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『春秋学入門』5-3

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第五論文

(つづき)

〔公穀二伝の得失〕

公羊と穀梁の二氏は、もとより仲尼に経を受けた人々ではない。両書記載の事は、多く伝聞に基づいている。また国史を見なかったため、その事には誤謬が多い。記述された事に目を瞑り、その理を読み取るならば、確かに精確なところはある(*22)。しかし理に害のあるところも相当ある。これは正しき知識を求めようとする者(*23)が、よくよく弁えておく必要のあるところである。

公羊は隠公と桓公の貴賤に対して、「子は母の故に貴く、母は子の故に貴い」(*24)と言う。確かに「子は母の故に貴い」は正しい。しかし「母は子の故に貴い」は本当に正しいのだろうか。この言葉を広げて考えればどうなるだろうか。――正母の地位を窺う後世の妾母たちは、みなこの言葉を根拠としたのである。穀梁は世子の蒯聵に対して、「父の命を受けて祖父の命を辞退すれば、祖父を尊ばぬことになる。〔父の命を〕受けぬのは、祖父を尊んだのである」(*25)と発言する。確かに「祖父を尊ぶ」ことは正しい。しかし「父の命を受けぬ」ことは本当に正しいのだろうか。この言葉を推し広げればどうなるだろうか。――父子の争奪を啓いた後世の人々は、みなこの言葉に口を藉りたのである。

「晉の趙鞅 晉陽に入り以て叛く。趙鞅 晉に帰る」(定13)に対して、公羊と穀梁は「経に『帰る』と書くのは何故か。地でもって国を正したからである」と言う。このため後世の臣子の中には、領地で叛乱を起こしながら、「君側の小人を排斥する」と発言するものが現れた〔補2〕。「公子結 〔陳人の〕婦に〔鄄に〕媵し、遂に〔斉侯・宋公と〕盟す」(荘19)に対して、公羊は「大夫たるもの君から命は受けるが、辞は受けない。国境を出た場合、社稷を安んじ、国家に利をもたらし得るならば、独断してもよい」と言う。このため後世の人臣の中には、異国の地で事を起こしながら〔校1〕、「社稷を安んじ、国家に利をもたらすのだ」と発言し、独断専行するものが現れた〔補3〕。祭仲が〔宋に〕執えられ、鄭忽が出国することになったのは、祭仲に罪がある。ところが公羊は「反経の権に合している」と言う。このため後世あたかも囲碁を打つかの如く、君主を廃置するものが現れた〔補4〕。

聖人が経を作ったのは、理を明らかにするためである。ところが伝を作った人々は道理が分からず、勝手な発言をし、このため是非が顛倒し、義理の弁別が失われた。その行き着くところ、下の者が上の者のまねごとをし、卑しき者が尊き者を凌ぎ、父と子が対等となり、兄弟が仇敵の関係に陥った。大臣〔校2〕でありながら、兵を国都に向け、国外に出ては独断専行を行った。かくして国家は姓を易えた(*26)。ところが大臣たるもの、かえってみずから徳を称えて恥じぬ有様である。君としては武帝(*27)の如き、臣としては雋不疑(*28)の如き、いずれも春秋をもって国論を定めると言いながら、その非を悟らなかった。

以上はとりわけ害のあるものだが、これらはすべて事の実を見誤ったことによるのである。だからこう言うのだ。――結局のところ三伝は事の実を見誤っているのだが、公羊伝以上に過失の多いものはない。そして何休・范・杜預の三家は各々自説を唱えたが、何休以上に過失の多いものはない、と。

〔訳者注〕
(*22)第五論文冒頭の「公穀二伝は理に深い」を承けて言ったもの。
(*23)朱子学の用語。「知(知識)を致(極)める」こと。
(*24)隠公元年の公羊伝に見える。正妻の子は貴いが、妾の子は卑しい。したがって妾の子がたとえ君主になっても、母(先君の妾)は妾のままである。しかし公羊伝のように「母は子の故に貴い」ことを認めれば、庶子が君主になった場合、その母(庶母)を先君の正妻と認めることができる。これは儒学の倫理観に悖る。この公羊学説は宋代によく批判の対象となった。
(*25)哀公二年の穀梁伝に見える。蒯聵は衛霊公の子で、父の霊公に国外追放された。その霊公の死後、蒯聵の子の輒が後を継いだ。このため蒯聵は衛の君主になるべく帰国したが、息子の輒に拒まれた。穀梁伝の「父」は蒯聵を、「祖父」は霊公を指す。
(*26)易姓革命のこと。
(*27)前漢の武帝。
(*28)雋不疑は儒学をもって名を知られた前漢の政治家。『漢書』巻41に伝あり。呂大圭の批判は、次の発言に向けられたものであろう。昭帝の時代、衛太子(武帝に廃された皇太子)を名乗る人物が現れた。朝廷の大臣はその処遇に迷ったが、不疑は前出の蒯聵に対する公羊学説を支持した。

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『春秋学入門』5-2

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○最終更新日:2009/11/01

第五論文

(つづき)

〔左氏の得失〕

さて左氏は、一つの事に対して、必ずその由来を明らかにしている。また虚実を見抜き、世情に熟達してもいる。しかし往々にして成功と失敗を問題として、その是非を問題とせず、時勢の流れ泥んで、大義の所在に暗いところがある(*4)。

例えば、周と鄭が人質を交換したことに対して、左氏は「信用は真心がなければ、人質がいても無益である」と言う(*5)。宋の宣公が穆公を跡継ぎとしたことに対して、「人を知るものと言わねばなるまい」と言う(*6)。鬻拳が兵の威力を借りて楚子を諫めたことに対して、「鬻拳は君主を愛している」と言う(*7)。逃亡しては国境を越えず、帰国しては〔弑君の〕賊を討たなかった趙盾に対して、「惜しいことだ、国境を越えていれば〔賊を討たなかった罪は〕免れたものを」と言う(*8)。これらは左氏が理に暗いがためである〔補1〕。

さらに左氏の叙述には、事の叙述に際して、実を失ったものがとりわけ多い。例えば、楚は力を蓄えるや、あっという間に東方諸侯を侵蝕しはじめた。しかしまず斉の桓公が現れて楚を駆逐し、ふたたび晉の文公が楚を駆逐した。その功績は偉大である。これこそ孟子の言う「〔悪いことは悪いが〕まだましなもの」(*9)である。しかし楚を駆逐するに際して、軽々しく兵を挙げるだけでできただろうか。まず楚の手足を断ち切り、その同盟諸国を解体してからでなければ、容易ではなかったろう。だから桓公が楚を駆逐したときには、まず〔楚の同盟国だった〕蔡に軍を進める必要があったし、晉の文公が楚を駆逐するときには、まず曹と衛に軍を進める必要があった。これが事実である。

しかし左氏はこの事実を理解せず、桓公が蔡に軍を進めたことに対しては、「蔡姫の為である」(*10)と言い、文公が曹と衛に軍を進めたことに対しては、「入浴をのぞき見し、土塊を与えた為である」(*11)と言っている。左氏がこの種の誤謬を犯すのは、事の由来を探るべく、些細なことに気を取られたためである。このため夷狄を駆逐し、中夏を安撫した桓公と文公の偉大な功績に対して、かえって理解が及ばなかったのだ。その他の叙述も概ねこれと同じである。ならば左氏の記す事は、確かに放擲してよいものではないが、信頼し切ってもいけないのである。

左氏学派の人々は、「丘明は春秋経を仲尼から受けた」(*12)、「〔丘明は〕聖人と好悪を同じくする人だ」(*13)と主張する。しかし左氏の主張は経に悖るものが多く、とても聖人と好悪を同じくする人とは言えない。孔子は「左丘明 之を恥ず。丘も亦た之を恥ず」と言ったが、恐らくこれは「ひそかに〔太古の賢人〕老彭に比(なぞら)う」(*14)と同じ意味であろう。ならば丘明は〔彭祖と同じく〕孔子以前の人ということになる。しかし左氏伝による春秋の解釈は、智伯〔の滅亡〕で終わっている。ならば孔子以後の人ということになる(*15)。

ある人は「聖人と好悪を同じくした人は左丘明で、春秋伝〔すなわち左氏伝〕を作った人は左氏だ」と言う(*16)。根拠ある発言である。またある人は「左氏は六国時代の人だ」と言い(*17)、またある人は「楚の左史倚相の後裔である」と言う(*18)。なるほど、左氏伝にある「虞は臘せず」などの言葉(*19)は、秦人が十二月を臘月とした(*20)ことによるものであろう。また左氏伝の叙述は、楚のことが極めて多い。無経の伝はあっても、無伝の経は存在しない(*21)。これもまた根拠ある発言である。

〔訳者注〕
(*4)行為の利害ばかりを問題視し、その行為が倫理的に正しいか否かを忘れている、という意味。
(*5)隠公3年の左氏伝に見える。
(*6)同上。
(*7)荘公19年の左氏伝に見える。
(*8)宣公2年の左氏伝に見える。
(*9)『孟子』尽心下の「春秋無義戰、彼善於此、則有之矣」をふまえたもの。春秋には正しい戦いなどないが、ましなものはある、という意味。
(*10)僖公3年の左氏伝に見える。左氏伝には、斉の桓公は蔡の姫君と船遊びをしたとき、ふざけて舟を揺らした姫君に腹を立て、これを離縁して蔡の国に帰した。ところが蔡の人はすぐに姫君を別の国に嫁に出した、とある。これと蔡侵略との関係は見えない。ただし杜預の注には「明年の斉の蔡侵略の為に伝を発した」とある。
(*11)正確な記述ではないが、僖公28年の左氏伝を指すのであろう。なお入浴をのぞき見たのは曹の共公で、土塊を差し出したのは衛の民である。
(*12)杜預の序に「左丘明受經於仲尼」とあるのによる。杜預は左伝学者として著名。
(*13)『漢書』劉歆伝に「〔劉〕歆以為左丘明好惡與聖人同」と見える。顔師古は下に見える『論語』公冶長の「子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之」を根拠に挙げている。劉歆は左伝学者として著名。
(*14)『論語』述而の言葉。
(*15)左氏伝の最後は、孔子没後十数年の智伯滅亡で終わっている。ならば左氏伝を完成させた人物は、孔子没後まで生存していなければならない。
(*16)趙匡の学説。『春秋集伝纂例』巻1趙氏損益義を参照。
(*17)『六経奥論』巻4の左氏非丘明辨(左氏乃六國人)に見える。以下の諸説は創始者不明の場合が多い。そのため著名なもののみあげておく。
(*18)左史倚相は昭公十二年左氏伝に見える。『朱子語類』巻83春秋綱領の「或云左氏是楚左史倚相之後云々」を参照。
(*19)僖公五年左氏伝に見える言葉。臘は歳末の祭りの名。「虞は臘せず」は「虞国は臘の祭祀を行い得まい」、つまり「虞国は臘の時期までに滅亡する」の謂。
(*20)『二程外書』巻11の「子言左傳非丘明云々」に見える程頤の学説。また『六経奥論』巻4左氏非丘明辨など。
(*21)「無経の伝」は対応する経文のない伝のこと。左氏伝に多く、穀梁伝にも少しく存在する。公羊伝にはないとされる。「無伝の経」は「無経の伝」に対する造語で、対応する伝文のない経の意。この学説の保持者は不明。

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『春秋学入門』5-1

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第五論文

三伝の得失

〔総論〕

春秋を学ぶものは、三伝なくしては考究すべき術を持たない。しかし篤学の士は往々にして三伝を捨て去り、経文のみを解読しようとする(*1)。これでは相互に矛盾を生み、統一的な理解はできないだろう。

私はかつてこのようなことを考えた。――左氏は事に詳しく、〔公羊伝と穀梁伝、すなわち〕公穀二伝は理に深い。左氏はかつて国史を見たのか、事には詳しい。しかし理には不明なところがある。公穀二伝は経生(*2)の所伝に拠ったものか、理には深い。しかし事には誤謬が多い。だから〔左氏と公穀二伝の〕両者を併せ読む必要がある。しかし左氏は事を備えるとはいえ、まま事の実(*3)を得ていないものがある。公穀は理に通ずとはいえ、まま理の正に害あるものがある。これらは熟知しておかねばならないものである。

〔訳者注〕
(*1)いわゆる「三伝を高閣に束ね、独り遺経を抱えて終始を窮む」という韓愈の言葉を踏まえた発言。三伝を無視し、春秋経文のみを読んで経文の主旨を理解していこうとする宋代に流行した立場を形容したもので、肯定・否定のいずれの立場からも用いられる。
(*2)経学の先生(経師)から旧説を伝承した人々の意。
(*3)「事の実」は「事実」の意。事の実相、あるいは真実の謂。

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『春秋学入門』4-4

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第四論文

(つづき)

〔その他の重要事項〕

その他、例えば荊人の来聘に対して、はじめは夷狄の臣に名と字を書くことはなかったが、後には名氏すら記されるようになった(*21)。無駭と挟の卒に対して、はじめは諸侯の大夫に氏〔校4〕を書くことはなかったが、後には生まれながら名氏が記されるようになった〔校5〕(*22)。はじめは諸侯と諸侯が盟を行っていたが、後には大夫が諸侯と盟を行うようになった。はじめは諸侯が互いに盟を行っていたが、後には大夫が互いに盟を行うようになった。はじめは諸侯が天子のまねごとをしていたが、後には大夫が諸侯のまねごとをするようになった。はじめは大夫が諸侯の権柄を盗んでいたが、後には陪臣が大夫の所有地を盗むようになった。

春秋一経を通覧した場合、大抵〔世道は〕降下を続け、ますます浮薄になっていく。春秋から上に遡れば、文武成康の盛代に達し、堯舜の御代に到達する。春秋から下に降れば、七雄分裂の極に達し、秦に至らねば止まなかった。後世、『資治通鑑』を作った者は、韓・趙・魏が諸侯となったところに篇端を求めたが(*23)、それもまた春秋の後を継ごうとしてのことであろう。

〔小結〕

春秋を修める後学の徒は、まず大義を明らかにし、理の精微を極め、次いで世変を観て、事実を研鑽しなければならない。そうすれば春秋一経は概ね理解できるだろう。

〔訳者注〕
(*21)『或問』巻3衛師入郕条を参照。
(*22)『或問』巻4無駭卒条を参照。
(*23)『資治通鑑』は司馬光の著。春秋と同じ編年体を用い、春秋の後を承けて歴史を論述したもの。ただし春秋の終端である獲麟から筆を起こすことなく、趙・韓・魏が諸侯となったところから叙述を始めている。

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『春秋学入門』4-3

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第四論文

(つづき)

〔春秋の世変〕

しかしこれだけではない。春秋一経を通観すれば、いわゆる隠桓荘閔の春秋があり、いわゆる僖文宣成の春秋があり、いわゆる襄昭定哀の春秋がある(*12)。

伯主〔斉の桓公〕が生まれる前、〔桓公は〕荘公十三年に北杏の地で諸侯と会し、二十七年に幽の地で同盟した(*13)。こうして天下の諸侯が一国の命令を承けるようになった。天下の諸侯が一国の命令を承けることは、いまだかつてなかったことである。僖公元年に斉は邢を移転させ、三年〔校1〕に衛に城を築き、四年に楚を伐ち、五年に世子に会し、九年に葵丘の地で会を行った(*14)。中夏の諸国を安撫し、夷狄を抑える力は、いつも伯主にあったのである。

伯主が生まれる前、諸侯には統ぶる者がおらず、天下の君大夫は、まだ王の存在を意識していた。だから隠桓時代の春秋は、各々〔校2〕王についての記述がある。しかし伯主が生まれてからは、諸侯に統ぶる者が生まれ、天下の君大夫は王の存在を忘れていった。だから僖文以後の春秋は、ほとんど王についての記述がないのである。

伯主が生まれたことは、確かに世道にとって一つの幸福だった。しかし王道の跡が潰えたことは、かえって世道の衰えではなかったか(*15)。僖公十七年に〔斉の桓公こと〕小白が卒した。小白が卒すと、楚は猛威を振るい始めた。中国に伯者なきこと十余年、僖公の二十八年に城濮の戦があった(*16)。こうして中国の伯権は、かつて斉の桓公にあったものが、今や転じて晉の文公に帰したのである。晉の襄公がこれを受け継ぎ、なお文公の伯業をよく守った。しかし〔襄公の後継者〕霊・成・景・の諸公は伯業を継ぐに不足があった。悼公は再び伯者となり、〔楚の側についていた〕鄭を〔中国に〕引き入れ、楚を従え、まだしも期待できるものがあった。しかしこれ以後、晉の伯業は振るわなかった。

襄公二十七年の宋の会に於いて、晉と楚に従う〔校3〕諸国が各々会見し、そして昭公元年の虢の会に於いて、再び〔宋の会での〕誓約を確認しあった。こうして晉と楚は対等になったのである(*17)。昭公四年、楚の霊王は申の地で大会(*18)を挙行したが、そのとき斉の桓公の「召陵の盟」の先例を用いた。ところが晉は中国に関与せぬこと十年、平丘の盟(昭13)で再び中夏の盟主になったとはいえ、晉が諸侯と会したのは、これ以後ただ鄢陵(*19)のみ。この後、ふたたび参盟(*20)が現れた。参盟が現れてから後は、盟を主宰する諸侯はいなくなった。

天下に伯者がいるのは、美事とは言えない。しかし天下に伯者がいないのは、些細なことではない。天下に伯者がいなくなり、春秋は終わる。だから隠桓荘閔の春秋を読むと、確かに王道の潰えを痛んではいる。しかし襄昭定哀の春秋を読むならば、伯業の衰亡に最も心を痛めているのである。以上はその重要なものを挙げたに過ぎない。

〔訳者注〕
(*12)陳傅良『春秋後伝』の説法をまねたもの。現在は樓鑰の序文に見える。
(*13)荘公13年の左氏経文に「十有三年、春、齊侯・宋人・陳人・蔡人・邾人會于北杏」とあり、つづく27年に「夏、六月、公會齊侯・宋公・陳侯・鄭伯同盟于幽」とある。
(*14)上から順番に経文を列挙すると、僖公元年の「夏六月、邢遷于夷儀」、同3年の「春王正月、城楚丘」、同4年の「四年、春、王正月、公會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯侵蔡。蔡潰、遂伐楚、次于陘」、同5年の「公及齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯會王世子于首止」、同9年の「夏、公會宰周公・齊侯・宋子・衞侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘」。いずれも桓公が伯権を確立する過程の会盟討伐。
(*15)「伯者が現れ、夷狄から中国を守ったのは、世道にとって一つの幸福であった。しかしこれによって王道が途絶えたのは、かえって世道にとって不幸ではなかったか」という意味。
(*16)城濮の戦いは、晉の文公が楚の勢力を中国から退けた戦い。これ以後、晉の伯権が確立した。
(*17)宋の会で晉と楚に従う諸侯が各々会見を持ち、虢の会で再びそれを確認した。これにより晉と楚は各々諸国を従える対等の関係になった。したがって中華と夷狄が対等になったことを意味する。
(*18)楚が十ヶ国以上の諸侯を従えて会合をもったことを指す。
(*19)昭公4年の「召陵の会」の誤り。『或問』巻19会于召陵侵楚条に同趣旨の文が見える。
(*20)「参盟」は三国以上が参加する盟の意。ここでは伯主のいない三国以上の盟を指す。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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