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おお、ついに完成したか!

ということで、昨日の今日で悪いけどもネットがふたたび開通した。まあ今回はかなり無理をしているので、もしかしたらまた断線するかもしれないけど、とにかく今はつながっている。

このブログを放置している間に、これゾンが終わったり、師走先生の新作ゲストがあったりと、重大なイベントがたくさんあったが、そういうのは面倒なので書かないでおこう。あ、でも、これゾンのDVD(BDは買わない)を買うことがあればコメントするかもしれない。

で、それはともかく、これも放置の間の話ではあるが、土佐國群書類従が完成したらしい。『土佐國群書類従』第13巻 紹介......の割にはあまり盛り上がりに欠けるのは震災の所為だろうか?それとも実はまだ完成していないのだろうか?現物を見ていないので何とも言えないが、とりあえず第13巻の完成を祝いたい。秦山関係の資料も豊富に入っている(はず)。『秦山先生書簡』は戦前に増補版が出たが、現在では手に入れ難いので、研究者ならともかく、一般の愛好家としては『土佐國群書類従』で読むのも悪くないのではあるまいか。

そうそうfirefoxがver4になったけど、なぜかしらんOperaのまねしたようなしてないような......

どうでもいいけど博士かわいすぎる。

まあ、そんなところです。

雑記

中国・雲南で地震、22人死亡 200人が負傷

びっくりしたが、場所が違うようだ。


どうも私は心が疲弊すると日本の儒学者の著作を読む癖ができてしまったらしい。最近は久米訂斎の学思録を読んでみたりしている。講學筆記だから一般的な学問談義かと思ったら、ほとんど性理学説だった。......岡氏が訂斎は哲学的だとか言っていたのはそういう意味なんだろうか。まあ四部書もそういう本だったから仕方なかろう。残念ながら私とは肌が合いそうにないなぁ。

そういえばむかし高畠さんの著作をやたらタイプしてネットに公開したことがある(今もしてるけど)。そのときは高畠さんの著作が少しでも人の目に触れるようにと思いつつも、高畠さんは現在の優しい人々から見ると驚くべき暴論を吐くので、そのままではまずかろうということで、妥協の産物として旧仮名遣い旧漢字で公開した。とはいえもともと高畠さんの著作が読まれるようにとのことだったので、新漢字新仮名遣いにすべきだったと思わないでもない。

一方、春秋学はこれと少し違う。アカデミックなアプローチはもうやめたとはいえ(する意味もなくなった)、私自身の研究テーマなわけだから、同好の士と話をしたいという気持ちはあっても、別段、人に理解されやすく紹介しようとか、少しでも多くの人に分かってもらおうという気持ちはない。だから私自身がこれでいいと思えばそれでいいし、妥協できなければそれは駄目だ。宋代史はまぁ前に書いたように、「宋代史 金になるなら 嘘でいい」という精神でやってる。

で、秦山先生はこれらとは少し違う気持ちが働いているらしい。春秋学に対するものに似ているが、もしかするとそれよりもっと狭い範囲で追求したいのかもしれない。どうこういっても春秋学は一般的な価値を追求して研究対象に選んだ手前、「理解してもらいたい範囲」があるていど広かったものが、アカデミックなものと断絶したので単に狭くなっただけなのかもしれない。それに対して秦山先生は、断絶した前後に興味をもったこともあり、春秋学よりももっともっと狭い個人的な興味に止まっておれるのかもしれない。秦山の文章をあえて現代語に訳そうとかいう気にはなれないのも、そのあたりが原因だろうか。自分さえ分かっていればいいのであれば、確認や今後のために書き下しくらいにはしても、現代語に直す必要は皆無だから。


> IEなど

う~む、わがPCだとFireFoxとchromeで1~2秒、IEで2~3秒、Operaで5~7秒というところです。まあネットブックの方はクローム10秒、FF20秒、Opera10秒という感じです(IEは重くて立ち上げる気にならない)。

復元は少し勘違いしてました。私はツールバーにブックマークを置いているので、たまに間違えてそれをクリックして違うサイトに飛んでしまうことがあるのですが、その場合と混同していました。タブを閉じた場合は復元できるのかもしれませんね。こんど試してみます。


昨日のつづき

やはり前々回ようやく本格参戦したトモノリをああいうシーンで使うのは無理があるんじゃないかなあ。それに物語的にも数日前にであったともだちみたいだし。もっとも独立したヒロインが三人も四人もいて、それを十二話でばらばらにまとめようというのだから、おのずと無理があるとしかいいようがない。まあそんなことは百も承知だし、それを喜んで観ているのだからかまわないのだけど。そういえば今回は原作との乖離が著しかったといふ。やはりそちらにも手を出してみないといけないだろうか。


> Reader

たしかに多くの記事はReaderで済ませますが、やはりレイアウト的に読みにくいので(ブログもじゅうぶん読みにくいですけど)、読む価値のある記事であれば、本サイトへ見に行きます。とはいえ、RSSがない場合は、そのサイトやブログを訪れること自体が激減するように思います。たま~に思い出したときだけ足を運ぶとか。むしろ仕様的に頻繁に更新されているところの方が活動的に見えていいのではないかと。

そういえば近頃はめっきり助詞の「へ」を使わなくなった。かわりに「に」を使っているような気がする。「本サイトに見に行った」みたいな。でもこれだと「に」が続けて出てくるので一瞬だが意味を取り違える可能性が出てくる。

又(美代重本に與ふ)

又(與美代重本)

重遠啓す。某、去年貶絶の中、時に或は粮を斷つ。某は則ち男兒、何を以て顰蹙せん。惟だ一僕困頓、見るに忍へず。毎に之を苦しむ。今年は則ち貶絶中の貶絶、故を以て月初に一僕を遣歸し、兀然(*)と獨坐す。幸ひに舊知に依怙(*)し、敢へては畏れざるなり。自ら以て得策と為せり。兄の知る所となり、而して昨日仄聞す。諸友、某の自炊を憐れみ、僮を買て以て之を助けんと欲し、合議已に定まると。相愛の切と謂ふべきなり。感謝曷ぞ已まん。但だ某に一説有り。仰ぎて高明に懇(もと)む。某、嘗て古の君子は窮して米を乞ひ食を丐ふ者を聞くも、未だ醵錢(*)し僕を買はしむるを聞かざるなり。以て不必の事(*)と為すのみ。此の説、何を以て之を通すやを知らず。況んや某が伏(*)、未だ期せずして、僮僕乃ち資を挾みて以て來るをや。耕牛倉鼠の命は固より哀しむべくも、虎視眈眈の頤(*)も亦た料るべからず。豈に瑣ならざらんや。某の僕を遣る、本と籌上の實算(*)。初より斬絶過矯の事と為さず。煩す、兄、宜しく此の意を以て諸友を曉し醵錢を却け、區區の志を遂げしむべし。萬一異時、疾病狼狽、支吾すべからざれば、自ら之を報ず。時に臨み垂念して可なり。買夫の未だ來らざるに及び、遽に此の報瀆を作る。多及に暇あらず。亮察、是れ憑る。幸幸。餘は面言を期す。不宣。

(*)忽然に同じ。
(*)依頼に同じ。
(*)銭を集めること。集金に同じ。
(*)不必要の事の意。
(*)生活乃至生活必需品。
(*)養の意。
(*)もとより実を狙った計算なりの意。


貧乏の中、人を雇わないといけないのも大変だな。同じ貧乏でも中国の士大夫と日本の貧乏在野学者とでは貧乏のレベルが違う。

宮地介直に與ふ(辛卯)

宮地介直に與ふ(辛卯)

重遠啓す。介直足下。去年、更師の命、京師の遊、時事雨雲、寒暑再易り、寂として一書を獲ず、鬱陶萬萬、馳情殊に劇し。昨夕忽ち聞す、疾を以て俸給を辭し、且つ更師の訴を陳べ、朝廷震怒し、命を下して遠鄙に禁錮するを。雷霆耳に在り、恐悚聲を呑む。北堂の憂苦、何を以て之を慰むるやを知らず。世に處ることの多難、吁、此に至るや。某や驚魂累年、之を招きて未だ鎭まらず。乍ち復た此の事を聞く。食するも咽に下らず、寝ぬるも睫を交へず、悵然大息、飲泣踧踖す。

竊に獨り惟念す。往歳戊寅、正明翁の竄謫せられて歸らず。丁亥、某や此の如し。今復た高明に逮ぶ。罪條各々殊なると雖も、我が學の大厄を為すは則ち同じ。謂ふ所の黨錮傳、何ぞ必ずしも讀まんや。然れども更師の命、事は非常に出ず。小學に言ふ、「君父と師と、一に死を致すを以て之に事ふ」と(*)。君父は天なり。臣子は地なり。君父、改むべからざるなり。師は其れ改むべけんや。某が高明に於ける、固より往來して聞く所を言ふの輩行のみ。豈に之を師と謂はんや。然れども之を指して「舊師なれば更ふべし」と為せば、則ち分義、焉に繫る。噫、此の命の下る、我が學の否塞極まれり。此の若く一刀兩斷するに非ざるよりは、竟に好出場無し。題目髓腦を布施すと雖も、尚復た何をか論ぜん。今般の舉、差ゝ人意を強うすと謂ふべし。甚慰甚慰。
(*)正確には「欒共子曰、民生於三。事之如一。父生之、師之、君食之。非父不生、非食不長、非不知。生之族也。故壹事之、唯其所在則致死焉。報生以死、報賜以力。人之道也」(小學明倫)

大丈夫の天地のに生まるる、直に須く立身をば分明にし、死生之を以てすべし。豈に含糊摸稜(*)、學ぶ所に辜負(*)し、憒憒乎(*)として是の六尺の軀を保たんや。高明久しく書信を絶つ。蓋し訴陳の志、胸懷に留在し、重ねて賤迹(*)に傳染するを恐るればなり。此の意甚だ厚し。向來、賢慮を悉さず、猜疑多端、淺薄の愧、何を以て之を謝せん。多罪多罪。
(*)しのごの言い訳して態度をはっきりしない様。
(*)所信に背くこと。
(*)凡庸で態度をはっきりしない様。
(*)自身の謙称。

此の、昨の如し。遠念(*)を勞せず。禁錮五年、一室に塊坐し、左經右史、俯讀仰思、蓋し一生の優閑を得。然れども講學體驗の功、分寸も進むるを加へず、氣習卑陋、工夫生硬、眞に天地のの一蠧と為れり。不審、高明、何を以て之を教へん。因て念ふ、某と高明と、書を講ずること幾ど二十年。經傳を談論すること徧ねからずに非ずと雖も、或は稠人説書(*)の冗に發し、或は杯酒詼諧の機に出で、年少輕脱、磨練未だ至らず、懇惻憤悱(*)の氣象に非ず。今に至るまで書を讀むも味少なく、進脩も力乏し。此れ高明と某と、蓋し同一の病なり。今や各々一方に屛居し、門を出ずると人に接するとを許されず。此れ天の講學の暇を予二人に賜ふなり。豈に幸甚ならざるや。
(*)遠方の人に対する想い。
(*)稠人は衆人に同じ。説書は論評のこと。
(*)「子曰、不憤不啓、不悱不發。舉一隅不以三隅反、則不復也」(論語述而)。朱注に曰く、「憤者、心求通而未得之意。悱者、口欲言而未能之貌」。

只だ願はくは、須く急ぎ小學の書に從ふを首と為し、次に四書、次に近思、次に五經と夫の濂洛關閩の遺言、垂加・絅齋の發揮と、一一細看し、件件剔出し、先賢の已に言ふ所を熟復し、前人の未だ言はざる所を發明し、寢食起居の微、妙道義の祕、得る所、疑ふ所、悉く筆して以て寄せらるべし。某、衰惰すること年久しく、道ふに足る者無し。然れども高明果たして此に志有らば、駑鈍を策し(*)、考究切劘(*)せば、某も亦た豈に黽勉(*)せざらんや。天下の靈に頼り、萬一相與に生順死寧(*)の髣髴に庶幾せんや。陽復困亨の吉(*)、孰れか此より大ならん。伏して冀はくは、高明、勉㫋(*)せよ。
(*)「愚鈍を勉励し」の意。
(*)切劘は切磋琢磨の意。
(*)努力の謂。
(*)「子曰、朝聞道、夕死可矣」(論語里仁)の朱注に曰く、「道者、事物當然之理。苟得聞之、則生順死安、無復遺恨矣」。
(*)困窮の極より快方に向かうの意。
(*)努力の謂。

書疏往來の計、密ならざれば害生ず。然れども故舊林立すれば、豈に一人の義士無からんや。固より多言を煩はさざるなり。若夫れ稷下甘陵の覆轍は、先賢之を戒むること具備す。而して抑鬱無聊(*)の歎は、唐賢、道を聞かざるの愆(*)なり。今又何ぞ尤效(*)すべけんや。他は眠食自珍(*)し、以て交友の遠望に副へよ。重遠再拜。
(*)煩悶の意。
(*)過誤の意。
(*)模倣の意。
(*)自愛の意。


最後の段落に出てくる「稷下甘陵の覆轍」と「唐賢」は何を指すのかよく分からない。言われれば思い出すかもしれず、全く知らないかもしれず、なんとも。

野中繼善に與ふ(丁卯)

昨日書いた「野中繼善に與ふ」。むかし書き下しにしたのを載せてみる。一つ二つ疑問の箇所があるので、読みにくいところは私の読み間違いだと思う。ちなみに原文は漢文、秦山二十五歳のときの文章。附録で原文を載せる予定だったが、目が痛くなったので止める。語釈は最低限度とし、漢字を見て意味を想像できそうなものは省略した。

※以下本文

朱子の書、宇宙のに在る、其れ國家の元氣、生民の命脈か。生民は無かるべくも、朱子の書は無かるべからざるなり。今且らく一事を舉げて之を言はん。楊雄が賢をして師法とすべからしめば、天地は其れ立たんや。曹操・荀が舉をして信然すべからしめば、天地は其れ立たんや。天下の事を論ずる者をして、咸な司馬光・蘇軾ならしむれば、日月は地に墜ち、世界の劫火は固より已に久しからん。趙宋の末、朱明の始(*1)、忠憤義氣の盛んなる、開闢以來有らざる所。之を朱書(*2)の功に非ずと謂ひて可ならんや。
(*1)宋末明初の謂。宋は趙氏の王朝の故に趙宋といひ、明は朱氏の王朝の故に朱明といふ。
(*2)朱子の書の謂。

朱書の我が邦に行はるるは、已に元弘・建武の際に在るも、時の人は得て知らず、師錬・玄慧等が時に其の説を採り談柄に充つるのみ。爾來三百年、沈淪埋沒し、藤太閤の老成該博を以て尚お深く造る能はず。其の他、知るべきなり。幸いに貴家の先國老(*3)、弓馬の中に崛起し、我が山崎先生の髠髟のに勃興し、相與に推輓引重するを頼り、然る後に小學なる、四書の全本なる、近思録なる、文集なる、語類なる、實に始めて人に出で、雷霆日月の揜ふべからざるが若くにして、三年の喪、齊疏の服、ゝ亦た焉に觀るべき者有り。不幸にして其の志を就すを得ずと雖も、天下、陰かに其の福を被る。然れば則ち後の朱書を讀む者、自ら下風に託すに及ばずと雖も、猶お其の胤子に見えて餘論を聞かんと欲する、其れ豈に過たりと言ふべけんや。
(*3)野中兼山のこと。

僕、九歳にして小學の書を讀む。時に先國老の沒すること既に數年にして、胤子の宿毛に在るを聞き、已に私に之を識る。後、稍ゝ士大夫に交接するも、貴家の故臣の出仕する者、往往にして時と浮湛し、之を問ふも肯ては對へず。十五歳の時、宿毛の童子、來りて府に學ぶ。僕、之が遊敵と為り、邂逅往來す。童、伯子仲子を知るに及ばず、獨り高明叔季の事(*4)を道ふこと頗る詳らかなり。五年前、秦山に徙居したるとき、隣民に又嘗て先國老に野中に厮養せえらるる有り、亦た伯仲季を識らず、惟だ細かに高明の幼時、岐巍の状を稱す。
(*4)「貴方と末弟のこと」の意。

往年、蹉駝(*5)より宿毛に轉遊せるとき、私心、是に於いて其の初望を遂ぐるの日有るを喜べり。既に焉に至り、其の居を問へば則ち圜牆なり。其の僕を訪へば則ち獄吏なり。乃ち悵然として大息し、泫然として涕を出して曰く、「吾れ其の人と為を得ること、蓋し十有七年にして、一たび其の面を見ゆる能はず。豈に命に非ざるか」と。尋で數詩を得て之を讀み、既に家聲を墜さざるを歎じ、又、窮困の久しきを悲しみ、感慨歔欷す。言はんと欲すること麻の如きも、縁無くして黙すること復た茲に二年たり。
(*5)地名。高知西南の足摺を指す。

僕、今年二十五歳。然れども目は昏く耳は轟き、殆ど衰老の人の如し。素より儋石の禄を受けずして、頻りに罪案に觸る。或は一旦溘死し、宿心を償ふ能はざるを恐るるなり。故を以て已むを得ず、此に其の愚を效し、展轉附託し、仰ぎて高名を瀆す。意未だ必ずしも理に當らず。只だ區區景戀の萬一を呈似せんと要するのみ。覽畢れば之を火せよ。

蓋し之を聞く。朱子の道、大にして且つ博し。然れども其の實は父子の親、君臣の義の二者に過ぎざるのみ。此の二者は、天の以て我に與ふる所にして我の得て以て性と為る所、人心の已むべからずに根ざして天地のに逃るる所無きものなり。是を以て子の親に事ふる、臣の君に事ふる、一に其の心を盡し、死有るも貳無し。其れ或は事變不齊あり、放逐の悲しみ、竄殛の慘きに遭ふ有りと雖も、我の已むべからざる者、自ずから息むこと能はざれば、則ち慝を引き身を致し、敢えては一毫怨懟の私有る莫し。或は不幸にして君父亡沒するや、此の心を施す所無きが若しと雖も、然れども此の身は即ち親の遺體、君の遺黎なれば、則ち我の已むべからざる者も、亦た依然として易ふべからざるなり。故に葆嗇して節を守り、敢えては一毫解弛の念有る莫し。此れ君父に徳とすること有るに非ず。蓋し必ず此の如くにして、然る後に本心に慊て、天地のに愧ること無きなるのみ。

瞽叟は慘父なり。毎に舜を殺さんと欲す。而るに舜の知は其の慘を知らずして曰く、「惟だ父母に順ひて以て憂を解くべし」と。紂は忍君なり。文王を羑里に拘ふ。而るに文王の聖は其の忍を知らずして曰く、「臣が罪は誅に當る。天王は聖明」と。父沒す。曾子は一息尚存するのに薄きを履み深きに臨む(*6)。君亡す。伯夷は仁を求めて天下の周を宗とする秋に仁を得たり。是れ舜の性者なる所以、文王の至徳なる所以、曾子・伯夷の魯を以て之を得、且つ聖の清と為る所以にして、之を要するに、本分の外に於いて、毫末も加ふる有るに非ざるなり。夫の湯武の慚じて未だ盡さざる所以の若き、其も亦た此を謂ふか。朱子の六經四子を羽翼し、小學・近思を蒐輯する、其の用心精力、蓋し此に在り。而して通鑑綱目は其の實事を舉げ、楚辭集註は其の實情を述ぶる者なり。世の放臣屏子、往往にして此に聞く有る能はず、其の抑鬱無聊の感に迫られ、勝へずして天年を夭せる者有り、詩に遁れ、酒に遁れ、老釋に遁れ、琴棊書畫の玩に遁るる者有り。此の如くなる者は皆惑ひなり。亦た罪有り。嗚呼、天の與ふる所、夫れ奚くにか避けんや。
(*6)「深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し」(論語泰伯)の謂。

昔し程朱の窮に處する所以は、固より尚ふべからずと為す。後學の宜しく熟考矜式すべき所にして、范忠宣(*8)の嶺南に安置せらるるや、疾に因て明を失するも、命を聞けば怡然として道に就く。或ひと名に近づくと謂ふ。忠宣曰く、「七十の年、兩目倶に喪ひ、萬里の行、豈に其れ欲せんや。但だ區區の愛君、懷ひに盡さざる有り。若し名を好むの嫌を避くれば、則ち善を為すの路無し。愧ずる心有りて生きるは、愧ずる心無くして死するに若かず」と。毎に子弟に小しも不平有るべからずと戒む。諸子の章惇を怨むを聞けば、必ず怒りて之を止む。道に在るに及び、舟の江に覆し、衣盡く濕る。諸子を顧みて曰く、「此れ豈に章惇之を為さんや」と。
(*8)范純仁のこと。

劉忠定(*9)の梅州に竄せらるるや、章惇・蔡卞・蔡京の之を怨むこと尤も深く、累連貶竄し、極遠惡地、之を歴ざる無し。而して將に必ず之を死にかんとし、屢しば使者を遣はし之を脇して自裁せしめんとす。忠定は畏れず、「君、死を命ぜば即ち死せん。自死すること奚ぞ為さん」と曰ひ(朱子曰く、此れ學び得るを須ちて他れ始めて得)、遺祝の類を寫し訖りて「今、死するは難きこと無し」と曰ひ、卒に恙無し。
(*9)劉安世のこと。以下、主語を補うと、「劉忠定(*9)の梅州に竄せらるるや、章惇・蔡卞・蔡京の之を怨むこと尤も深く、累連貶竄し、〔忠定は〕極遠惡地、之を歴ざる無し。而して〔章惇等は〕將に必ず之を死にかんとし、屢しば使者を遣はし之を脇して自裁せしめんとす」となる。

陳忠肅(*10)の台州に羈管せらるるや、何執中、石悈をして台州に知たらしめ、くに必死を以てせんと欲す。悈至り、之を執らへて庭に至らしめ、大いに獄具を陳し、將に脇すに死を以てせんとし、之を窘辱する所以の者、百端たり。忠肅曰く、「今日の事、豈に制旨を被らんや。時相、學術短淺、人の愚にする所と為る。君の得る所は幾何ぞ。乃ち亦た公義を畏れず、名分を干犯するか」と。悈、慚じて之を揖して退かしめ、終に害する能はず。
(*10)陳瓘のこと。

朱子の門人に至りては、呂子約の吉州に安置せらるるや、藥を賣りて自給し、書を讀み理を窮む。嘗に曰く、「世變に因て摧折する所有り、其の素履を失ふ者は、固より言ふに足らず。世變に因り、而して意氣に加はるところ有る者も、亦た私心なり」と。

蔡季通の道州に竄せらるるや、貶を聞き、家に辭せず、即ち道に就く。朱子は從遊の者と蕭寺の中に餞別す。坐客に歎を興し、泣下る者有り。朱子微かに之を視るに、平時に異ならず。因て喟然として曰く、「朋友相愛の情、季通不挫の志、兩つながら得たりと謂ふべし」と。衆、宜しく緩く行くべしと謂ふ。季通曰く、「罪を天に獲。天、逃るべけんや」と。杖屨もて其の子の沈と同に行くこと三千里、脚、為に流血するも、幾微も言面に見るる無し。舂陵に至る。來りて學ぶ者日に衆し。季通を愛する者の謂ふならく、「宜しく生徒を謝すべし」と。對へて曰く、「禍患の來る、閉門塞竇するも能く避くる所に非ざるなり」と。書を貽りて諸子を訓じて曰く、「獨行するも影を愧じず、獨寝するも衾を愧じず。吾の罪を得るを以ての故に、遂に其の志を懈くこと勿かれ」と。道に在ること逾年、忽として一日、沈に謂ひて曰く、「客を謝すべし。吾れ安靜以て造化の舊物に還らんと欲す」と。三日を閲して卒す。

夫の數子の者、處るところ各々同じからずと雖も、要するに、皆な天命民彝の已むべからざる者に於いて、竭し盡して遺すこと無らんと欲す。故に其の禍害患難に於けるや、從容整暇として特に避けて死するを為さざるのみならず、實に生きて之を受くるを甘樂す。孔子曰く、「君子固より窮す」と。又曰く、「不仁の者は以て久しく約に處るべからず」と。旨なるかな、旨なるかな。

高明、一謫二十四年なるや、境界危惡、層見錯出す。然れども其の詩を讀みて其の志を逆るに、温雅冲澹、類むね齪齪する者の能く及ぶ所に非ざるなり。想ふに亦た此に見る有るか。西江の波浪、蓋し未だ平き易からず。更に願はくは朱子敬格の方に於いて、益々力を勵まし、向に謂ふ所の本心の已むべからざる者に於いて、果たして灼然として見る有らば、則ち潤鑊伏鑕するも易牙の味の如く、雪窖の土室も適くとして出で王きて游衍するに非ざる莫き者、僕、高明の庶幾すべきを知れり。今、靖獻遺言一部を奉納す。書は新なるも義は舊たり。忠臣孝子の蹟具る。高明をして狴犴に終るも、抱き以て沒するを得れば、則ち死すとも恨み無し。幸いにして天日を見る有れば、其も亦た自處すること莫けんや。躬の逮ばずんば、徒言を恥ずと雖も、此れ則ち區區宿昔の望なり。先國老の志なり。抑も亦た朱子の遺旨なり。

『秦山集』巻十一

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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