文には縦書き簡体字の校点本が出版されている。この校点本、四庫本を底本にしたのは構わないが、なぜか他の版本と校勘していない。参考に長編とか宋會要とかを用いたに過ぎないらしい(前言による)。

宋史全文は明刊本が宋史資料萃編に入っている。ただこれはあまりにボロボロなので、闕文が多すぎて底本にはしにくいが、校本には必須だろう。中国には他の明刊本もありそうだし、だとすればボロボロ本じゃなくて、美しい本もあるかもしれない。校点本がなぜそれらを一切無視したのか不思議だ。つてがなかったのかね?だとすれば大いに納得できる。

それはそうと宋史全文(北宋の部分)なんて何の役にも立たないと思っていたけど、通して読んでみると案外いろいろと勉強になった。って、まぁいまさら勉強して何の役に立つんだという話ではあるんだが。

以下、関係ない記事。

ウィキを支えた無償投稿カルチャーの落日

当たり前のことを偉そうに書かんでもええのにな。ネットだけが特別ではあるませんぜ。

どんなものでも価値のある情報は買うか盗むかしないと手に入らない。どこのだれが金になる情報をただで流すんだよ。それ相当の見返りがあってはじめて人間は努力する。もちろんごくごく限られた特定多数の人間のために無償の労働をすることはあるけど、それは文字通り特定の人間のためだ。

他人の善意が悪いとは思わないし、そういう善意に助けられたなら素直に感謝すればいいのだが、そんなものを当然だと思ってはならない。いや、そういう善意は危険なんだ。恩恵は文字通り与える人間の一方的な行為だから、与えるも自由なら与えぬのもまた自由だ。恩恵なくして生きていけないというなら、その人はその瞬間に恩恵を与える人間に生殺与奪の権を握られたことになる。

ま、どーでもいいけど。ネットの世界が普通の世界と同じになるだけで、人間にできないことができるはずもあるまい。

何気なく調べてたら熊本崇氏が論文を書いてた。「宋元祐の吏額房」(『東洋史研究』69、2010年)。毎年1,2本論文を出してたのが去年はなかったので気になっていたが、今年はふつうに出るのね。ファンの一人としては是非とも読まねばなるまい。って、三ヶ月ほど出たことに気づかなかったんだけど。......人の論文のこと書いていいのだろうかと思ったが、ネットで公表してるくらいだからかまうまい。ああ、念のため書いとくけど、私は熊本先生に会ったことないよ。見たこともない。単に論文が好きなだけ。

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Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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