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銭基博『経学通志』自序

自序

私見によれば、経学の源流を述べた陸徳明の『経典釈文』は、文章に抑揚が少なく、人をして厭かしめるものがあるばかりか、遺憾なことに魏晉以下の記述が頗る簡略であった。その後、江藩は徳明の遺志を継いで『経師経義目録』を著したが、門戸の見に囚われ、「清代の学者だけが漢代の学問を継承できた」と称し、唐宋以下の学問を放擲してしまった。このため経学の変化の跡は不明朗なままに置かれている。そこでこのたび私は旧聞を集めて本書を著すことにした。

無錫の銭基博


『経学通志』目録
自序
総志
周易志
尚書志
詩志
三礼志
春秋志
小学志


※底本は民国25年の中華書局本。
※銭基博は1957年に亡くなり、かつ中国なので戦時加算もない。したがって著作権は切れている。
※銭基博については百度に詳しい解説がある。参考になるところとしては、本書は銭氏の経部における代表的論著であるということ、そして『論語』『孟子』『孝経』『爾雅』を経書から省いたということの2点。その他は現在から見れば常識に属する。

孔子家語の真偽

この前は虫の居所が悪かったこともあって、いい加減なことを書いたが、考えてみれば孔子家語は狭い世界で有名な本だから、古典愛好家が調べることもあるだろう。ということで、気を取り直して少しだけ紹介しておく。もちろん論題は孔子家語の真偽(についての論争)。と言っても、もう中国のサイトでいろいろ説明されているので、そこのリンクを貼るだけのことなんだが。

まずwikiprdia。さすがに最新の情報が載っているところは中国だな。日本のものはどこかの解説書から取ってきた内容だし、しかも不適切で偉そうな表現が目につくので見なくていいだろう。

中国語wikiのキモは:

20世紀70年代以來,由於出土文獻的出現,給《孔子家語》的研究帶來了新的契機。1973年河北定州八角廊出土了漢墓竹簡中有《儒家者言》,内容与《家语》相近。1977年安徽阜陽雙古堆出土了漢墓木牘,内容同《家语》有关,另有英藏敦煌寫本《孔子家語》。李學勤認為,《孔子家語》可能成于孔安國、孔僖、孔季彥、孔猛等人之手。有學者甚至指出《孔子家語》的價值並不在《論語》之下。(脚注は省いた)


で、要するに『孔子家語』は本物だから『論語』と同程度の価値がある、換言すれば『論語』を読もうと思う人間は、同時に『孔子家語』を読む必要もあるんだよ、ということになる。

もっと専門的にきれいにまとめたものであれば:

歴代《孔子家語》研究述略

一読したところ、著者は『孔子家語』本物派のようだが、研究整理はなかなか綺麗にできていて、読んでいてい分かりやすい。この解説によると、清代に至るまでにほぼ学界の定説となった感のある『孔子家語』偽作説であるが、昨今の出土文献の発見によって、『孔子家語』が本物である可能性が出てきた、そしてそれはなかなか説得力があり、今後のさらなる研究の進展が待たれるというような内容になっている。色は付いているようだが、まあ普通の研究整理とそのアナウンスといったところだろうか。

次に上の解説にも名前の登場する、『孔子家語』本物派の闘将・楊朝明さんの解説。論文も多数執筆されているようだが、ネットにも流れていた。

《孔子家语》的成書与可靠性研究

ちょっと冗長な感じはするし、過激な発言が散見するけど(私は好きだが)、ネットで読める本物派の意見としては貴重なんだろう。というか、楊さんには『孔子家語通解』というのがあって、『孔子家語』を詳細に研究したものがある(本書の冒頭に論文が掲載されている)。だから本人としてはかなり真面目に『家語』の本物たることを信じているようだ。

ということで、各人各論の主張はネット先で読んでください......では不親切なので、以下、分かり難く説明してみよう。


『孔子家語』は『古文尚書』と並び偽作の代表例とされている。つまり現行本の『孔子家語』は、前漢の宮廷に確かに存在した『孔子家語』ではなく、それから二百年以上の後、魏の王肅なる人物が、学界の主流学説(鄭玄の学説)を打破するために自分の都合のいい資料をかき集めて作った偽書だとされる。

まず王肅の『孔子家語』を疑ったのは、馬昭という鄭玄派の学徒で、彼は王肅の出してきた『孔子家語』に対して「鄭玄先生の見なかったものだ」「『孔子家語』には王肅が増加したところがある」といって批難した。ただ馬昭がどれほどの学者であったのか不明であり、また他の鄭玄派の学者は『孔子家語』を普通に引用しているので、馬昭のいう「増加」の意味は、いわゆる全くのパチモンという意味ではなく、来歴ある『孔子家語』に王肅が自分の都合のいい文章をつけたしたという意味だろうとされる。

つぎに隋唐の時代になると、『漢書』の注釈で有名な顔師古が、漢書芸文志の『孔子家語』に「現行本ではない」と注している。もっとも顔師古が何を根拠にそのように論断したのか、今一つ定かではない。上の楊さんもいろいろ試案を出しているが、もともと資料のない世界のことだから、推測の域を超えない。

つぎにぐっと時代が下り、宋末になると、偽書の大家・王柏が登場し、『孔子家語』は全くの偽者である、という大胆な説を提唱する。その根拠は、『孔子家語』の文章は『説苑』や『大戴礼』に見えるものがほとんどで、それらから取材したものだというにある。王柏の学説はなかなかインパクトがあったと見え、元代にあるていど支持者を得たらしい。

後、学問の死滅した明は飛ばして(*)、清代になると大いに『孔子家語』の評判は悪くなり、特に范家相の『家語証偽』、孫志祖の『家语疏証』が出で、『孔子家語』と古典文献との関係が白日の下にさらされるに至り、『孔子家語』の偽書たるはほぼ学界の定説となった。もっとも清代には陳士珂の『孔子家語疏證』のように、本物たると偽書たるとの判断を避けるものもあり、また銭馥のように、現行本『孔子家語』の大半は本物だという人もいたが(陳氏疏證の跋)、大勢は偽書説に傾いた。

具体的な論証過程を説明するには予備知識が必要になるので、ここでは省略するが、要するに范氏や孫氏の論証というのは、「『孔子家語』のどこどこの箇所は、『説苑』と『大戴礼』を足したものだ」とか、「どこどこはまったく『説苑』と同じだ」ということを逐一指摘し、「だから『孔子家語』はこれらの書物から取材して王肅が作ったパチモンである」と説明するにある。

これだけだとあまり説得力を感じないだろうが、『孔子家語』全篇にわたりこういう嫌がらせをした結果、『孔子家語』のほとんどが『説苑』や『大戴礼』『礼記』と重複することが明らかとなった。古典どうしの重複は珍しくないとはいえ、あまりにも重複が甚だしく、しかもつぎはぎしたような跡が見られ、さらに王肅の学問態度(相手に勝とうという気が強すぎるところ)が問題視され、やはり王肅の偽作だろうということになった。

これに対して陳氏のものは、『孔子家語』と類似する文献を挙げるだけで、どちらがどちらを剽窃したのか、といった下世話な論評は一切なく、淡々と資料を列挙してそれで終わっている。学問的には陳氏の方が良心的だが、学者は衝撃的な方を好むので、おのずと范氏や孫氏の結論が好まれた。

ということで、しばらくの間、『孔子家語』偽作説は学界の定説となっていたのだが、ここ20~30年に中国では出土文献がおびただしく発見され、その調査研究が進むにつれ、戦国時代の文献に『孔子家語』と類似する(と彼らは思ったらしい)ものが発見され、また戦国時期の文献と用語を比較した結果、『孔子家語』の方が『大戴礼』や『説苑』よりも古い(らしい)ことが明らかとなった(と彼らは思った)。そのためこの種のものに関わる人間は、『孔子家語』が『大戴礼』や『説苑』から取材したのではなく、逆に『大戴礼』や『説苑』が『孔子家語』ないしそれに類する古籍から取材したのだ、ということを主張するようになった。

で、学界の大勢はいまだ『孔子家語』偽作派が優勢のようではあるが、本物派の人々は一方的に勝利宣言を出して、もはや『孔子家語』偽作説の根拠はなくなり、その本物であるのは明白になったので、これからは『孔子家語』を『論語』に匹敵する書物として扱い、孔子とその教団の真相を解明していこう、ということを言い出だしているらしい。なかなか自己の所信に忠実なことではある。


前にも書いたけど、ここ十数年で疑古派(古い書物は疑えばいいという考え)はとみに信頼を失い、古いのは正しいらしいという考えが勢力をもつようになった。だから従来ならば、『孔子家語』には疑わしいところがあるらしい→だったら偽書にちがいない→やっぱり偽書だった→偽書以外の結果はあり得ない、となった。

しかし一度このような考えが否定され、古いのは正しいと思うところから出発すれば、論理は顛倒する。すなわち『孔子家語』を疑う人々には根拠がない、なぜなら彼らははじめから疑ってかかって、都合の悪い資料は無視し、都合のいい資料ばかりを集めて議論しているのだから、つまり結論ありきの研究なのだ、だから彼らの発言に根拠はない、偽書説ははじめから成立していない、となる。そして、正しいと信じて『孔子家語』を読んでみたところ、言っていることに矛盾はないし、用語法や出土資料とも合致する、さらには実に素晴らしい古典的性質を備えている、やはり『孔子家語』は本物なのだ、となる。

疑古派もそうでない人たちも、結局、常識で考えて是非の判断を出し得る資料的正当性のないところで議論しているのだから、なんとでも意見は出せるし、相手を否定することもできる。

疑古派の発言が論理的に破綻しているのは言うまでもないが、『孔子家語』が正しいという根拠だって、それほど万全なものではない。

例えば、本物だという人々はこういうことを言う。――もし『孔子家語』が偽書であるならば、偽作者は『説苑』『大戴礼』などの書物から巧妙に取材したことになるが、それにしては齟齬が見られる。孔安國の享年だとか、序文跋文の関係だとか、いろいろ細かいミスが指摘されている。しかし考えてみてほしい、あれほど巧妙に本文を作る人間が、はたしてこんな単純なミスを犯すだろうか。

またこうも言う。――もし王肅が『孔子家語』を作ったのなら、それこそ彼は『孔子家語』から自説に都合の悪い部分を全て削除したか改訂したはずだ。ところが『孔子家語』の王肅注には、ほかならぬ王肅その人が批判しているところがある。これこそ王肅が偽作しなかった理由ではないか。などなど。

確かに『孔子家語』の本文ばかりを眺めていれば、そういう考えも浮かぶだろう。偽書説の根拠ばかりに気を取られて、なんとか本物だと証明しようとすれば、こんな意見が出てきても不思議ではない。

しかしね、本文の作り方が巧妙だとかいうなら、もっともっと後の時代、宋の劉敞は『春秋伝』を作ったとき、三伝から巧みに取材して自分の伝を作った。そこで宋元代には、劉敞の意図するところ、あまりに深淵でよく分からないとまで言う人がいたほどなのだ。しかしその劉敞の『春秋伝』ですら、清人によると、割裂が下手で三伝の真意を汲み取り得ていないとか批判されている。要するに巧みに取材しているのだから、ポカミスなんてあり得ないなんてのは、それ自体があり得ない考えで、むしろよくあることなのだ。

それに王肅じしんが『孔子家語』を批判しているとしても、だからどうしたのだ。そんなものはちょっと頭のいい人間ならだれでもすることだ。よく言うだろ?悪しきセールスマンが商品を売り込むとき、人の言うことを信じやすい人には、商品の利点ばかりを並べるけど、自分が頭いいと思っている人間に対しては、商品の欠点めいたところをわざわざ口にして、相手の批判慾を受け入れてから、改めて商品の素晴らしさを説明するって。それと同じで、「おれは『孔子家語』を偽作してないぜ」っていうアピールをするために、わざわざ『孔子家語』に自説に都合のわるい記事を残すことは、人間なら誰でもすることだ。私だったら絶対するね。

その他、出土文献との関係は、まだ出土文献の発見ブームが終わっておらず、したがって確定的な成果がまだ出ていないこと、比較するといっても余りにも断片的すぎて、本当に比較になっているのか怪しいところがあること等々、まだまだ問題は多い。話題になっているらしい『儒家者言』との比較だって、あれは『孔子家語』だけに一致するのではなく、『説苑』にも重複が見られるのだ。そして『孔子家語』と『説苑』は資料的に類似のものが多いのだ。いや、そもそも『儒家者言』と『家語』では相違が見られるのだから、仮に『家語』が本物でも、必ず両者の間に何か別の書物が介在していなければならない。要するに、まだまだ研究途上のことばかりで、本物か偽作かといったややこしい問題の根拠に使うには時期尚早なのだ。


しかし実のところ『孔子家語』が本物だろうと偽物だろうと、あまり重要ではない。『孔子家語』は前漢あたりに伝わっていた孔子学派のエピソードを集めたものに相違なく、それは比較的古い時代の孔子集団の言行録なのだから、孔子とその弟子を知りたいと願う人々がこの『孔子家語』を繙くならば、手っ取りばやく目的を達することができるだろう。

その意味で、『孔子家語』の真偽はともかく、こういう議論のおかげで諸種の注釈書が出版されるのは喜ばしい。そもそも『孔子家語』を説明するものは、その偽作たることの証明に力を削がれて、書物としての性格すら説明しないありさまだったから、こういう本物だという人が力を持つと、おのずと書物としての面白さにも注目が集まるだろう。だからどうってことはないのだが、『論語』よりも『家語』が好きな私としては、喜ばしい傾向ではある。

『孔子家語』の注釈は、上の楊さんの『孔子家語通解』が力作とされる。伝統的な成果(『家語』の該当条がどの古典と類似乃至一致するか)であれば、范家相『家語証偽』、孫志祖『家语疏証』、陳士珂『孔子家語疏證』の3書が現在でも便利本として知られている。その他、去年、『唐宋類書徴引《孔子家語》資料彙編』が出版され、唐宋時代の引用文献を一望できるようになった。

何はともあれ、学問は激しい論争と意見の対立があってのものだから、このままどんどん啀み合って欲しい。間違っても仲良くみんなで頑張ろうみたいな意味不明なことは止めて欲しいものだ。


(*)書くべきことがないこともないが、まがりなりにも由緒ある『孔子家語』本文を閲読して肯定・否定をしていた宋元代以前および清代以後の学者と異なり、学問の死滅した明代の学者は、『孔子家語』の節略本(および佚文を収拾したもの)しか読まずに議論していた。およそこのような低レベルな人々の意見は聞くに値しない。

やはり次は

孔子家語だな。今日は夕方から家語を調べはじめ、気が付いたら夜中になってた。まぁ調べたといってもネットではあるが、中国はネットに高度(?)な学術論文を載せているので、参考になることが多い。日本の研究はネットに皆無といっていいので、はなから無視することにした。それはともかく、ネットとはいえまともに読んでいると時間もかかるし、まだ調べ終わっていないのだが、うまくまとめた記事があったので、それなりに全体的な流れは了解できたつもりでいる。

しっかし孔子家語は本物だとか言っているのは、どこかの出土資料万歳集団しかいないと思っていたけど、あんがい違うのね。これは勉強になった。まあね、孔子家語はもともと説苑とかなり類似しているから、出土資料と説苑が一致すれば、それだけで孔子家語と一致する可能性は高くなる。だからもし孔子家語が説苑から取材しているのなら、当然孔子家語と出土資料との関係は、孔子家語の真偽を論断するだけの根拠になり得ない。

とはいえ、実際問題、孔子家語の偽作説に論理的な穴があるのも明らかではある。それもそのはず、竹書紀年のように釈文が宋代まで残っていたものはともかく、偽作説の大半は「~のはずだ」とか「論理的に考えて~とならなければならない」という、文献に徴すことのできないものを根拠にしているからだ。もっと言えば、文献に徴し得ないから、論争が起こるのだ。

だからかつての疑古派よろしく古いものはとりあえず疑っておこうとかいう精神がなくなって、古いのはとりあえず信頼できるんじゃね?みたいなノリになれば、そんな穴だらけの偽作説なんかアッサリ無視されるのは当然といえば当然だろう。昨今、疑古派が劣勢なのは言うに及ばず、したがって孔子家語もそれにつられて本物だと論じられるのも、決しておかしいことではない。

かくいう私は孔子家語が本物か否か、よく分からない。偽作だというには余りにも根拠がなく、またあまりに古すぎる。古い時代は何があってもおかしくない。しかしかといって本物かと言われると、偽作説を支持する人々の気持ちも分からないではない。孔子家語は本物というには、あまりにも他書(しかも有名な古典)との重複が多すぎる。重複が多いから偽書だというのは、逆にそれらの有名古典が孔子家語から取材したとも言えるので、結局そこで証明されるのは資料の関係性だけであり、真偽の問題ではなくなる。ただそれにしても重複が多すぎる。

偽書説が穴だらけであり、はじめから家語を疑ってかかっていたというのは、確かにある。しかし疑われるだけのものがあるのもまた否定しがたいのであり、それを偽書説の穴をついて否定してみただけでは、到底偽書説の疑惑はぬぐいされない。もっとも偽書であることを証明することは時に可能であるが、本物たることを証明することは、事実上不可能なので、ここらは何とも難しいところではある。

だからこの種の史料操作で明らかになることは、某々の資料と孔子家語との関係性だけであり、その関係性を高めることでどれほど蓋然性を確かなものにすることはできても、某は是であるとか、某は非であるとかいう、決定的な論断には結びつかない。下手をすれば、関係性をひっくり返して、真反対の学説が同時に資料的根拠と論理的整合性をもって成立することすら充分ありえるだろう。


......いつになく真面目に書いてしまったが、別に孔子家語の真偽などどうでもいいといえばどうでもいい。キャッチフレーズに、孔子家語は本物だ、現在の中国の学界(本場の学界)も大勢は本物説に傾いている、家語は孔子学派の重要文献だ、孔子のことをしるには家語が大事だ、といっておけば「孔子」を売り込もうという人々の商売に影響は出ないし、そもそも家語がはやるか否かは、ことさら本物か偽物かとは関係ないことではあるのだ。歴史の真実など知る必要はどこにもない。政治的な問題でもない限り、嘘を本当だと思っていても何も困らない。

拍手返信

> 孔子家語

あの発言で興味をもってもらえるとは予想外のことで、かえって恐縮してしまいます。

孔丘先生は宋代の学者のおかげで妙に神格化されましたから、『孔子家語』のような俗本を読んで儒学を学ぶのは大事なことです。

兎角人というのは、自分の気に入ったものだけを特別視して、自分の都合のいい解釈をしたがるものですから、自分ではどうすることもできない古典の権威を借りて、そういう妄念を打ち砕くのはたいへん徳のある行いです。

御自身にまとわりついた神秘のベールをはぎ取ってくれる後学が現れたなら、孔丘先生もさぞかしお喜びでしょう。だいたい聖人なんてものは、むかしはたくさんいたのに、いつのまにか堯舜禹湯文武周公孔子くらいになってしまった。大変遺憾なことです。

とはいえ、私は、「満街の人みな凡人」と思っていますので、一部の篤志家の考えには賛同できませんが。

孔子家語

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移動中に岩文の孔子家語(藤原正氏の訳)を読んだ。正直言って、これはないな。いや、決して悪くはない。でも、これではダメだな。

ググってみたら岩文のを読んで苦心した人がいるようだが、当たり前だ。こんなものは大正時代の人間だって読みにくいよ。すらすら読めるとすれば、専門家とか、奇特家とか、そういう変人だけだろう。

岩文の孔子家語は、冒頭の序文と本文第1条目こそ語釈(らしきもの)が付いているが、第2条目からは文字の異同以外に注がほとんどなく、ただ延々と本文の書き下しが並んでいる。孔子家語は漢代以前の古い内容を具えたものだから、言葉が難しい。読み下しと若干の補足だけでは、とても健全な紳士淑女には読めないだろう。

同時に持ち歩いていた岩文の『孔子伝』(史記の孔子世家と孔子弟子列伝、および史記の他の孔子関係部分をあわせたもの)は、同じ著者の手になるものだが、こちらはそこそこ細かい注が付いていて、古いのが好きな人なら読める程度のものになっていた。孔子家語は手を抜いたのだろうか。

もう一つ、訳者はやたらと蜀本をもちいて文字を校正しているけど、それなら最初から由来の正しい蜀本をテキストにしたらいいんじゃないのか?なぜわざわざ四部叢刊本をテキストにするのだ。意味がわからん。

ああ、でも悪いものじゃない。読みやすくなるように作られているようには感じる。でも、書き下しだけで極力注釈を省いたものは、やはり読みにくい。


ちなみに「孔子家語」とは、「孔子学派の言葉」の意で、『論語』の残り糟として知られている。昔から物議を醸した書物ではあるが、孔子とその弟子の言動を知るには便利な本であることに相違なく、私は『論語』よりも『家語』の方が読んでいて楽しい。――孔子は権力を握ったとたんニヤニヤしだしたとか、反対派を粛清したとか、自分さえ正しければ、うまくいかないのは全部世の中のせいだとか、人類の師たる聖人孔子を学ぼうとする人間にはもってこいの内容と言えるだろう。

なんとなく読んでしまったので、感想がてら書いておく。みなさまもぜひ本書をひもといて聖人孔子の素晴らしさと岩文の不親切さを堪能していただきたい。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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